第8章
オール・イン・ワン
1
◆
深夜近くになって、岬に呼び出しがかかった。
「こんな時間に?」
「はい、恐れ入ります」
執事はいつもに増して無表情だった。夕方の、あのうろたえ方が信じられないほどに。
「ご苦労さま。E・S社総務部から報告が来たわ。課題を、完璧にクリアしてくれたそう
ね」
ル=ヴォワニー夫人は1階の書庫で待っていた。書庫にはあまり似つかわしくない大き
な安楽椅子に座っている。執事は岬を案内して来ると、いつもと違ってドアの内側に控え
た。
「あれでお役に立てたなら、よかったです」
岬は勧められた椅子には座らずに、書庫の膨大な数の書物棚を見回しながら無愛想に答
えた。
「自分のリサーチはしっかり進めながら、片手間にやってしまうなんて、さすがね」
執事は多少とも岬への警戒を強めたかもしれなかったが、夫人のほうの表情は、あの時
庭園で見せた狼狽はもうかけらも感じさせなかった。
「監視なさってたのは知ってましたよ」
「ジャカルタまで調査が進んだってことは、あの文書はもう目にしているわね、岬」
「双つ身の天使、ですか。悪趣味な名前ですよね」
旧約聖書の創世記の一節。神の怒りに触れて滅ぼされた堕落の都ソドムとゴモラ。そこ
に住むロトの家族を唯一の例外として逃がした上で、容赦なく「火と硫黄」を降らせた二
人の御使い(みつかい)。それがこの文書のタイトルである。
「私の趣味でもないわ」
「そうでしょうか」
岬はわずかに目を細めて夫人を眺めた。
「僕がジャカルタにいると吹き込んで、解読させろなんて命じてみせたんです。それだけ
厄介なシロモノのはずです」
「あら、あなただってジャカルタにいると自分で偽装したでしょ。指示は間違っていなか
ったと思うけれど。それより、本当はいないはずのジャカルタに、あなたがもう一人いた
のはどういうイタズラだったのか、それを知りたいわね」
いったんは手に落ちた「ミサキ」は姿を消してしまった。パリで本人が誘拐されたのと
ほとんど時を同じくして。
「分身の術」
岬は日本語でつぶやいて一人で苦笑した。ヨーロッパの人間が陥りやすい東洋への幻
想。この夫人にどこまでそれが当てはまるかはわからないが。
「じゃあ、こちらはどうかしら」
答えようとしない岬を、夫人は黙って見返した。
「2ヵ月前に米国国防省にハッカーが侵入して騒ぎを起こした事件があったわ。世間には
大きく報道されなかったけれど。あなたはそのハッカーとも繋がりがあるんでしょう?
あなたがE・S社への侵入に使ったワームホールの一つが、その時のゲートウェイとかぶ
っているという報告があるの。あの侵入自体はあなたの仕業じゃないようだけれど、こう
なると偶然だなんてことはないわね。どういう関係か、教えてもらえるかしら」
「珍しくストレートな質問ですね。それってただの好奇心で聞いてるんじゃないですよ
ね。もう一人、ボクのように飼い慣らそうってわけですか」
「単なる興味、じゃ駄目かしら」
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