8章ー1






第8章
オール・イン・ワン











 深夜近くになって、岬に呼び出しがかかった。
「こんな時間に?」
「はい、恐れ入ります」
 執事はいつもに増して無表情だった。夕方の、あのうろたえ方が信じられないほどに。
「ご苦労さま。E・S社総務部から報告が来たわ。課題を、完璧にクリアしてくれたそう ね」
 ル=ヴォワニー夫人は1階の書庫で待っていた。書庫にはあまり似つかわしくない大き な安楽椅子に座っている。執事は岬を案内して来ると、いつもと違ってドアの内側に控え た。
「あれでお役に立てたなら、よかったです」
 岬は勧められた椅子には座らずに、書庫の膨大な数の書物棚を見回しながら無愛想に答 えた。
「自分のリサーチはしっかり進めながら、片手間にやってしまうなんて、さすがね」
 執事は多少とも岬への警戒を強めたかもしれなかったが、夫人のほうの表情は、あの時 庭園で見せた狼狽はもうかけらも感じさせなかった。
「監視なさってたのは知ってましたよ」
「ジャカルタまで調査が進んだってことは、あの文書はもう目にしているわね、岬」
「双つ身の天使、ですか。悪趣味な名前ですよね」
 旧約聖書の創世記の一節。神の怒りに触れて滅ぼされた堕落の都ソドムとゴモラ。そこ に住むロトの家族を唯一の例外として逃がした上で、容赦なく「火と硫黄」を降らせた二 人の御使い(みつかい)。それがこの文書のタイトルである。
「私の趣味でもないわ」
「そうでしょうか」
 岬はわずかに目を細めて夫人を眺めた。
「僕がジャカルタにいると吹き込んで、解読させろなんて命じてみせたんです。それだけ 厄介なシロモノのはずです」
「あら、あなただってジャカルタにいると自分で偽装したでしょ。指示は間違っていなか ったと思うけれど。それより、本当はいないはずのジャカルタに、あなたがもう一人いた のはどういうイタズラだったのか、それを知りたいわね」
 いったんは手に落ちた「ミサキ」は姿を消してしまった。パリで本人が誘拐されたのと ほとんど時を同じくして。
「分身の術」
 岬は日本語でつぶやいて一人で苦笑した。ヨーロッパの人間が陥りやすい東洋への幻 想。この夫人にどこまでそれが当てはまるかはわからないが。
「じゃあ、こちらはどうかしら」
 答えようとしない岬を、夫人は黙って見返した。
「2ヵ月前に米国国防省にハッカーが侵入して騒ぎを起こした事件があったわ。世間には 大きく報道されなかったけれど。あなたはそのハッカーとも繋がりがあるんでしょう?  あなたがE・S社への侵入に使ったワームホールの一つが、その時のゲートウェイとかぶ っているという報告があるの。あの侵入自体はあなたの仕業じゃないようだけれど、こう なると偶然だなんてことはないわね。どういう関係か、教えてもらえるかしら」
「珍しくストレートな質問ですね。それってただの好奇心で聞いてるんじゃないですよ ね。もう一人、ボクのように飼い慣らそうってわけですか」
「単なる興味、じゃ駄目かしら」
「言葉通りには受け取れないなあ」
 軽く頭を振って夫人の視線を外し、岬はまた書棚を見上げた。
「代表者会議に与えようとしてる刺激が何なのかはわかりませんけど、ジャカルタのB国 大使館にボクの誘拐をそそのかしたり、勢力争いの力関係にあえて波乱を起こすようなエ サをばらまいたり――これで他意はない、とは言わせませんよ」
 書棚の本の一冊の背表紙に手を伸ばし、岬はタイトルを指ですっとなぞる。フランス、 という金の飾り文字が部屋の照明に一瞬点滅したように見えた。
「E・S社の利益でも、フランス政府への忠誠でもなく、かと言って特定のどこかの国や 勢力への加担でもない。――むしろ、誰にもどこにも肩入れをしない、全てへの背信であ り裏切りの行為だ。これにボクを引き込んで、さらに何をさせようというんです」
 振り返らなかったのは、答えを期待していなかったからだ。岬は書棚から離れ、窓のほ うへ移動する。闇の向こうに静まる中庭のシルエットを背に、そこで岬はこちらに向き直 った。夫人はやはり岬からは視線を外したまま、安楽椅子の上で静かに息を吐き出した。
「あなたが見つけ出した過去の私は、私にとっても思いがけないものだったわ。私自身、 本当に、ずっと忘れていた私だった。もう過ぎ去ったものは消えたもの、現在に何の影響 も及ぼさない――そう信じて来たんですもの」
 岬はそんな夫人をじっと見ていたが、やがて唐突に口を開いた。
「アリって誰ですか?」
 はっとしたように夫人は顔を上げる。
「その質問は、あなたの研究に何か役立つのかしら」
「いいえ、まったく。でも、個人的に必要な質問です。アリって誰ですか」
「――私の、子供の名前よ。もうずっと昔に死んでしまった子供のね」
 岬はしばらく黙った後で、次の質問を口にした。
「ソリマチカオル氏を、知っていますね?」
 夫人の表情がこわばるのがはっきりと見てとれた。
「岬! ――どういうこと?」
「そう、その呼び方。ボクの名前をあなたはずっと正確な発音で呼んでいます。フランス 人の発音ではこの名前がどんな感じになるか、もう何年も聞き続けてますからね、その差 はすぐにわかります。アラブ系の人たちの発音の特徴とも違う。まさに日本人のネイティ ブに近い発音です。あなたが日本を訪れた記録はなかった。とすれば、誰か、日本人の知 り合いがいた、という可能性しかありません」
 夫人は岬を見つめたまま動かなかった。
「――そうね、その名前も忘れていたわ。私が国を捨て、過去を捨てたその瞬間に立ち会 ったのがその人よ」
「彼のことはよく知っていますよ。今は外務省でなく、通信社の特派員をなさってます。 ボクもつい2ヵ月前に知ったばかりですけどね」
「なんですって?」
 驚く夫人に、岬はあっさりとうなづいてみせた。
「当時の出入国記録がようやく確認できたんです。抹消扱いでしたが、空港のデータから は割り出せました。あなたと、反町氏とその息子の3人が家族として出国しようとして逮 捕された。そう記録されていましたよ」
「逮捕はされなかったわ。現に私はここにいる。逮捕されて処刑された、というのは書類 の上だけのことよ。私はフランスに逃れて来て、留学当時の知人を頼って――そう、フラ ンス人として新しい名前を手に入れたのよ」
「なるほどね」
 岬はそっけなく応じた。
「あなたにとって反町氏は過去に属するものであって、忘れてしまうべきもの、忘れてし まっても支障のないものでしかないようですね。でもあなたが知りたがったボクの分身、 そしてペンタゴンに無断侵入したハッカー。それってその時にあなたの『息子』だったア リですよ」
「――!!」
 まさか、という形に口が動いた。しかし声はない。
「あの時、あなたはボクにアリと呼びかけましたね。不思議だな、あなたは今の彼の顔を 知らないはずなのにね。ただの分身じゃなく、ボクと彼は見た目もそっくりなんです」
「岬、あなたって…?」
 しばらく呆然としていた夫人はやがて大きく息をついて、ようやく我に返ったようだっ た。
「私まで塩の柱になるかと思ったわ、ロトの妻のように。あなたのほうこそ、双つ身の天 使じゃないの?」
「ボクがそうなら」
 岬はそれを聞いて、苦笑いを浮かべた。
「ふたつ、じゃすまないかもしれませんね」
「…?」
 ル=ヴォワニー夫人は一瞬怪訝そうにし、そしてまた大きなため息をついたのだった。









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