8章ー2















 ジャカルタ一の大通りタムリン通りに沿って北へ向かうと、前方にはライトアップされ た高い塔がくっきりと見える。これがジャカルタ観光のランドマーク、独立記念塔モナス である。モナスという名は何のことはない、「モニュメント・ナショナル」の頭の部分を 繋げた略称だ。このモナスが建っている広大な公園がムルデカ広場で、そのすぐ東にはイ スラムの大寺院とカトリックの大聖堂が仲良く隣り合っているあたり、さすがと言うべき か。
 そのムルデカ広場に面した高級ホテルが、今夜のレセプション会場となっていた。三杉 はタクシーを降りると、会場に向かう前にフロントに立ち寄った。
「今夜来ている報道プレス各社のリストはこちらにありますか? 探したい人がいるんで すが」
 三杉がパーティの招待客であることを確認した上で、フロント担当者はプレスリストを 持って来た。このロビーにしても、何人もの私服警官や軍の警護班がさりげなく立って目 を光らせている。まだ会議本番でないにせよ、テロ対策は万全でなければならなかった。 産油主要国からのVIPが多数顔を見せるとなると、こればかりは注意しすぎということ はない。
 三杉はリストの中に目指す通信社の名前を見つけた。が、社名のみで取材者の名が空白 になっている。
「もしかすると、取材は急ごしらえだったのかな…」
「おやあ、そこにいるのはわが息子!」
 背後から、いきなり明るい声が浴びせかけられた。日本語である。
「――になりそこねた三杉くん、じゃないか」
「いったい、何ですかそれは」
 三杉はやれやれといったふうに肩を落とすと、歩み寄って来た反町氏に手を差し出し た。
「うちで話を聞かされてね。ほら、先々月の東邦の大騒動さ。君たち4人が全員自分の子 供なんかだったらさぞ壮絶だろうって、うちの奥さん誉めてたぞ」
 ぱっと見た印象は小柄で背丈は三杉とほぼ同じか少し低いくらい。快活そうな目を除け ば、確かに反町とはあまり似ていない。外見だけならやっぱりあの母親のほうがはるかに そっくりなのに…と、三杉は密かに確認していた。
「それはどうも。あなたにはぜひお会いしたかったんです、お父さん」
「そりゃまたどうして…?」
 ジャーナリストの嗅覚が何かをささやいたのだろう。反町氏は同行のカメラクルーと別 れると、三杉についてきた。
「お父さんが昔クウェートにいらした時のお話を、ぜひ聞かせてください。いきなりで申 し訳ないんですが」
「一樹に何かあったのか?」
 反町氏はホールの前まで来て足を止めた。
「実は、人違いでB国の大使館に連行されるということが起きてしまって。あ、すぐに開 放されましたけれど」
 人違いされるよう仕組んだ経緯がないでもなかったのだが、まあここは方便と言うこと で。
「関係者に当たってみるうちに、どうもお父さんの以前の知り合いらしい人物が絡んでい る…という話になってきたんですよね。一樹は当時のことは覚えていないと言ってます し、あとはお父さんに伺うしかないんです」
「なるほど」
 反町氏は妙に軽くうなづいた。もっと最悪なことを予想していたのかもしれない。
「まあ君たちのことだから、既にある程度は情報を集めてるんだろうな」
「はい?」
 しかし反町氏の反応はどこか常人とは違っていた。
「それで俺の顔をまじまじ見ていたのかあ。奥さんのことも、気にして比べてたんだろ」
「おっしゃる通りです」
 こういう人物相手には素直になるしかない、と三杉は腹を決めたようだ。
「僕たちはあなたが外務省の書記官だったことを初めて知りました。再婚なさってたこと もです。でも、そのことは直接今回の事件とは関係ありません。フランスで一人の女性が この件で動いています。この人物のことを、あなたの口から聞きたいんです」
「やれやれ」
 反町氏は苦笑しながら頭をかいた。
「俺の知らないことまで調べ上げたとは参ったな。君はそれでほんとにサッカー選手かね え」
「そのつもりですよ。ジャカルタまで来たのも」
 まだ17才のはずの相手を改めて上から下までじっくり眺めてしまう。こういう国賓級 の出席者の混じるパーティに正式招待されてもまったく違和感のない品位を保っているあ たり、確かに普通の高校生、あるいはオリンピック代表のサッカー選手とは見えないだろ う。
「まず、君の言う俺の昔の知り合いというのはラウラ王女のことかな? フランスにいた とは初耳だが」
「名前や出身はわかりません。14年前のクーデター事件の時に処刑されたことになって いますが、実際は国外に逃れて現在はフランスに住んでいます」
「なら間違いなさそうだな。ラウラ・ハッダーマ王女。フルネームは忘れたが、とにかく サウジの小首長国の王族だ。あの頃ハタチそこそこだったかな。美人だったぞ」
 ニッと笑って親指を立ててみせる。三杉は思わず一歩引きそうになった。
「ええと、岬くんはご存じですよね。僕らと同じオリンピック代表の」
「ああ、別の肩書きのほうでもよく知ってるよ。欧米の政治・外交問題では何かと名前が 出てくるからな」
 何かと出てくるような場所は限られているはずだが、この調子なら限られた場所にもし っかり首を突っ込むタイプのジャーナリストだということになる。
「彼が新しい研究をしている中で、その女性の名前に行き当たったんだそうです。フラン ス軍需産業の中の重要な位置を占める人物として」
 ついついまわりくどい表現になってしまうのは、やはり反町氏とその人物とのプライベ ートに踏み込むのでは、という遠慮があったからだった。
「おいおい、えらく物騒なほうに話が転がりかけたな」
 しかし、その当人は楽しげに目を輝かせている。プロ意識なのか、単に性格ゆえか。
「なーるほど、そうか。一樹はその岬くんと間違われたってことなんだな。――おや?」
 その反町氏の視線が、三杉を通り越してロビーの向こうに釘付けになった。
「おいでなすったな。……ああ、ちょっと失礼するよ。あいつに取材するためにはるばる 来たんでね」
 正面エントランスに人垣ができていた。フラッシュが閃き、アラブの正装、ディスダー シャ姿の人物が何人か見える。ちょうど今ホテルに到着したらしい。
 反町氏はカメラクルーに合図して速足で近づいた。三杉も何ごとかと後を追う。
 人垣の中心にいるのは堂々としたヒゲをたくわえた人物で、取材陣もそちらに集中して いる。しかし、反町氏が呼び止めたのは一行の中にいた別の男だった。
「やあ、ナイーフ・ビン・ジャビル・アル・ファワズ」
「ほう、これは驚いた。まだ私の名前を覚えていたのか」
 反町氏とほぼ同年代という感じのその男は、本当に驚いたという顔で両手を広げた。こ ちらも立派な英語である。
「あいにくと、こちらから君を訪ねることができなかったんでね、こうして待ち伏せでき る日をずっと待っていたのさ」
「何か、用事でもあるのかね?」
 男の笑顔はそのままだった。
「用事というほどじゃないが、礼を言おうと思ってな。ラウラが俺と国を出ようとしたあ の時、そのことをわざわざ軍に通報してくれた奴がいたらしいが、俺は後でそいつの名前 を突き止めたんだ」
「外交官など辞めたいと言っていたのは君のほうだったと記憶しているが?」
「だから礼を言っているのさ。だが、ラウラのほうは追われて銃撃され、重傷を負った。 彼女なら、礼を言う気になれるかどうか」
 そこで初めて、ナイーフ氏は微かに眉を寄せた。
「彼女は死んだと聞いていたが…?」
「さあ、別れ別れになったから俺は知らん。とにかく俺は今やカタギのジャーナリスト だ。言いたいことを言って、書きたいことを書ける立場になったってわけさ」
「何の証拠もない。そうだな、ソリマチ」
 ナイーフ氏は穏やかな表情のまま、まっすぐに反町氏を見つめた。
「だが証人ならいるぞ。俺の目の前に」
「馬鹿な!」
 挑発の言葉に、ナイーフ氏は笑い出した。
「第一、今になってそんなことに耳を貸す者がどれだけいると言うんだ。あんな事件は珍 しい話でもない。個人的な恨みで蒸し返したところで無駄だよ」
「そうでもないぞ。俺も知らないうちにしっかり調査している連中がいてな。ほら、そこ にいるだろ」
「えっ?」
 数メートル離れて様子を見ていた三杉に、両者の視線がさっと向けられる。その不意討 ちに三杉は思わずぴんっと背筋を伸ばしてしまった。
「ミサキ? …まさか」
「まあ、そんなとこかな。ふっふっふ」
「やめてください、お父さん。これ以上人違いはごめんです」
 三杉は本気で抗議した。不本意以外の何ものでもない、という勢いで。
「なにっ!?」
 その時、ロビーの向こうで突然騒ぎが起こった。人が駆け、大声が飛び交う。
「三杉くん、伏せろっ!」
 反町氏の叫びとほぼ同時に、大きな爆発音がとどろいた。建物全体が激しく揺れる。地 震の縦揺れと横揺れが同時に起きたようなショックだった。その瞬間照明が暗くなった が、すぐに予備照明に切り替わった。四方から顔色を変えて人が駆けつけて来る。
「……大丈夫か?」
「ええ、叫んでくださらなければ飛ばされてましたよ。よくとっさにわかりましたね、爆 弾だって」
 姿勢を低くして耳を押さえていた三杉が体を起こした。
「連中が向こうで叫んでたからな。インドネシア語とアラビア語で」
「わかるんですか?」
 元外交官なら英語は当然だが、その後のキャリアでスペイン語もものにした反町氏がさ らにいくつかの言語をマスターしているとは…。
「なに簡単さ。『危ない、動くな!』だけ、各国語でわかるように覚えたんだ」
 それはそれで究極の実用語学力かもしれない。ちなみに英語とスペイン語がわかれば世 界のほぼ大部分がカバーできるということだから、反町氏のフットワークも納得できると いうものだった。
「早く逃げましょう。まだ爆弾があるかもしれないって言ってますよ!」
 まだ床に伏せたままだったカメラクルーのお兄さんが顔を引きつらせている。見ればナ イーフ氏も自分の仲間のほうへ駆けつけていた。ミサキに構っている暇はないのだ。
「お父さん、なんだかロマンスの匂いがしますよ」
「おいおい、こんな時に何を言い出すんだ。俺は赤道越えて飛んできたばかりなんだぞ。 年寄りはいたわってくれなきゃ」
 反町氏は苦笑いしながら立ち上がった。ホテルの従業員たちが青い顔で誘導を始めてい る。
「お城の舞踏会なんて、いいことだけじゃないんだよ、光」
 誰も聞いていない独り言だった。









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