1章ー2

















 出前を届けたついでに別の家にまわって空容器を回収してきた働き者の三男坊はさっきか ら何か居心地の悪い空気を感じていた。商店街を東から西へ自転車で走り抜ける彼を見る周 囲の目がどうもいつもと違うのである。決して悪意ではない。むしろ過剰に好意的という感 じだった。
「よっ、有ちゃん!」
「やあ、がんばってるね!」
――いったいどうしたってんだろ。
 森崎は心の中でつぶやいた。互いに古くからのなじみばかりの商店街である。家族同然の 気さくな付き合いの町内なのだから、挨拶くらい当たり前なのだが…。
「おめでと、有ちゃん!」
「よかったねえ」
――え、「おめでと」だって…!?
 今の声は米屋の若だんなだ。何がおめでとなんだ? 大学合格のことにしては随分タイミ ングがずれてるし…。
 フランボワーズが近づくにつれて人々の好意の視線がいよいよ露骨になってきた。
「兄ちゃんたちを差し置いてさ、うまくやったね!」
「ほんとほんと」
「はあ…?」
 聞き返そうとしたがこちらは自転車の上である。岡持ちのバランスを保つためにも無闇に スピードを緩めることはできないのであった。疑問だけがどんどんふくらむ。
「美人よねえ。それにまあ強いこと…」
「うんうん、あたしゃあんなにきれいな人初めて見たね!」
 森崎に運命の時が近づきつつあった。














「え、でも…」
 規則ですから、という言葉をおねーさんは思わず飲み込んでしまった。窓口に立っている 長身の青年が、彼女ににっこり微笑んだのだ。
「お願いします。姉はそそっかしくて、すぐ漢字を間違えるんですよ」
 気持ちがぐらりと傾きかけたが、市役所職員は彼女一人ではない。くだんの転出届は昨日 提出済みで既に手続きは完了している。いくら肉親の申請でもいったん受理した書類を閲覧 させることは自分の一存ではできないのだ。そこを曲げるとなるとやはり…。
 おねーさんはそっと左右に目を配った。と、運悪く隣の男性職員と目が合ってしまう。
「どうしたんです?」
 おねーさんはあせった。が、先輩は彼女にではなく、直接相手に声をかけた。彼女の不安 をよそに、妙に愛想がいい。
「なるほど、身分を証明するものはありますか?」
「はい、学生証なら」
 若島津が開いて見せた東邦学園高等部の学生証にちらりと目をやっただけで、先輩職員は うなづいた。
「昨日あなたのお姉さんの届けを受けたのは僕です。いやあ、そっくりなのですぐ思い出し ましたよ」
「………」
 ほんの一瞬ではあったが若島津の目に殺気が閃いた。が、窓口のおじさんとおねーさんは 幸いなことにそれには気づかなかったようだ。
「あなたは目はいいですか?」
「え、はあ…」
 職員は側の端末の前に座り、キーを叩き始めた。
「残念ながら規則ですのでお教えすることはできませんが、偶然、たまたま通りかかるって こともありますからね」
 やがて画面に数行の文字が出てきた。それを見てから男性職員は席を立つ。若島津に目く ばせをして。
「………」
 何の遠慮もなくカウンター越しに凝視する。無言のまま、身動き一つせずに。
「あの…、これはお返しします」
 見入っている若島津に、おねーさんがこわごわと住民票閲覧申請書を返した。若島津はは っと我に返ると、おねーさんにもう一度笑顔を向けて礼を言った。
「珍しく漢字は間違えなかったみたいです。じゃ、どうも」
 しかしその笑顔は心なしか青ざめて見えたような気が、おねーさんはしたのだった。その 背を見送ってから端末画面をちらっと見下ろす。
『転出先: 静岡県南葛市清白本町3丁目………』
 が、もちろんおねーさんにとってその内容は何の意味も持たなかった。














「あのー、これ、どういうことなんですか?」
 森崎は小走りに後を追いながら常識的な質問をする。しづ姉は首をかしげるように振り向 いた。
「ごめんなさいね。びっくりした?」
 返事になっていない。が、素直に謝られると、素直な森崎はまた何も言えなくなった。
 何にしても、これでびっくりしない人間はいないだろう。店に戻った途端に家族や町内の 隣人たちから祝福と質問の集中砲火を浴びせられ、でもっていきなり目の前に「お嫁さん」 を突きつけられたのだ。そのお嫁さんに二人でゆっくり話しましょう、と散歩に誘われて、 森崎は真っ白になった頭のままふらふらとついてきたのだったが。
「で、でも…!」
「よっ、さっそく見せつけてくれるね、有ちゃん!」
「お熱いよ!」
 町内の暖かい声援につい笑顔で頭を下げてしまう森崎であった。これでは追及もままなら ない。
「あの…」
 よく考えると何と呼ぶべきかもわからなかったりする。
「…若島津のお姉さん、俺は…」
 数歩先を歩いていたしづ姉はちょっとびっくりしたようにこちらを振り返った。一度見開 いた目がふっと和らぐ。
「しづ、って呼んでくださる?」
「え、えーと、だから…」
 とにかく足が早い。女性にしてはかなりの長身なのは確かだ。少し背丈が上回っている森 崎だが、さっきからなかなか追いつけないでいるのだった。
「訳を、とにかく訳を聞かせてください!」
「あなたが好きだから」
 いきなりぱたりと足が止まる。南葛川の土手沿いの道である。森崎も同じく急停止した。 こちらは絶句して、だった。
 3年前に一度会って一夜を過ごした――非常に誤解を招きかねない表現だが――だけの相 手である。しかもあの時は緊急事態の真っ只中だったのだ。身に覚えがない。そういうこと だ。
「オ、オレ、まだ18になったばかりだし…」
「いきなり話が現実的になるのね」
 しづ姉はくすくす笑った。今月やっと誕生日を迎えたことは既に承知済みらしい。
「やっぱり私、うんと年上だし、嫌よね」
「い、いえっ、そういうことじゃ…」
「あなたは逃げなかったものね」
 森崎の顔を覗き込むようにしてしづ姉が言った。その真剣な視線に森崎の背がピシッと伸 びる。しづ姉はちょっとため息をついてからまた静かに前を向き、歩き始める。ちょうど雲 が切れて夕方の陽が斜めにその顔を照らした。
「私ってほんと、もてないのよ」
 正確に言うと「敬遠されている」ということではないだろうか。道場の男たちも父親に睨 まれていては手も出せまいし、それ以前にこの並外れた腕を持つ師範代を「女」扱いするよ うな余裕もないはずだ。実際、通っていた女子大でもそれ以外の場所でも、若島津しづはは っきり言って浮いていた。その次元の違う美貌には、しっかりと内面が反映されていたらし い。一目で「ただならぬもの」を感じ取って本能的に逃げ腰になる男が続出したのは間違い ないところだ。
「あの…」
 だからと言ってなぜ自分に矛先が向くのか、森崎が言っているのはそこなのだが。
「訳があるんでしょう? 本当のことを言ってください」
「本当のことを言っても、怒らない?」
「怒りませんたら。言ってください」
 しづ姉はまっすぐ森崎を見た。
「だから、あなたが好きなの、森崎くん」
「…………」
 怒ることもできず、笑い飛ばすこともできず、森崎に残された道は一つしかなかった。














 とん、とお茶が目の前に置かれた。ぼーっと顔を上げる。座卓の向こう側には無表情な女 子中学生が座ってじっとこちらを見ていた。
「健兄、そんなにショック?」
「…ショックと言うより、気が、抜けた」
 とりあえずお茶に救いを求めてズズ、とすする。ただ広いばかりの彼の実家は妙にしんと して、その静けさが不毛な会話にさらに追い討ちをかける。市役所に寄ってから帰宅してみ ると両親は不在だった。父親は言うまでもなく心当たりをあたって奔走中である。一方母親 は「古鐘を訪ねて」サークルのお茶会に出かけてしまったと言う。何を考えておるのだ。
「私はしづ姉、見直しちゃったわ」
 みのりちゃんは自分のお茶をこくりと飲んでからそう宣言した。
「だって駆け落ちなんて、ロマンティックじゃない?」
「みのり…」
 やはり価値観の差というものがあるようだ。
「しづ姉に男を見る目があると思うのか」
「ないわね」
 みのりちゃんはふーっとお茶に息を吹きかけた。
「だって、持てと言っても無理よ。しづ姉ってマトモに男の人と付き合ったことないんだも の」
 自分は6年間も寮生活をして家族と離れていたが、妹がそう言うなら、それは間違いない のだろう。若島津はやや絶望的になりながらそう考えた。
「でもまぐれ当たりってこともあるわ」
「うっ……」
 この暴力的なまでの思い切りのよさ――これだからO型は困る、と若島津が誰かと思い合 わせて考えたかどうかは伏せておこう。
「それに健兄、その人のこと知ってるんでしょ?」
「ああ、よーく、な」
 その顔を思い浮かべて、若島津はいきなり不安になった。困った目にあうと、あいつは決 まって笑ってみせる。災難にまで気を使ってどうすると言うんだ、まったく!
「俺、やっぱり確かめに行く」
 若島津は立ち上がった。こんなとこでのどかに茶を飲んでいる場合ではない。
「はっきりするまで、父さんたちには黙っててくれ」
「そうね」
 みのりはにこっと笑った。めったに笑わないので、たまに見ると胸にこたえる迫力があ る。
「父さん、きっとしづ姉の大学に調べに行ってると思うから、鉢合わせはせずにすむわね」 「大学…?」
 しづ姉が卒業したのは1年前。都内の厳格な女子大で、父親の言いつけ通り門限を守って 清廉潔白な学生生活(あるのか、そんなもん)を送っていたしづ姉だけに、その方面の手掛 かりがあるとは思えなかったが。
「しづ姉、かわいそう。ほんとはもっと研究を続けたかったのよ」
「……」
 その件についてはコメントしにくい立場にいる若島津であった。4人の兄弟姉妹のうち、 男2人が早々にリタイアしてしまったために、この若堂流道場の後継者問題は必然的にしづ 姉の肩にかかってしまったのだ。
「…わかった。そのへんも訊いてくる」
 もしつかまえられたなら。
 家を後にしながら、若島津は一つだけ希望を抱いていた。彼は「夢」を見なかったのだ。 これまで森崎の身に起こるトラブルは「夢」としていつも若島津の前に予め示されてきた。 そのトラブルが重大であればあるだけ例外というものはありえない、と若島津は確信してい たのだ。
 重大なトラブル――実際いつもそれをまともにくらってしまうのが森崎より自分であるこ とに、若島津はどうやら気がついていないようだった。










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