7章ー2















「――あれっ、どうかした、アネカ?」
 再び走り出していたベチャがいきなり脇に寄せて停車したので反町が声を掛ける。
「あ、ああ、ごめん。人違いだったよ。ばあちゃんに見えたもんだから」
「そっか」
 そう言えば、おばあちゃんが最初の目的だったような。
「あのね、アネカのおバアちゃんが迷子になっちまったみたいでさ、俺たち捜しに出たん だよ」
 松山にもささやいておく。
「ふーん、おばあちゃんか。ジャカルタのばあちゃんたちって面白い服装してんのな。あ のスカートとか」
「あれはサロンっての」
 さすがに反町のほうが詳しくなっている。スカートのように仕立てたものではなく、長 い布をぐるぐると腰に巻いて留めつけただけという、東南アジアの各地で見られる民族衣 装だった。
「そう言えば、俺、あんなかっこのばあちゃんに話し掛けられたよ。言ってることは全然 わからなかったけど、俺に『アリ』って呼びかけるんだぜ」
「…えっ?」
 ふんふんとうなづいていた反町が、いきなりノックアウトされる。
「『アリ』って、それほんと? ――アネカ、アネカ!」
 反町はあわててベチャにストップをかけた。
「それもっと早く思い出せよぉ。会ったって、どこ?」
「そんなこと言われたってよ…。あの大使館を見張ってる時だよ。そのばあちゃん、向こ うから普通に歩いて来たと思ったら俺を見つけて声を掛けたんだ。すごいよな、俺、しっ かり植え込みに隠れてたんだぜ」
 反町とアネカは顔を見合わせる。
「そんな公邸街にばあちゃんが? いくら迷子になったったってありえないよ、絶対」
「でもアネカ…」
「そうそう、これもらったんだっけ」
 松山はのんびりと尻ポケットから小瓶を引っぱり出す。反町は目を丸くした。見覚えの あるビンだったのだ。
「ジャムウだ、俺の!」
「ほんとに、ばあちゃんだ! それで、どうしたんだ?」
 アネカも叫ぶ。松山は二人のその勢いに驚いたようだった。
「話してたら人が来たんでな、ほら、俺は一応張り込み中だったし、急いでまた隠れたん だ。そのばあちゃんはそのまま行っちゃったよ。俺が見張ってた建物の一軒隣に入ってっ たかな。よく見てなかったけど」
「もー、無責任なんだからー」
 とにかくアネカも入れて三者会談に入る。反町も松山もそこの人間と友好関係にあると は言えない。顔もバレているだろう。となれば孫であるアネカが先頭に立つしかないだろ う。
「大使館と隣接しているってことは、大使以外の職員の官邸だろうな。敷地も繋がってる あたり」
 松山の証言を元に当たりをつけて、直接アタックすることに決まる。
「ベチャはまずい。あのあたりじゃ逆に目立つだけだ。本来は通行も禁止なんだし」
 アネカはベチャを預かってもらうために、寄り道して義兄の仕事先を訪ねた。小さな飲 食店である。日本風に言えば、テイクアウト専用のファーストフード店というところだろ う。麺類やテンプラのようなものが店先のケースに並んでいる。
「あ、屋台だ」
 ベチャの代わりにアネカが借りたのは、物売りの手押し屋台だった。これは反町も松山 もジャカルタに来て以来、路上でよく目にしている。
「カキ・リマって言うんだ。5本足って意味だよ」
「…?」
 二人は屋台の下を覗き込んだ。
「車輪が2つと、スタンドの足があるから3本足…。なんで5本足になんの?」
「俺の足2本を足すからさ」
 アネカは指を広げてにっこり笑った。
「なーんだ」
「これならどんな高級住宅街でも目立たないよ」
 アネカは義兄に頼んで売り物の食品も適当に積んだようだ。
「そこの金持ちはもちろん買わないよ。その代わり、使用人が自分の食事用に買いに出て 来るはずだから話を聞く。な、いいアイディアだろ」
「うまそー」
 松山は見慣れない食べ物に対しても健康的に興味を示した。反町の好奇心とやや違うと ころは、あくまで食欲のなせる技、という点だ。
「昔ばあちゃんが働いてたのは、クウェートの金持ちの家だ。会社をいくつか持ってるく らいの家だったらしい。だから、こういう政府のお役人とかそういうのとは関係なかった と思うんだけど…」
 臨時の物売りとなった3人は徒歩でゆっくりと目指す通りに向かった。
「それはわかんないよ。あの国は王制だろ? 元首は国王だし首相は皇太子――行政は王 の一族が独占してるんだ。大企業だって、その血縁で占められているはずだよ。おバアち ゃんがいた家が政府のどこかと関係ある家柄でも不思議はないと思うんだよ」
「雇い主がいくら偉い人だったとしても、ばあちゃんはただの出稼ぎの使用人だよ。家族 でもない。堂々とこんなとこに入り込める立場じゃないって」
 アネカはあくまで祖母とこの官庁街との関係などありえないと主張する。
「なあ、一樹。おまえの家はどうだったんだ、クウェートで」
「え?」
 隣から松山が妙に真面目な顔で口を挟んだ。
「おまえの親父さんだって日本大使館の職員、つまり外交官だったんじゃねえの? そう いう金持ちの家柄と関係あったとか?」
「光、まさか…」
「おまえは、クウェートでばあちゃんと会ってる可能性だってあるんだ。違うか?」
 反町は松山を見つめたまま絶句した。
 アネカの家に拾われて、そうして出会った人たち。何度訂正しても、自分のことを「ア リ」と呼び続けたお祖母さん――。
「もちろん、今のとこはただのこじつけだ。だけどおまえはほんの子供だった。事情はわ からないかもしれないけど、問題のクーデター事件の時、おまえの親父さんは何かの形で その場に立ち合っていたのは間違いねえんだ」
 松山は眉を寄せて言葉を切った。
「岬が追っている武器ブローカーの中心人物の秘密が、おまえの親父さんの過去とそこで つながってるかもしれない。――だとしたら、そのばあちゃんだって」
「あ……」
 反町は自分のピアスに手をやった。
 誘拐した男たちがこのピアスに動揺を見せた理由は…。そして父親の言葉。
『おまえが赤ん坊の時に、知り合いのエライ人にもらったんだ』
「じゃ、じゃあ、アリって、ほんとに俺のことだったのぉ!?」
 お祖母さんがあやすように歌っていた歌のメロディが、反町の耳に影のようにかすめて いった。












「やあ、ミスギ、いいニュースだ」
 パリのビストロの地下通路で、ピエールは受話器を握っていた。
「ミサキの居場所はブルゴーニュだ。父が手を回してくれて、内務省の内部情報を一つ手 に入れたんだ。ミサキはネットの奥深くで政府のデータまで嗅ぎ回っていたようだね。誰 も立ち入れないドアをノックする音が記録されているのが見つかって、内務省担当者は急 いでその身元のチェックをしたんだ」
『岬くんが、そんな痕跡を残していたのかい?』
 三杉はやや懐疑的だった。
 驚異的な警戒心と言うべきか、岬は自分の居場所を決して明らかにしない。ネットを利 用する時でさえである。中継ポイントを世界各所に用意することで、発信元をカムフラー ジュするのである。アクセス記録からあっさり割り出せるような人間ではないのだ。
「君の疑問はもっともだよ」
 ピエールは笑った。
「これはミサキのミスじゃない。彼が侵入に利用したトラップドアが、見落とされたまま になっていたんだ。所有者であるE・S社のシステム管理担当者が鍵を掛け忘れたまま放 置していたせいだね。あのミサキを拉致だなんて乱暴な真似をしておきながら、肝心なと ころで手抜かりをしてしまったようだ」
『E・S社? やはり君が最初から名指ししていたあそこがそうだったんだね』
 道に迷った時に、ぐるぐる歩いた挙句に元の場所に戻ってしまう、というのはありがち な話である。
「そう、だがミサキはそれきりそこは通っていない。拉致後にどこかに接触した痕跡は一 切なかったんだ。とすると、ミサキは、ネット上でも自由を奪われている可能性がある。 もっともそうでもしなければミサキを本当の意味で拘束することにならないがね」
『つまり――岬くんと直接コンタクトをとるのは…』
「ああ、不可能だ。少なくともこちらからは」
 ピエールの返事は沈む。
「E・S社の社内LANのうち、プライベートな回線だけが一部遮断されているのが確認 できてる。それ以上先へはたどれないということなら、残る方法は一つだ。自分の足で、 直接訪ねて行くことさ」
『ピエール』
 単純といえば単純、しかし無謀な荒技である。三杉は、ピエールらしいと言うしかない その結論に敬意を表して、反論はとりあえずやめておいた。
『ブルゴーニュ、って言ったね。そのプライベートな回線というのが…?』
「ああ、E・S社社長夫人の療養先だ。ブルゴーニュにある大地主の領館でね。身体が丈 夫でない夫人が個人で所有して別邸として住んでいるそうだ。大きなワイナリーもあるら しいよ」
『E・S社の社長夫人…?』
「ずっと以前に一度だけ何かのレセプションで見掛けたことがある。美人だよ。会社の経 営そのものにはタッチしていないはずだが、こうなると――」
『それだけではない何かが裏にありそうだ、ってことだね』
 三杉は考え込んだ。
『そうなると例のマダム・ブルーの関与はどこまで及んでいるんだろう』
「無関係ではありえない、と僕は思うね。ミサキが本当に向かっていたのはマダム・ブル ーのほうだろう。それならE・S社は一つの防波堤に過ぎないのかもしれない、ミサキを 拘束する表向きの理由として」
『なるほどね』
 三杉はふうと息をついた。
『君がじきじきに出向くことになるのか。がんばれ、と気軽に言えないのが辛いところだ ね』
「なあに、ミサキに比べればレディの一人や二人」
 いいのか、そんなことを言って。
「まあ、ボルドーワインを手土産に、というわけにもいかないだろうから、バラとチョコ レートでも持って、とにかく行ってみるよ」
 ブルゴーニュとボルドー。フランスワインの二大生産地としてのプライドを張り合って いるのは、もちろん言わずもがなだった。









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