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「犬とか、いたりしてね」
広い敷地の入り組んだ隅っこで、反町はふとつぶやいた。とたんに、悪魔が盗み聞きし
ていたかのようなタイミングでその言葉が叶えられてしまった。
ワウ、ワンワン! ウウー、ワン!
「なんでー! 助けてー!」
振り返って姿を確認する余裕はなかったが、声から大型犬であること、複数であるこ
と、そして訓練された警備犬であることが切迫感をもってわかってしまった。必死に走
る。
『犬と警官は逃げる奴を――』
という松山のありがたいお言葉を思い出すが、だからと言って止まるわけにもいかな
い。
「一日のうちに両方体験しちまうとは、俺も運が良すぎるよぉ。いくら足が自慢でも、追
っかけられるのには使ったことないんだから…」
犬より速いサッカー選手というのが出現するのは、もっとずっと後の時代のことであっ
た。
「なんだ、あそこ…?」
不毛な泣き言を並べつつも健闘していた反町だが、またもケイレンを起こす寸前になっ
ていた。と、ここで何かの動きに気づく。
正面ファサードのあたり、車のヘッドライトがいくつか見えた。金属音が響いて、ゆっ
くりと門が開かれていくのが夕闇を通して目に入る。
「あ……」
建物までたどり着いて、壁に腕をすがりつかせ、はあはあと息をする。やっと顔を上げ
てその方向を見れば、なんと犬たちはその車を追って門までまっしぐらに駆けて行くとこ
ろだった。ほっとしたあまり、力が抜けてしまう。
「お、お見送り、ね」
誰かが――おそらくはここの主のご一行が出掛けるところだったようだ。犬だけでな
く、大使館のスタッフたちの注意がそちらに向いている今こそチャンスだった。
「よーし」
裏庭に面して大きなデッキバルコニーがあった。はみ出したカーテンがひらひらしてい
るのを見つけて、そこから滑り込む。
「淳が言ってたな。えーと、『双つ身の天使』だっけ」
アネカのお祖母さんを捜すと同時に、この大使館から発信された謎の文書も気になる存
在だった。
「でもおバアちゃんが自分でここを訪ねて来たってことは、やっぱりお知り合いがいるの
かなあ。変だよな」
つぶやきながら廊下をこそこそと進んで行く。松山には大見得を切ったが、最初の時わ
かったのはここがかなり大きな建物で、部屋がいくつも入り組んでいる、ということくら
いで非常に心もとない。
しかし、見当をつけながらまずはオフィス部分から探ることにする。
「主がお出掛けしたってことは…と」
玄関ホールに通じる吹き抜けの下にそーっと顔を覗かせる。ホールに面したドアがさっ
きから開いたり閉まったり、出入りが激しいようだ。反町が観察している間にも、人声が
途切れない。
「おやおやぁ?」
そうこうするうちに、そのオフィスらしい部屋からスーツ姿の男たちが数人、次々と出
て来た。急いだ様子でホールの向かいのドアへ向かう。そのドアの先は洗面所らしく、開
いたドアから水音が響いてくる。その隣の一角には空飛ぶじゅうたんのようなマットが何
枚も敷き詰められていて、男たちは続いてそちらに移動した。
「ははーん」
反町は納得して頭を引っ込めた。時刻から見て思い当たるもの、それは一つしかない。
公務員もサラリーマンも、デパートの店員も飛行中のパイロットも、イスラム教徒なら決
して欠かさない礼拝。その夕方の部が始まるのだ。
反町は音を立てないようにホールを横切ってオフィスのドアから中に入り込んだ。部屋
にはやはり誰もいない。長いカウンターと、たくさんの棚と、そして机がいくつか置かれ
ている。その一つに端末があるのを見て、反町は素早く近づいた。
「記録はどこかな、と。――うっ?」
その時、反町は最大のミスに気がついた。
字が、読めないのである。画面に出て来たのは全てアラビア文字。これでは機密扱いの
文書もそこらのラクガキも区別のつけようがない。反町はしかし、ディスクの中から英語
タイトルのついたものを見つけ出し、適当に1枚を抜き出すとポケットにねじ込んだ。そ
してドアへと急ぐ。
「お、っととと」
ホールの向こうではもう気配が動いていた。礼拝は終わったらしい。反町はすぐ横に別
のドアがあるのを見てあわててそちらに飛び込んだ。
「なんと、大使さんの部屋でしたか…」
壁にかかった大きな国旗と、その前にでんと置かれた威厳あるローズウッドのデスクが
それを物語っている。反町は隅にある秘書用のデスクにパソコンがあるのを見つけてにや
りとした。
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