8章ー3















「え、えーと」
 大使館の中の奥まった一室。居間らしくしつらえた部屋で、立派なソファーセットなど 揃って居心地はよさそうなのだが、とにかく異様な雰囲気が漂っていた。反町が入って来 るなり、室内では無言の行が始まったらしいのだ。
「あのー、どうもこんばんは」
 とうとう我慢しきれずに反町は自分から話しかけてしまった。前には、黒いアバーヤ姿 の女性が座っている。顔はもちろん、手足も見えない。このうえ無言でいられては、生き た人間相手なのかどうか自信をなくすというものだった。
「失礼な真似をしてすみません。ちょっと人を捜してまして…。あの、さっき俺のこと、 アリって言いましたよね。てことはアネカのおバアちゃんがこちらに来てるのかなーって 思って…」
 反町の自信なさそうな言葉に対して、返事はいきなり返ってきた。
「お会いできて嬉しく思います」
「は、はあ」
 ようやく発せられた言葉は、驚くほど正統派の英語だった。
「リースからあなたのことは聞きました。この間もここの者たちが乱暴を働いて、大変気 の毒なことをしてしまいましたね。許してください」
「えっ、えーと。どこまで事情が通じてるのかな」
 リースとは、たぶんアネカのお祖母さんの名前なのだろう。どうやらこのご婦人はお祖 母さんと知り合いということになるらしい。
「おバアちゃんは、今ここにいるんですね」
「ええ、彼女がここに来たのは二度目です。私の夫に直談判に来たのです。でも一度目は 夫も私も留守にしている間のことでした。会議の準備のために一時帰国していましたか ら。あなたが捕らえられてきたちょうどその日のことですよ。リースはあなたが逃げた後 で、後を追って助けたようですね」
「えっ、えーっ? あの時、おバアちゃんがここにいた? 俺を拾ったのは偶然じゃなか ったっていうことですか?」
「神の御旨です」
 アルハムドリッラー、というその言葉を、反町はアネカから聞いたことがあった。偶然 というものはイスラム教徒にはないのだ、とアネカは説明していた。アッラーがすべてを 導く。嬉しい時も辛い時も、それをもたらしたのはアッラーであり、それを感謝して受け 入れる、という意味なのだと。もっとも反町は『ごちそうさま』の時に真似て言っていた だけだったのだが。
「そしてあなたに再会できたのも神の御旨。――アリ、本当に、大きくなりましたね」
「はい〜?」
 反町は思わず声が裏返ってしまった。いきなり、こんな場所でこんなことを言われる心 当たりはない。
「ああ、そうですね。あなたはまだ幼かったですものね」
 大使夫人と思われるその女性は、かぶっていたアバーヤをすっと外した。
「そのピアスをよく見せてくださいな」
 顔を現わした夫人は、年齢的にはアネカのお祖母さんよりもかなり若かった。中近東の 女性によく見るような彫りの深い顔立ちでぽっちゃりと肉付きがよく、目のくっきりとし た化粧が印象的だった。
「――ああ、本当に王家の『夜の瞳』ですね。ここに捕らえられてきた子がつけていた と、夫の部下たちが騒いでいましたが。これは、王家の者しか身に着けることのないもの ですから驚いたのは無理ありません。姫が、別れ際にあなたに託したものですね、おそら くは」
「王家! 姫…?」
 絶句、としか形容できないようなショックだった。
「俺、そんなアラビアンナイトみたいなとこにほんとにいたんですか? あ、あの、アリ ってのが…」
「ええ、あなたのことをアリと私たちは呼んでいました。私と姫は国境で隔てられてはい ても元は同じ首長家の家系です。幼い頃に相前後してヨーロッパで教育を受けました。私 は何度か国元の姫を訪ねて、あなたとも会っているのですよ」
「そんなこと、言われても…」
 反町の当惑をよそに、夫人は話を続けた。
「私は今回の会議で何ごとか計画が進んでいることを一切知りませんでした。夫が部下に 何を命じ、そしてあなたをどうするつもりだったのかも。でも、リースが残していった手 紙を読んで、私なりに調べてみたのです」
「はあ」
 反町はまだどこか上の空だった。
「今回の国際会議ではわが国はやや微妙な立場にあります。今日到着した首席代表を始め とする訪問団の一行には政府の高官が何人か加わっていますが、その中の一人が主人と何 かを下準備していたようです。あなたは、そのための道具にされることになっていたので すね」
「人違いでね」
 反町は心の中で付け加えた。
 と、その時ノックの音がした。反町は振り向いて大きく目を見開く。
「おバアちゃん!」
「――アリ」
「もう、心配したんだぜ」
 反町の日本語にうなづきながらお祖母さんが部屋に入って来た。テレパシーは健在らし い。しかしお祖母さんは、気ぜわしそうに大使夫人に向かって何事かを訴えた。大使夫人 も表情を変える。
「オフィスのほうで何か騒ぎになっているようです。ちょっと待っていてくださいね」
 夫人は反町に断っておいてから内線電話をとった。やりとりが何か緊張した様子だ。
「まさか、光のやつが待ちきれないで殴り込みをかけてきたんじゃないよな…」
 反町は心の中であせり始める。夫人は受話器を置いた。
「今、レセプション会場からの緊急の連絡が入ったそうです。爆弾テロが起こって、わが 国の代表団も巻き込まれたとか。夫と首席代表は無事らしいのですが、何人かは負傷した という情報もあって…」
 ドシン、という大きな音と共にドアが開いた。何かが転がり込む。
「テロだって? 嘘だろ!」
「光!? なんだよ、おまえ…!」
 噂をすれば…と言うには派手すぎる登場だった。しかし松山はご婦人方を驚かせたこと を反省する様子もなく、頭をかいていた。
「いや、ばあちゃんが歩いてるのが見えたんで追っかけてきたんだけど…」
「まあ、アリが二人…?」
 大使夫人はただあっけにとられている。
「それよりおばさん、テレビ、テレビ見ましょう!」
 反町ももうおばさん呼ばわりである。
 テレビでは、臨時ニュースに切り替わったスタジオでアナウンサーが早口でしゃべって いた。まだ生の映像は届いていないらしい。
「死者負傷者の数は不明だと言っています」
 夫人は落ち着かない様子でアバーヤを巻き直した。これから駆けつけるにしても、悪く すれば病院になるかもしれないのだ。
「行こう、俺たちも! 淳が行ってるんだ、そこ!」
「なんだって?」
 反町は唖然とした。もうどんな所に行っても自分の身内がいるのでは…という強迫観念 にとらわれそうになる。
「まさか、淳がテロに加わってるとか?」
「バカ! おまえの親父さんに会いに行ったんだよ!」
「うっそー!?」
 その強迫観念がますます強まりそうな状況だった。












「あの野郎、明日試合だってことまったく考えてないな」
「いつもそうですから驚くことはありませんよ」
「しかしだな…!」
 他の選手の士気にかかわる、なんてことは口が裂けても言えない日向だった。なにしろ 試合スケジュールなどそっちのけでいきなり特訓に出掛けたりした過去を山ほど持つ身で は。
「とにかく、俺に黙って出掛けるとは許せねえ」
 日向の憤りは実は外出したことそのものへではなく、現地系列会社の役員扱いで政府の パーティに出席…というのがどうも感覚的に納得がいかないらしい。
「大体、なんでタキシードなんか用意できるんだ、あいつは」
「まあ、三杉ですからね」
 若島津でなくとも、『三杉なら無理もない』『松山だからしかたない』というのはチー ムメイトたちの口癖になっていた。諦めないのは日向と、それに翼くらいのものである。
 夕食前に、三杉は正装で出掛けて行った。松山も出先で合流して一緒に出席するのだと いう三杉の言葉で、松山の不在への一応の言い訳ができたことになり、チームに動揺を与 えることはとりあえず避けられた。なにしろ松山は明日の試合ではスタメンなのだ。
「日向さん」
 開いたままのドアから、沢田タケシがそーっと呼び掛けた。
「ああ、翼はどうだ?」
 一日ベッドにいて熱もほとんど下がった翼だが、今は南葛メンバーが看病、いや監視し ている。同室のタケシは追い出されたかっこうになるが、気にするふうもなく連絡係を買 って出ているのだ。
「反町さんと松山さんのことがやっぱり気になってるみたいです。石崎さんたちがなんと かごまかしてましたが」
「石崎じゃいずれボロが出るな。いっそ本当のこと言っちまったらどうです」
「本当のことって何なんだ」
 一度は連絡が取れたという二人だがホテルに戻るはずが煙と消え、それを迎えに行くと 言って三杉も出て行った。国際会議のレセプション・パーティとあの二人の回収がどう関 係あるのか、彼らにはまったく説明なしだった。
「大体あいつら、今晩中に戻ってくる気あるんだろうな」
「当てになりませんね、それは」
「試合はどうするんだ!」
 日向は拳を振り回した。
「しかも、試合を午前に繰り上げだなんて、前日になって変更するか、普通?」
「しかたないですね、それも。安全のためなんですから」
「あのー、テロの予告って、本当なんですか?」
 タケシが心配そうに尋ねる。今日一日、その噂でもちきりだったのである。
「オリンピック予選が狙われてるわけじゃないだろうが、一応会議の期間中とその前後は どこも注意が必要だ、ってことだ。スタジアムだって例外じゃない」
「でも、明日の試合にはどこかの国の偉い人が招かれてるとか聞きましたけど」
 若島津の説明にもタケシは不安を打ち消し切れない様子だ。
「まあ、あいつらのことをこれ以上考えてもしょうがねえ。俺たちは体力温存だ。今日は 早めに寝ちまおう」
 日向は勝手に結論を出して立ち上がる。しかし、そう簡単には運ばなかったのである。
「日向!」
 廊下を駆ける音が響いた。立花兄弟が青い顔で部屋に飛び込んで来る。
「テレビつけてみろ! 今、臨時ニュースが…!」
 あちこちの部屋で同じ騒ぎが広がっていた。言葉がわからないなりに異国情緒あふれる テレビ番組を面白がって見ていた彼らだったが、第一報のうちはそれが何を意味するのか わからずにいたのだった。
「ホテルで爆弾テロ? 死傷者が出てるって?」
 しかしニュースが定時番組を完全につぶし、現場の映像が流れ始めると、さすがに彼ら もあわて出した。英語音声に切り替えた立花たちは、事件の内容がようやく飲み込めたと ころで一目散に飛んで来たのである。
「み、三杉たちが行くって言ってた会場じゃないのか、これ?」
「なんだとぉ!?」
 日向は文字通り画面に食いついた。現場はまだかなり混乱している模様だ。高層のホテ ルの外観が何度も映し出されるが、これは保安当局の報道規制のためらしく、爆発が起き たというロビー近辺はおろか、ホテルに近寄っての映像はほとんどなかった。
「今、ホテルの名前が見えてましたよね…」
「間違いなく例のホテルだ」
 若島津の無情な断定に、日向の表情がいよいよ険しくなった。
「ど、どうしましょう…」
 タケシはおろおろと部屋の中を動き回る。立花兄弟も廊下で他の者たちと不安げに情報 交換をしていた。
「俺たちがバタついてもしょうがねえ。監督とも相談してまずは正確なとこを確認しねえ と…」
「そうですね」
 日向にしては穏当すぎる見解だったが、若島津はうなづいた。
「少なくともあいつらが起こした事件じゃないことを祈りましょう」
「う…っ!」
 日向は廊下に飛び出そうとして硬直する。武道の腕のさらに上を行く若島津の性格は、 日向にも抗しがたいものがあった。
「でも、翼には聞かせたくなかったですね」
 廊下を行きながら、二人は翼の部屋をちらりと見やった。ドア越しに、中からはやはり 緊迫したやりとりが聞こえる。
「…ああ、そうだな」
 翼は、どんなふうにこの事件を聞いていたのだろうか。









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