7章ー4















「犬とか、いたりしてね」
 広い敷地の入り組んだ隅っこで、反町はふとつぶやいた。とたんに、悪魔が盗み聞きし ていたかのようなタイミングでその言葉が叶えられてしまった。
 ワウ、ワンワン! ウウー、ワン!
「なんでー! 助けてー!」
 振り返って姿を確認する余裕はなかったが、声から大型犬であること、複数であるこ と、そして訓練された警備犬であることが切迫感をもってわかってしまった。必死に走 る。
『犬と警官は逃げる奴を――』
 という松山のありがたいお言葉を思い出すが、だからと言って止まるわけにもいかな い。
「一日のうちに両方体験しちまうとは、俺も運が良すぎるよぉ。いくら足が自慢でも、追 っかけられるのには使ったことないんだから…」
 犬より速いサッカー選手というのが出現するのは、もっとずっと後の時代のことであっ た。
「なんだ、あそこ…?」
 不毛な泣き言を並べつつも健闘していた反町だが、またもケイレンを起こす寸前になっ ていた。と、ここで何かの動きに気づく。
 正面ファサードのあたり、車のヘッドライトがいくつか見えた。金属音が響いて、ゆっ くりと門が開かれていくのが夕闇を通して目に入る。
「あ……」
 建物までたどり着いて、壁に腕をすがりつかせ、はあはあと息をする。やっと顔を上げ てその方向を見れば、なんと犬たちはその車を追って門までまっしぐらに駆けて行くとこ ろだった。ほっとしたあまり、力が抜けてしまう。
「お、お見送り、ね」
 誰かが――おそらくはここの主のご一行が出掛けるところだったようだ。犬だけでな く、大使館のスタッフたちの注意がそちらに向いている今こそチャンスだった。
「よーし」
 裏庭に面して大きなデッキバルコニーがあった。はみ出したカーテンがひらひらしてい るのを見つけて、そこから滑り込む。
「淳が言ってたな。えーと、『双つ身の天使』だっけ」
 アネカのお祖母さんを捜すと同時に、この大使館から発信された謎の文書も気になる存 在だった。
「でもおバアちゃんが自分でここを訪ねて来たってことは、やっぱりお知り合いがいるの かなあ。変だよな」
 つぶやきながら廊下をこそこそと進んで行く。松山には大見得を切ったが、最初の時わ かったのはここがかなり大きな建物で、部屋がいくつも入り組んでいる、ということくら いで非常に心もとない。
 しかし、見当をつけながらまずはオフィス部分から探ることにする。
「主がお出掛けしたってことは…と」
 玄関ホールに通じる吹き抜けの下にそーっと顔を覗かせる。ホールに面したドアがさっ きから開いたり閉まったり、出入りが激しいようだ。反町が観察している間にも、人声が 途切れない。
「おやおやぁ?」
 そうこうするうちに、そのオフィスらしい部屋からスーツ姿の男たちが数人、次々と出 て来た。急いだ様子でホールの向かいのドアへ向かう。そのドアの先は洗面所らしく、開 いたドアから水音が響いてくる。その隣の一角には空飛ぶじゅうたんのようなマットが何 枚も敷き詰められていて、男たちは続いてそちらに移動した。
「ははーん」
 反町は納得して頭を引っ込めた。時刻から見て思い当たるもの、それは一つしかない。 公務員もサラリーマンも、デパートの店員も飛行中のパイロットも、イスラム教徒なら決 して欠かさない礼拝。その夕方の部が始まるのだ。
 反町は音を立てないようにホールを横切ってオフィスのドアから中に入り込んだ。部屋 にはやはり誰もいない。長いカウンターと、たくさんの棚と、そして机がいくつか置かれ ている。その一つに端末があるのを見て、反町は素早く近づいた。
「記録はどこかな、と。――うっ?」
 その時、反町は最大のミスに気がついた。
 字が、読めないのである。画面に出て来たのは全てアラビア文字。これでは機密扱いの 文書もそこらのラクガキも区別のつけようがない。反町はしかし、ディスクの中から英語 タイトルのついたものを見つけ出し、適当に1枚を抜き出すとポケットにねじ込んだ。そ してドアへと急ぐ。
「お、っととと」
 ホールの向こうではもう気配が動いていた。礼拝は終わったらしい。反町はすぐ横に別 のドアがあるのを見てあわててそちらに飛び込んだ。
「なんと、大使さんの部屋でしたか…」
 壁にかかった大きな国旗と、その前にでんと置かれた威厳あるローズウッドのデスクが それを物語っている。反町は隅にある秘書用のデスクにパソコンがあるのを見つけてにや りとした。
「さーて」
 誰も見ていないのをいいことに、電源を入れて今くすねてきたディスクを読み込ませ る。出て来たものは英文による会計報告のようだった。
「なにせ急がないとね」
 それが何のドアだろうと、ネットワークにさえ乗ってしまえば後は自慢の裏技で好きな 場所へ移動するだけである。
「俺のフィドラーに偽装して秘密の文書を送りつけるとは許せないね。しかも、岬を釣り 上げるためだなんて」
 ファイルの管理記録はまもなく見つかった。
 ジャカルタで始まる国際会議。イスラム諸国はそれぞれに異なる背景を抱えて、互いの 動向に油断なく目を光らせている。ある国は大国との同盟関係を誇示し、ある国は莫大な 予算を注いで軍備拡大の道を進み、またある国は宗教的指導者の権力を借りて国内外にネ ットワークを拡げる。表面上は身内の和やかな集まりでも、テーブルの下では銃や刀を突 き付け合っているようなものだった。
 互いに挑発し合い、牽制し合う中で眠っている火種。眠っているだけでいつ突然目覚め るかわからないそれを、マダム・ブルーは闇からコントロールしようとしているのだ。一 部の強硬勢力に時限爆弾を託して。
「『双つ身の天使』とはね。なんともおっかないネーミングだこと」
 が、問題は名前だけではなかった。
 予測通り、ファイルの送信記録からそれがE・S社内部から届いたものであることが確 認できたのだが、それを開くことはやはりかなわなかった。
「パスワード、2つもあるの〜?」
 自分の作ったゲームの中で三杉が見つけた時にびくともしなかったというのも当然だっ た。鍵は二重に掛けられていたのだ。
「待てよ、そう言えばここの連中、俺を岬だと思って――」
 反町は記憶をたどる。最初にここに連れて来られた時、中の一人が自分に言った言葉が 蘇った。
『おまえの役目は、鍵を開くことだ』
 何の鍵なのか、そんな話を聞く前に逃げ出したわけだが、このファイルのことを指して いるのだとしたら…。
「――このファイル、ヤバイかも!」
 思わず声が出てしまった。
「岬を、早く止めないと…。とにかく淳に連絡して――」
 メールを、とキーボードを叩き始めた反町だったが、すぐに横やりが入る。
「あっ、おまえは…!」
 さっきの声が聞こえたのだろう、オフィス側のドアがいきなり開いて、そこには驚き顔 の職員が突っ立っていた。
「ミサキだ! ミサキが戻って来てるぞ!――」
「人違いだっての!」
 反町はパソコンを切って飛び出した。この狭い中で追いかけられてはたまらない。廊下 へのドアを抜けて一目散に駆け出す。
「ああー、おバアちゃん、どこなんだよぉ!」
 またもや逃走犯となってしまう。こうなればアネカの祖母を一国も早く見つけ出さねば ならない。
「犬よりましだけど」
 人間相手なら、足で勝つ自信は――少し――ある。だが、廊下の角を曲がりざま耳をか すめた熱い音に反町の気は変わった。
「でも犬は銃を持ってないから、やっぱり好き」
 しかもこの不案内な場所でどこまで逃げ切れるやら。
「おっと」
 大切なミサキを殺すわけはないのだから威嚇だとわかってはいるが、それでも銃弾が飛 んで来て嬉しいわけはない。がばっと床に伏せて、銃口からなんとか身をかわした。また ホフク前進である。
「――アリ」
「は、はい…!?」
 目の前のドアが細く開いて、白い手が反町を招いていた。そう、選択の余地はなかった のである。












「なあ、遅いんじゃないかなあ」
「そうだな、こっちは売り切れになっちまったし」
 手持ち無沙汰のまま、アネカと松山は並んで歩道のへりに座っていた。臨時の屋台には もともとたくさん積んでいなかったこともあり、商品は見る間に完売してしまったのだ。 もっとも、その半分以上は松山の胃袋に消えたとも言えるが。
「日が落ち始めたよね」
 アネカは不安そうにあたりを見回した。こんな場違いなところにお祖母さんがいると思 うだけで居ても立ってもいられない、という表情である。
「さあ、30分たった!」
 と、いきなり松山が立ち上がった。アネカはびくっとする。
「えっ、そ、そう…?」
「ああ、俺の腹時計は正確だ」
「…どうする気なんだ?」
 まさか本当にイーグルショットなだれバージョンを…と、言ってもアネカはそんなもの 知らないのだが。
「俺が急かしてくるよ、あいつを」
「そんなー!」
 松山のことも心配だが、それ以前にこんな所で自分が一人取り残されることが何より心 配なアネカである。しかし松山の行動は早かった。
「ふーん、ここの女の子の協力がないとなると、こっちからだな」
「あ、ダメだって!」
 松山は塀の前に立ち、黒光りのする門を無視して通り過ぎ、そして大きく茂っている街 路樹にぱっと飛びつく。見張りの時にも使ったお馴染みの木らしい。アネカは周囲に目を 配りつつはらはらと見守った。
「ひゃー、おっかねえ塀だな、こりゃ」
 このあたりの屋敷の塀や柵には、そのてっぺんに鋭い槍のような装飾が付いている。美 的センスはイマイチだが、防犯には大きく貢献しているに違いない。もっとも松山はそん なことを気にするほど品行方正ではなかった。
「よっ、と」
 危なっかしい体勢ながら、うまくバランスをとって塀に乗り移ってしまう。
 しかし、まさにその瞬間、そのバランスを一気に崩すような声が掛けられた。
「光、君は僕との約束なんかどうでもいいって考えてるのかな」
「…う、うわ!」
 松山は串刺しになるのをなんとか寸前でこらえて振り向いた。
「淳っ、なんでおまえ!?」
「動きを探るだけでいい、決して自分から手を出しちゃいけない…って言ったはずだよ」
 夕暮れの通りに三杉は一人立っていた。
 恐ろしいことに、正装である。日が落ちても湿気にむっとするような暑さがまだまだ残 っている中でディナージャケットをびしっと決め、ネクタイからポケットチーフまでまっ たく隙がない。
 アネカは度重なるショックに声も出せずに棒立ちになっていた。無理もない。反町のコ ピー商品がこうも次々現われては。
「こちらは?」
「一樹の奴が厄介になった家のお兄さんだよ。アネカって言って、本業はベチャの運転 手、今は屋台の売り子だ」
「それはどうもお世話になりました」
 三杉は礼儀正しく会釈して礼を述べた。アネカの顔がまたわずかに引きつる。
「さて、光」
 それから三杉は改めて頭上の松山を見上げた。
「僕は忙しいので君を止めている暇はないんだ。インドネシア国営企業主催でレセプショ ンパーティがあるから、ミスギ・パシフィックの名代で出席してくるよ。代表者会議の前 哨戦と言うか、何かと話題の顔が揃うようなのでね。この大使館の主も出掛けたんじゃな いかな」
「でもっ…!」
「東京の反町氏に電話してみたんだが」
 三杉は意味ありげにちらりと松山を見た。
「一足違いで、もうこちらに発った後だったよ。たぶん、今夜の会場で会えると思う」
「そうか!」
 松山の表情が変わる。
「待てよ、俺も行く!」
「冗談だろう、そんな格好のまま行けるものか。泥だらけじゃないか。シンデレラじゃあ るまいし。君はここで一樹と冒険ごっこをしていればいいよ」
 三杉は待たせていたタクシーに歩み寄った。
「じゃ、遅くならないように切り上げるんだよ。翼くんが待ちかねているからね」
「待てってば、おい!」
 しかしイジワル姉さんならぬイジワル弟は、さっさとお城に向かって行ってしまった。
「い、今のは、いったい…?」
 アネカがようやく我に返る。
「なあ、ソリマチとあんたと、それにさっきの…」
 この調子でぞろぞろどこまで出てくるのか。アネカにとっては恐怖でしかなかったよう だ。
「ああ、あれこれも全部兄弟さ。血は全然つながってないけどな」
 走り去ったタクシーを松山は高いところからじっと睨んでいたが、くるりと身を翻した かと思うと見事に敷地側に着地を決めた。
「おまえだって、無茶にかけちゃ人のこと言えねえくせに…!」
 これは独り言。
「おーい」
 あせるアネカの呼び声を後ろに残して、松山は一気に駆け出した。
「待ってろよ、すぐ追いついてやる!」
 聞こえるはずのない相手に宣言しながら、その姿はすぐに見えなくなって行った。









 BACK | MENU | NEXT >>