7章ー1






第7章
双つ身の天使











「また三杉くんだ」
 疲労が五割増しくらいしそうな気分で岬はつぶやいた。昨夜からぶっ通しでモニターに 向かっていて、確かに疲れは溜まっていた。一度執事が来たが食事は断り、ただひたすら 分析作業に集中していたのだ。
『こちらでわかったことは以上。反町氏の経歴調査は面会待ち。――岬くん、返信をよろ しく』
「あのオバサンに匹敵する執念深さだよ、まったく」
 作業の途中で目にせずにいられないそのメッセージは、岬の新たなストレスとなりつつ あった。
 反町との接触場所として利用していたE・S社のシステムの隙間の秘密のエアポケッ ト。直接やりとりをするメールのようにはいかないが、外部との回線を遮断されている中 で唯一残った通信手段だった。回線を使って送信することはできないが、監視の目に触れ ることなく壁に落書きをしておけばそれを向こうから覗き見ることだけはできる。そし て、その逆も。
 反町はまだ取り戻せていないらしい。三杉が独断で試みているのだろう、その短い業務 連絡の言葉を、気にしないでいようと思いつつもやはり岬は覗いてしまうのだ。作業の合 い間に。そして訳もなく腹が立ち、その繰り返しとなっていた。
「どうせボクは大バカだよ。そう言いたいなら言えばいいんだ」
 くるりとプリンターに向き直った岬は、ロール紙で吐き出されてくるプリントアウトを わざと乱暴にちぎり取った。
 囚われの身となったのは事故だったかもしれない。しかし、そのまま囚われ続けること を選択したのは彼自身なのだ。
 見えない三杉への八つ当たりはまさに自分への八つ当たりだった。岬にはそれがわかっ ていた。
「ボクをイラつかせて怒らせれば連絡を取るだろうなんて、きっと狙ってやってるんだ」
 岬はデスクの間に足を止めて不機嫌な顔でしばらく思考をめぐらせていたが、やがて大 きく息を吐き出してくるっと向きを変えると、また猛然とコンピュータとの格闘を始め た。イライラするほど、むしゃくしゃするほどエネルギーが湧いてくる。認めたくはない が、今のところ三杉は作業のエネルギー源になっていた。
「――『イスラム諸国代表者会議』。ジャカルタに照準を合わせてボクをおびき寄せよう としてたのは、やっぱりここが関係してるんだな」
 ふと手を止めて、岬は一つのファイルから気になるキーワードを拾い出した。彼のチー ムが現在滞在している都市ジャカルタ。その場所が、マダム・ブルーの照準の一つになっ ている。追跡の価値は十分にありそうだった。
「――双つ身の天使、か」
 岬がジャカルタに現われることを見越して用意されたと思われるエサ。いまいましくて もその点では三杉と見解は一致している。
 そしてもう一点、14年前に中東で起きた政変の中で抹殺された名前。それが、思いが けないキーワードを得て、一つの交点に重なり始めていた。
「舞台は、もともとそこから始まっていたんだ…」
 フランスではE・S社を自由に操り、先進諸国の軍需産業の中心でリーダーシップを握 りながら、一方で第三世界への強い影響力を確保して、その双方の対立さえも利用できる 立場。マダム・ブルーの戦略は常にそのバランスの中にあることを、岬は今改めて実感す る。
「テロはお好きですか」
 午後のお茶はとんでもない問いで始まってしまった。
「答えなければいけないかしら」
 庭のあずまやのテーブルに、ティーポットの盆がある。岬にカップを回しながら、ル= ヴォワニー夫人は穏やかに応じた。
「今さら私の建前を聞いても、あなたは楽しくもなんともないでしょう」
「本音のほうは聞かせてもらえないんですか」
 岬は紅茶を断り、別に用意されていたコーヒーを自分で注いだ。夫人はそこでようやく 目を上げ、まっすぐ岬を見つめた。口元には笑みが浮かんでいる。
「私たちって、いつも互いに疑問形でしか話せないみたいね」
「答えのない疑問しか持たないからでしょう」
 岬はスプーンでコーヒーをかき混ぜていた。
「それと逆のパタンもありますよね。たとえば、結論が最初から決まっている会議とか」
「そうね、退屈そうな会議だわ」
「その退屈そうな会議に刺激を与えるためのテロリズムって、どう思います?」
 夫人はくすくす声を立てて笑った。
「また新しいドアを見つけたのね。びっくり箱みたいな人だこと」
「びっくりするのはボクのほうですよ。パリで誘拐されたのとほぼ同じ頃にジャカルタで も誘拐されてたなんてね。しかもそのテロの小道具にするために」
 岬はカップ越しに夫人を見た。
「マダム・ブルーは直接手を下さない。圧力も必要ない。でもこちらで一歩動けばそれに 追随する者、あるいは阻止しようとする者がそれと知らずに対立して動いてくれる。たと えば、今度のイスラム諸国代表者会議という場で」
「何か、動いてるのかしら?」
 夫人の言葉に、岬は顔を上げた。それから手にしていたカップをゆっくりと下ろす。
「疑問形はもう終わりにしましょう、マダム・ル=ヴォワニー」
「岬――?」
 秋の早い夕闇の気配が、空のどこかすぐ近くに身を潜めているようだった。深く茂る 木々の陰に、まっすぐ敷き詰められた水路の敷石に、冷ややかな空気が渡っていく。
 岬は席を離れ、テーブルの向こうの夫人に歩み寄った。どこか見えない場所でおそらく 執事か誰かが窺っているのを背中で十分に意識しながら、それを上回る素早さで夫人の肩 をつかむ。
「あっ…!」
 ラタンのひじ掛け椅子は、その勢いで大きく倒れた。夫人も、椅子と一緒にあずまやの 床に投げ出される。
「――奥様!」
 離れた所で悲鳴のような声が上がった。岬は夫人を押さえ込むようにして、その姿をじ っと眺めた。
「やっぱりあなたは歩けないんですね、ル=ヴォワニー夫人」
「岬、何を…?」
 夫人は掛けていたショールを払いのけながら、腕を伸ばしてなんとか体を起こそうとし た。岬は手を貸そうとはせず、ただ見守っている。
「あなたが捨てた名前を見つけたんです。あなたがその傷を負った場所もわかりました。 ラウラ・ハッダーマ・ビン・ジャビル・アル・シャッディン」
 夫人は動きを止めた。顔だけをゆっくりと上げ、呆然と岬の目を見つめる。
 時間の、その彼方を見透かすように。
「――アリ」
 唇が微かに動いた。
「そうね、やっぱりあなたなのね」
「マダム?」
 夫人は両腕を岬の首に回すと、ふわりと抱きしめた。
「わかっていたわ。あなたは一度失った私の命を蘇らせた。いつかまた会えるって、約束 したんですもの」
 岬ではない誰かに語りかける、夫人の不思議な言葉。不意を突かれて岬は目を見開く。
「……誰の、こと?」
「何ということを! 奥様、大丈夫ですか!」
 その岬を押しのけるようにして執事が駆け寄った。
「お怪我はありませんか? さあ、早くお部屋に」
 少し遅れてメイドが押してきた車椅子に夫人は移された。
「アリ、って」
 岬はそれを見送りながら、声に出してつぶやく。
 時間の向こうに追いやられていた事実が、音を立ててこぼれ始めていた。取り落とした 本のページが不意にめくれていくかのように。









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