1章ー1







1章










 午前6時。庭の東端のマサキの葉先が陽を受けて輝き始めた頃、音もなく濡れ縁を進む白 足袋の微かな気配が伝わって来た。つくばいの敷石に下りていた雀がぱっと空に散る。
 若堂流当主夫人は、奥庭で乾布摩擦に余念のない夫にいつものように手拭いの替えを届け るところだった。と、物音にふと足が止まる。
「おはよう、しづさん」
 母屋の北の端、渡り廊下の角にあたるその座敷の障子を開けた彼女は、こちらに背を向け てせっせと作業中の娘に穏やかに声をかけた。
「どこかいらっしゃるの?」
 長女のしづはタンスから自分の衣類一式をバッグに詰めているところだった。ちょうどシ ュッとファスナーを閉めて、顔を上げる。
「ええ、ちょっとお嫁に」
「そう」
 物静かな品の良い笑顔で母はうなづいた。障子を元通りに閉めようとしてふと思いついた ように手を止める。
「そうそう、しづさん。あの『両親への花束贈呈』って私嫌いなの。省いてもらえないかし ら」
「大丈夫よ、お母さん。私、式は挙げないから」
「そう、ならいいわね」
 穏やかな、しかし常人にはほとんど読めない表情で母はそう言うと、音もなく障子を閉 め、またすたすたと縁を歩いて行ってしまったのだった。














 さてこちらは南葛市のすずしろ商店街の西の外れにある「そば処フランボワーズ」。これ からひと騒動持ち上がろうとしていることも知らず、一家は昼の忙しい時間帯を乗り切った 後のひとときをのどかに過ごしていた。
「はい?」
 テーブルを拭いていたおかみさんの悠子さんがふと顔を上げた。たまたま奥から出てきて のれんをくぐろうとしていた次男の雄二もはっと目を見張る。
「あの、恐れ入ります。有三さんは…?」
 大きなバッグを下げたすらりと背の高い女性が立っていた。背に長く流れる漆黒の髪、伏 せられた長いまつげに隠れる深い瞳の色。美しい、という一言で表現するには彼らの日常と あまりに時限の違う――そういう迫力ある存在がそこにあった。
 二人は気が抜けたようにポカンと立ち尽くす。が、客がハンカチを口元に押し当てたまま もう涙声になっているのにはっと我に返った親子は、いきなりおろおろとうろたえ始めた。 「私…、私、思い切って家を出て来てしまいました!」
 奥の座敷に通されたしづさんは、そう言うとうつむいて涙をはらはらと流し始めた。のん きにごろ寝をしていた当主の勇太郎に長男の優一、それに台所を片付けていた祖母のゆうさ ん、みんな揃って肝を潰している。いやそのあまりの意外な状況に、である。
「え、と…すると、なんですか、えー、有三に…」
 自分でも何を言っているのかわからないでいる母親に、しづさんはハンカチで目を押さえ ながらうなづいてみせた。
「はい、ご迷惑かと思ったんですが…」
 言っておくが上の弟と違ってしづ姉は芸能人でも何でもない。若堂流師範代を兼ねるただ の箱入り娘である。本人、演技しているつもりはまったくないのだが、生活環境の差という か、価値観のギャップというか、その生まれ持っての特異な存在感に圧倒されて、この人の 良さだけが取り柄の一家は完全に彼女のペースに巻き込まれているのだった。
「よし、わかった!」
 いきなり胸を張ったのは当主である。
「こんな美人の嫁さんに来てもらったんだ、この私にどーんと任せておきなさい。ご両親も わかってくれますよ。なーに、そのうち孫でもできれば許してくれますって」
 まだ唖然としていた他の家族たちも、この「孫」という具体的な方向が示されたことでよ うやく目が覚め始めたようだった。
「有三は今、出前に行っててね。もうすぐ帰って来ますよ」
「しかし意外に手の早い奴だったんだな。こんな美人をつかまえてたなんて」
 実は2人の兄さんたちより年上なんですけど。
「ヨーロッパの試合から帰ってからしばらくぼーっとしてたのは、この事で悩んでたんだ な、あいつ」
 もちろん優一はその大会の直前に末弟がドイツで大変な目にあっていたことなど知るはず もないから、その精神的疲労がどこから来たものかについての見当違いはしかたがない。
「おいおいおい、何だ、この店はよぉ!」
 と、その時、店のほうで柄の悪い大声が響いた。
「客が来たのに誰もいないのかぁ?」
「はぁい、いらっしゃいませー!」
 おかみさんがあわてて走って行った。しづさんはその美しい眉をわずかに寄せる。覚えの ある声だ。
「客をなめてんじゃねえぞ! 何だ、このそばは!」
 やがて声がハモり始めた。ひどい不協和音である。
「こんなもんを食わせようってのか、あーん?」
「あたしが行きますよ」
 ゆうさんがのれんをくぐって店に出て行った。しづさんもつっと立ち上がる。間違いなか った。南葛駅を出た時に遭遇したあの男たちに違いない。東京のナンバーをつけた外国製乗 用車から「いかにも風」の男たち4人組が、中年夫婦の車に接触したのなんのと言い掛かり をつけて今しも金を巻き上げようとしていたその時、駅前のバス停のバスの列から高く鳴り 響いたホイッスルの音が寸前のところでそれを阻んだのだった。男たちはそそくさとその場 から退散したが、むろんそれは警察のものではなく、バスの運転手用の備品をしづ姉がとっ さに拝借したものだったのだが。
「なんだなんだ、婆さんかよ」
「おい、見てみな。そばン中にこんな汚ねえもん入れて食わせようとしたんだぜ。責任とっ てもらおうじゃねえか!」
 男が指でつまんでいるのはそばつゆに浸ったタバコの吸い殻であった。どう間違ってもそ ば屋の厨房で入れられる物ではない。
「確かに汚いわねえ」
 すずやかな、しかし凛とした声が男たちの頭上に響いた。
「その汚いお顔、おそばを食べる前にきれいに洗って来たほうがよかったんじゃなくて?」 「なっ……な、何だとぉ、こいつ!」
 いつの間にか音もなく彼らの正面に立っていたしづ姉に、男たちは一瞬か二瞬息を止めた が――ふつーのおばさん、ふつーのおばあさんに続いてこういうのが現われるとは予期して いなかったのだろう、もちろん――すぐ気を取り直してわめき始めた。
「手伝ってあげましょうか」
 手に持っていたコップの水を狙い外さず目の前の男の顔に浴びせる。瞬間、店内に凍った ような沈黙が流れた。
「あら、きれいにならないわ。洗うだけ無駄だったかしら」
「や、や、や、野郎〜!」
 スーツごとぐしょ濡れになって絶句した男は、しづ姉の言葉で我に返った。もっとも語彙 不足は改善されなかったようで、妙齢の女性に「野郎」はないだろう。
「ふざけやがって!」
 悠子さんとゆうさん、それにのれんの陰から覗いていた父と息子たちは思わず目を覆いか けた。体だけはいかつい4人の男たちがまとめて襲いかかったのだ。
「すみません、お店が壊れるといけないので外に出ますね」
「あ…?」
 男たちに囲まれたと思われたその時、まったくの別方向から声がして一同ぽかんとする。 開けたままの店先のそのノレンの下から近所の野次馬に混じって顔を覗かせているのはさっ きそこにいたはずの嫁さん(予定)ではないか。
 目標物を見失った男たちはそれを振り返って完全に逆上したようだった。跳ね起きるのも もどかしく争うように店の外に飛び出して行く。
 そう、自分たちの運命は知らずに。














 一方ここは東京都の辺境にある東邦学園の一角。正確に言うと高等部男子寮の舎監室の前 であった。電話の前に長身の生徒が立っていた。その背にえもいわれぬ殺気がある。
「――もう一度言ってくれ、みのり」
 電話の向こうで繰り返された妹の声は必要以上に鮮明であった。聞き違いという逃げ道は ふさがれる。
「か、駆け落ち…!」
 地味でありながら人目を引かずにおかないという珍しい特技を持つ若島津健は、この時も 自分の周囲で何人もの目が注目していることに全く気づかずにいた。
『そうよ、今朝早く。父さんはずっと駆け回ってるわ。最後にしづ姉を見たのは母さんだけ ど、行き先は聞かなかったんですって』
「………」
 なんとなく情景が想像できてしまう自分が悲しかった。父親似を自覚しているだけに。
『でも聞かなくったってわかるわ。彼氏のところに決まってるわよねー、駆け落ちなんだも の』
「…そいつは誰なんだ!」
『知らない』
 明和東中2年生の妹の冷静かつきっぱりとした返事が若島津をまた脱力させた。今のとこ ろ段位は同じだが、この分だと実力は彼を上回るという噂は本当だろう。
「…わかった」
 わかったと言ってもただ一つ、この騒ぎのリーダーシップを取っているのがどうやら妹の みのりらしいということだけだった。
『そ。じゃーね。また連絡するわ』
 その罪のない声がぷつりと切れた後も、若島津はしばらく放心状態で受話器を宙に浮かせ ていた。そのままラウンドは寮の自室に移る。
「なにぃ? じゃあおまえは参加しねえってのか!?」
「すいません。大学部の監督さんには後で連絡しておきますから」
 大学部の監督さんのことなど最初から頭にない日向は、ただ自分の都合で怒っていた。入 学前に大学部の合宿に特別参加することになって彼はとにかく張り切っていたのに、いきな り相棒に降りられてしまったのだ。
「家のことで、どうしても急いで帰らないといけないんです」
「誰か急病か?」
 日向の眉がちょっと曇る。自分の体調うんぬんにはガサツなくせに、他人の、それも家族 のそれには人一倍気を使うという意外な面を見せるのだ。
「いえ、ただちょっと色々ありまして」
「色々じゃわからねーよ!」
「すいません…」
 謝りながらもう廊下に飛び出している。この態度だけで十分不審に思えるはずだが、若島 津本人が自分でそう思っているのと同様日向は相棒を「普通」だと思っているので、そうい う判断がすっぽり抜けることになる。
「あの、日向さん…」
「何だ!」
「実はさっき若島津が電話で話してるのを聞いたんですが…」
 もちろん告げ口をする気はまったくないのだ。ただ関心のありどころが多分に個人的な思 い入れに支配されているだけで。
「な、なにぃ!?」
 そうして、日向の耳にその単語は届いてしまったのである。『若島津の駆け落ち』事件の 発端であった。










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