7章ー3















「ン、ゴレンゴレンゴレン、アーヤム!」
 アネカは角を曲がるとすぐに大きな声を張り上げた。ナベの蓋のようなものをリズムを つけてポコポコと叩く。
「うまーい」
 反町は曲がり角のこちら側から覗きながら小さくぱちぱちと手を打った。さらにその隣 から松山がささやく。
「で、何て言ってるんだ?」
「知らない。売り声だろ、どーせ。やーきいもぉ!みたいな」
 無責任な共犯者である。
「おい、見ろよ」
 松山が頭ひとつ乗り出して反町を引っ張った。アネカに動きがあったようだ。
「来た来た。手前の家から女の子が出て来たぞ。時間帯がよかったんだな。お、あの家か らも…」
 ジャカルタの富裕層の家ではメイドや運転手など何人もの使用人がいるのが普通であ る。地方から出て来た若い娘などが住み込みで働いている。言わば24時間勤務だが、一 日のうちに忙しい時間帯とそうでない時があるわけで、そういう暇を見計らって彼らは自 由時間を確保する。こうして物売りを呼び止めるのは、食事代わりでもあり、気晴らしで もあるようだ。
「あんな小さい子が働いてんのか。――よし、アネカが話しかけてるぞ」
「小さいったって俺たちと同じくらいじゃない? 年齢がイマイチ読みにくいけどさ」
「お、呼んでるぜ」
 アネカが手招きをしているのを見て、二人は飛び出した。
「ばあちゃん、やっぱり来てたらしい。隣の大使館にさっきから入ってるって」
「やったじゃん! 俺たち、入れてもらえるの?」
「そこまでは無理だよ」
 アネカはさすがに良識ある市民だった。彼にとっては、物売りに化けるだけでも精一杯 の冒険なのだ。しかし、そんな良識とは180度隔たった世界に住んでいるこちらの二人 組は、まったく耳を貸す様子がない。
「よし、俺が行くよ。少なくとも内部の様子を一度でも見てるのは俺だもんね」
「おまえ一人で?」
 松山は不服そうである。
「なーに、30分もかかんないって。とにかくここで待っててよ。だいじょーぶ、だか ら」
「30分経っても戻って来なかったら?」
「そーだな。イーグルショットなだれバージョンでも打ち込んでもらおうかな。それで十 分さ」
 そんなバージョンあったっけ。
「ねえソリマチ、危険だよ。見つかっちまうよ。まだ体だって戻ってないってのに…」
 アネカはあくまで心配そうである。
「少し、はね」
「もう、しょうがないなあ。せめて、ほら、これ飲んでけば」
「う…!」
 アネカが放ってよこしたものを受け止めて、反町はぎくりとした。さっきの、おばあさ んからのことづけ物だったのだ。
「ねー光。おまえにやるよ。おバアちゃんにもらったの、おまえだろ?」
「ふーん?」
 松山は蓋を開けてちょっと中を覗いてから、一気に飲み干してしまった。
「ん、まあまあだな」
「ひかる…?」
 反町は化け物でも見たような顔になる。
「よくおまえ……それ、平気だなっ」
「ジャムウってんだろ? 淳がいろいろ教えといてくれたんでな、こっち来る前に」
「ひえー、さすがは淳、抜かりはないねえ」
 振り返って二人に小さく指先だけで手を振ると、反町は大使館の高い塀の下まで近づ き、上を見上げた。両方の敷地を隔てる境界にちょうど庭木が枝を茂らせていて具合は悪 くない。
 反町はメイドの女の子に通用門を開けてもらって入り込むと、隣の大使館側との間の塀 に取り付いた。
「じゃー、後はよろしく」
「おうよ」
 姿が向こう側に消えたのを見送ってから、松山は歩道に座り込んだ。
「ソリマチって、あんな性格してたなんて、知らなかった、俺」
 アネカはまだ呆然としている。
「おとなしくて無口で行儀もよくて…」
 それは具合が悪くてそうなっていただけでは…。
「だろ? 穏当な俺とは大違いだよ」
 松山の見解はあまりあてにはならない。
「あのばあちゃんもさ、俺とあいつを間違えたわけじゃないと思うな。俺がアリなんだと 思ったなら、その場で飲ませたはずだろ」
「そ、そうか…。ばあちゃんなら、そうだ」
「ねえ、お兄さん」
 ジャムウの空ビンを手にもてあそびながら、松山はアネカを見上げた。
「商売、続けようよ。――とりあえず、俺にそのテンプラ1個くれる? あ、そのソバも ね」
 待つのも悪くないかもしれない。とりあえず、この屋台がある限りは。












「翼くん――」
 ホテルの自室で翼はベッドの中にいた。うっすらと目を開いた翼の額に手を伸ばす。
「熱が出たんだって? 気分はどう?」
「ああ、三杉くん。岩戸から出てきたの?」
 ベッドの脇に立って静かに微笑みかける三杉を、翼はちょっとまぶしそうに見上げた。
「若島津くんがとうとう実力行使したとか」
「いいや」
 三杉はちらりと向かい側に目をやる。そこにはチームが練習中の今、一人で翼に付き添 っていた若島津本人がいる。聞こえないふりをしてむっつりと立っているが。
「光から電話があったんだ。心配ないって。今から帰って来る。――しかも、一樹と一緒 にね」
「え……!」
 翼は一瞬信じられないというように目を見開いた。そしてがばっと跳ね起きかける。
「こらこら」
 若島津の腕が伸びてそれは阻止されたが。
「無事なんだね、反町くん! それに、松山くんも…」
「そうだよ。本当に君にはすっかり心配かけてしまったね」
「熱を出しちまうほどにな」
 若島津はさしたる感動もない様子で――もちろんそれはいつもの通り外見上のことだが ――また一歩下がって付け加えた。
「まだまだ十分ケガ人のくせに、真剣に心配してやっても損するだけだぞ、あいつらのこ となんか」
「君は早く体を元に戻すことだけ考えていてほしいな、翼くん。体をゆっくり休めて、精 神的にも、ね」
「ごめんね」
 翼はほっとしたようにまた目を閉じた。
「明日はテストマッチもあるのに、練習の邪魔しちゃって。若島津くんも練習休ませちゃ ったし」
「サボっただけだ、気にするな。明日は森崎がスタメンだし」
「そうなのかい?」
 三杉も驚いたように若島津を振り返った。ちなみに、三杉も温存組である。
「しーっ……」
 若島津の合図に気づいて三杉はそっと立ち上がった。解熱剤が効いてきたのか、翼はま た眠りに落ちたようだ。
「じゃ、僕は戻るよ。もうすぐ帰って来るだろうし。落ち着きのない兄弟たちがね」
「説教を、たっぷりしといてくれよ」
 漂うような浅い眠り。意識のうんと遠い所で、そんな二人の会話を聞いたような聞かな かったような、そんな夢を翼は見ていた。エアコンの効いた室内はただ快適なだけでな く、完全な静けさを守ってくれる。
 翼が次に目を覚ましたのは、その静けさの中だった。周囲を見回そうとしたとたん、冷 ーっとしたものが頭上に降ってきた。額の上に大きくかぶさったのは氷で冷やしたタオル である。ほてった体にその冷たさは気持ちが良かったが、おかげで頭が動かせなくなっ た。目もふさがれる。
「あ、ありがと、若島津くん」
 翼は深呼吸をするように大きく息を吐き出した。
「俺、長い間寝てた? ほんとに、かえって迷惑ばかりだよね、俺って。応援だなんて言 っておいてさ」
 毛布を掛け直そうとしていた手が、その言葉にぴくりと反応したようだった。
「でも、俺、岬くんに言われたからだけじゃないんだ、ここに来たの。今度こそ確かめた かったんだ、俺、自分のワガママさ加減をさ」
 翼は自分で小さく笑った。
「俺、いつもワガママに夢、夢って言ってみんなをそれに付き合わせてる。知ってるよ、 自分でもね。それでもやめないのが俺の一番のワガママなんだけど。若島津くんも、そう 思ってきただろ?」
「……」
 返事をしようとしてためらっている気配がした。翼は濡れタオルを少し引っ張る。
「俺は自分の欲しいものは何を犠牲にしても手に入れたい。そうすることで誰かを不幸に したり苦しめたとしてもそうせずにはいられない。――でも岬くんは違う。自分の一番の 望みを、一番だからって理由で手放すんだ。そうしたい、かなえたい、って気持ちのほう を抑えちゃうんだ。どうしてあんなに……自分の心を切り刻むような、だんだんすり減ら していくみたいな…、なんか、なんか、岬くん、今、手を離したらもう二度と戻って来な いような気がして…」
 翼は自分で自分の言葉に驚いたようにはっと口をつぐんでしまった。言葉に出したこと によって、今すぐそれが実現するかのような恐れを覚えたのか。
「若島津くん、考えすぎだと思う?」
 翼はタオルを乗せたまま、ベッドの脇の方向へ首を動かした。
「俺、ワガママでいるうちに、岬くんの一番の望みをわかってあげられなかったんじゃな いかって、それがすごく不安だった。こんなケガなんかよりもずっと。それで、日向くん にそのこと話したんだよ。ほら、ブラジルに来てもらった時さ。そしたら日向くん、何て 言ったと思う? ――危険物は危険物らしくワガママ放題危険でい続ければいい、って」
 その時の日向の、意外なほどの勢いにたじろいだことを思い出して、翼はくすくすと笑 った。
「そうしてる限り、絶対に気を許さないしずっと見張っててやる、って、日向くんが。な んか、すごい理屈だよね。――でも俺、それでなんだかほっとできて。サッカーはできな くてもチームと一緒にいたくて、日向くんに見張っててもらいたくて、ここに来たんだ。 ワガママに夢を持ち続けるのが俺の責任なんだ、って、日向くんを見てるだけで思い知る ことができるから。もっとも、日向くんには怒られちゃったけどね」
 翼はふうっと大きく息をついた。熱のためかまた眠気が戻ってきたらしい。その翼の額 に手が触れる。ちょっとぶっきらぼうな大きな掌が、しかし小さい子供をなだめるように そっと。
「ふふ、ありがと」
 翼は首をすくめ、本当に安心したようにそのまますーっとまた眠りに落ちていった。
「ああ、翼はどうですか? まだ眠ってます?」
 廊下に出たところで呼び掛けられ、日向は振り向いた。閉めかけたドアを途中で止め て、道を譲る。
 若島津は監督に呼び出されて、今戻ってきたところだった。
「ああ、そうみたいだな。なんか、ずいぶん寝言を言ってたからな」
 日向はにやりと笑い返すと、ゆっくりと廊下を歩み去って行った。









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