1章
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午前6時。庭の東端のマサキの葉先が陽を受けて輝き始めた頃、音もなく濡れ縁を進む白
足袋の微かな気配が伝わって来た。つくばいの敷石に下りていた雀がぱっと空に散る。
若堂流当主夫人は、奥庭で乾布摩擦に余念のない夫にいつものように手拭いの替えを届け
るところだった。と、物音にふと足が止まる。
「おはよう、しづさん」
母屋の北の端、渡り廊下の角にあたるその座敷の障子を開けた彼女は、こちらに背を向け
てせっせと作業中の娘に穏やかに声をかけた。
「どこかいらっしゃるの?」
長女のしづはタンスから自分の衣類一式をバッグに詰めているところだった。ちょうどシ
ュッとファスナーを閉めて、顔を上げる。
「ええ、ちょっとお嫁に」
「そう」
物静かな品の良い笑顔で母はうなづいた。障子を元通りに閉めようとしてふと思いついた
ように手を止める。
「そうそう、しづさん。あの『両親への花束贈呈』って私嫌いなの。省いてもらえないかし
ら」
「大丈夫よ、お母さん。私、式は挙げないから」
「そう、ならいいわね」
穏やかな、しかし常人にはほとんど読めない表情で母はそう言うと、音もなく障子を閉
め、またすたすたと縁を歩いて行ってしまったのだった。
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