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「え、えーと」
大使館の中の奥まった一室。居間らしくしつらえた部屋で、立派なソファーセットなど
揃って居心地はよさそうなのだが、とにかく異様な雰囲気が漂っていた。反町が入って来
るなり、室内では無言の行が始まったらしいのだ。
「あのー、どうもこんばんは」
とうとう我慢しきれずに反町は自分から話しかけてしまった。前には、黒いアバーヤ姿
の女性が座っている。顔はもちろん、手足も見えない。このうえ無言でいられては、生き
た人間相手なのかどうか自信をなくすというものだった。
「失礼な真似をしてすみません。ちょっと人を捜してまして…。あの、さっき俺のこと、
アリって言いましたよね。てことはアネカのおバアちゃんがこちらに来てるのかなーって
思って…」
反町の自信なさそうな言葉に対して、返事はいきなり返ってきた。
「お会いできて嬉しく思います」
「は、はあ」
ようやく発せられた言葉は、驚くほど正統派の英語だった。
「リースからあなたのことは聞きました。この間もここの者たちが乱暴を働いて、大変気
の毒なことをしてしまいましたね。許してください」
「えっ、えーと。どこまで事情が通じてるのかな」
リースとは、たぶんアネカのお祖母さんの名前なのだろう。どうやらこのご婦人はお祖
母さんと知り合いということになるらしい。
「おバアちゃんは、今ここにいるんですね」
「ええ、彼女がここに来たのは二度目です。私の夫に直談判に来たのです。でも一度目は
夫も私も留守にしている間のことでした。会議の準備のために一時帰国していましたか
ら。あなたが捕らえられてきたちょうどその日のことですよ。リースはあなたが逃げた後
で、後を追って助けたようですね」
「えっ、えーっ? あの時、おバアちゃんがここにいた? 俺を拾ったのは偶然じゃなか
ったっていうことですか?」
「神の御旨です」
アルハムドリッラー、というその言葉を、反町はアネカから聞いたことがあった。偶然
というものはイスラム教徒にはないのだ、とアネカは説明していた。アッラーがすべてを
導く。嬉しい時も辛い時も、それをもたらしたのはアッラーであり、それを感謝して受け
入れる、という意味なのだと。もっとも反町は『ごちそうさま』の時に真似て言っていた
だけだったのだが。
「そしてあなたに再会できたのも神の御旨。――アリ、本当に、大きくなりましたね」
「はい〜?」
反町は思わず声が裏返ってしまった。いきなり、こんな場所でこんなことを言われる心
当たりはない。
「ああ、そうですね。あなたはまだ幼かったですものね」
大使夫人と思われるその女性は、かぶっていたアバーヤをすっと外した。
「そのピアスをよく見せてくださいな」
顔を現わした夫人は、年齢的にはアネカのお祖母さんよりもかなり若かった。中近東の
女性によく見るような彫りの深い顔立ちでぽっちゃりと肉付きがよく、目のくっきりとし
た化粧が印象的だった。
「――ああ、本当に王家の『夜の瞳』ですね。ここに捕らえられてきた子がつけていた
と、夫の部下たちが騒いでいましたが。これは、王家の者しか身に着けることのないもの
ですから驚いたのは無理ありません。姫が、別れ際にあなたに託したものですね、おそら
くは」
「王家! 姫…?」
絶句、としか形容できないようなショックだった。
「俺、そんなアラビアンナイトみたいなとこにほんとにいたんですか? あ、あの、アリ
ってのが…」
「ええ、あなたのことをアリと私たちは呼んでいました。私と姫は国境で隔てられてはい
ても元は同じ首長家の家系です。幼い頃に相前後してヨーロッパで教育を受けました。私
は何度か国元の姫を訪ねて、あなたとも会っているのですよ」
「そんなこと、言われても…」
反町の当惑をよそに、夫人は話を続けた。
「私は今回の会議で何ごとか計画が進んでいることを一切知りませんでした。夫が部下に
何を命じ、そしてあなたをどうするつもりだったのかも。でも、リースが残していった手
紙を読んで、私なりに調べてみたのです」
「はあ」
反町はまだどこか上の空だった。
「今回の国際会議ではわが国はやや微妙な立場にあります。今日到着した首席代表を始め
とする訪問団の一行には政府の高官が何人か加わっていますが、その中の一人が主人と何
かを下準備していたようです。あなたは、そのための道具にされることになっていたので
すね」
「人違いでね」
反町は心の中で付け加えた。
と、その時ノックの音がした。反町は振り向いて大きく目を見開く。
「おバアちゃん!」
「――アリ」
「もう、心配したんだぜ」
反町の日本語にうなづきながらお祖母さんが部屋に入って来た。テレパシーは健在らし
い。しかしお祖母さんは、気ぜわしそうに大使夫人に向かって何事かを訴えた。大使夫人
も表情を変える。
「オフィスのほうで何か騒ぎになっているようです。ちょっと待っていてくださいね」
夫人は反町に断っておいてから内線電話をとった。やりとりが何か緊張した様子だ。
「まさか、光のやつが待ちきれないで殴り込みをかけてきたんじゃないよな…」
反町は心の中であせり始める。夫人は受話器を置いた。
「今、レセプション会場からの緊急の連絡が入ったそうです。爆弾テロが起こって、わが
国の代表団も巻き込まれたとか。夫と首席代表は無事らしいのですが、何人かは負傷した
という情報もあって…」
ドシン、という大きな音と共にドアが開いた。何かが転がり込む。
「テロだって? 嘘だろ!」
「光!? なんだよ、おまえ…!」
噂をすれば…と言うには派手すぎる登場だった。しかし松山はご婦人方を驚かせたこと
を反省する様子もなく、頭をかいていた。
「いや、ばあちゃんが歩いてるのが見えたんで追っかけてきたんだけど…」
「まあ、アリが二人…?」
大使夫人はただあっけにとられている。
「それよりおばさん、テレビ、テレビ見ましょう!」
反町ももうおばさん呼ばわりである。
テレビでは、臨時ニュースに切り替わったスタジオでアナウンサーが早口でしゃべって
いた。まだ生の映像は届いていないらしい。
「死者負傷者の数は不明だと言っています」
夫人は落ち着かない様子でアバーヤを巻き直した。これから駆けつけるにしても、悪く
すれば病院になるかもしれないのだ。
「行こう、俺たちも! 淳が行ってるんだ、そこ!」
「なんだって?」
反町は唖然とした。もうどんな所に行っても自分の身内がいるのでは…という強迫観念
にとらわれそうになる。
「まさか、淳がテロに加わってるとか?」
「バカ! おまえの親父さんに会いに行ったんだよ!」
「うっそー!?」
その強迫観念がますます強まりそうな状況だった。
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