3
◆
「ン、ゴレンゴレンゴレン、アーヤム!」
アネカは角を曲がるとすぐに大きな声を張り上げた。ナベの蓋のようなものをリズムを
つけてポコポコと叩く。
「うまーい」
反町は曲がり角のこちら側から覗きながら小さくぱちぱちと手を打った。さらにその隣
から松山がささやく。
「で、何て言ってるんだ?」
「知らない。売り声だろ、どーせ。やーきいもぉ!みたいな」
無責任な共犯者である。
「おい、見ろよ」
松山が頭ひとつ乗り出して反町を引っ張った。アネカに動きがあったようだ。
「来た来た。手前の家から女の子が出て来たぞ。時間帯がよかったんだな。お、あの家か
らも…」
ジャカルタの富裕層の家ではメイドや運転手など何人もの使用人がいるのが普通であ
る。地方から出て来た若い娘などが住み込みで働いている。言わば24時間勤務だが、一
日のうちに忙しい時間帯とそうでない時があるわけで、そういう暇を見計らって彼らは自
由時間を確保する。こうして物売りを呼び止めるのは、食事代わりでもあり、気晴らしで
もあるようだ。
「あんな小さい子が働いてんのか。――よし、アネカが話しかけてるぞ」
「小さいったって俺たちと同じくらいじゃない? 年齢がイマイチ読みにくいけどさ」
「お、呼んでるぜ」
アネカが手招きをしているのを見て、二人は飛び出した。
「ばあちゃん、やっぱり来てたらしい。隣の大使館にさっきから入ってるって」
「やったじゃん! 俺たち、入れてもらえるの?」
「そこまでは無理だよ」
アネカはさすがに良識ある市民だった。彼にとっては、物売りに化けるだけでも精一杯
の冒険なのだ。しかし、そんな良識とは180度隔たった世界に住んでいるこちらの二人
組は、まったく耳を貸す様子がない。
「よし、俺が行くよ。少なくとも内部の様子を一度でも見てるのは俺だもんね」
「おまえ一人で?」
松山は不服そうである。
「なーに、30分もかかんないって。とにかくここで待っててよ。だいじょーぶ、だか
ら」
「30分経っても戻って来なかったら?」
「そーだな。イーグルショットなだれバージョンでも打ち込んでもらおうかな。それで十
分さ」
そんなバージョンあったっけ。
「ねえソリマチ、危険だよ。見つかっちまうよ。まだ体だって戻ってないってのに…」
アネカはあくまで心配そうである。
「少し、はね」
「もう、しょうがないなあ。せめて、ほら、これ飲んでけば」
「う…!」
アネカが放ってよこしたものを受け止めて、反町はぎくりとした。さっきの、おばあさ
んからのことづけ物だったのだ。
「ねー光。おまえにやるよ。おバアちゃんにもらったの、おまえだろ?」
「ふーん?」
松山は蓋を開けてちょっと中を覗いてから、一気に飲み干してしまった。
「ん、まあまあだな」
「ひかる…?」
反町は化け物でも見たような顔になる。
「よくおまえ……それ、平気だなっ」
「ジャムウってんだろ? 淳がいろいろ教えといてくれたんでな、こっち来る前に」
「ひえー、さすがは淳、抜かりはないねえ」
振り返って二人に小さく指先だけで手を振ると、反町は大使館の高い塀の下まで近づ
き、上を見上げた。両方の敷地を隔てる境界にちょうど庭木が枝を茂らせていて具合は悪
くない。
反町はメイドの女の子に通用門を開けてもらって入り込むと、隣の大使館側との間の塀
に取り付いた。
「じゃー、後はよろしく」
「おうよ」
姿が向こう側に消えたのを見送ってから、松山は歩道に座り込んだ。
「ソリマチって、あんな性格してたなんて、知らなかった、俺」
アネカはまだ呆然としている。
「おとなしくて無口で行儀もよくて…」
それは具合が悪くてそうなっていただけでは…。
「だろ? 穏当な俺とは大違いだよ」
松山の見解はあまりあてにはならない。
「あのばあちゃんもさ、俺とあいつを間違えたわけじゃないと思うな。俺がアリなんだと
思ったなら、その場で飲ませたはずだろ」
「そ、そうか…。ばあちゃんなら、そうだ」
「ねえ、お兄さん」
ジャムウの空ビンを手にもてあそびながら、松山はアネカを見上げた。
「商売、続けようよ。――とりあえず、俺にそのテンプラ1個くれる? あ、そのソバも
ね」
待つのも悪くないかもしれない。とりあえず、この屋台がある限りは。
|