1章ー3

















 3月も末とはいえ、夕暮れ近い川岸を吹く風はかなり冷たい。しかし暑さ寒さに動じない 武道家と寒い境遇に慣れているキーパーは、土手の草の上に座り込んで、こんがらがった話 をほどきにかかっていた。
「2年、ですか…?」
 森崎は気が抜けたようにつぶやいた。
「ええ、最後のチャンスなの。先生が、共同研究者として誘ってくださって、向こうの大学 でなら研究を続けられるって…。身分的には研究助手なんだけど」
 道場を継ぐか、研究を続けるか。その選択すら許されないとしたら家を出るしかない、と いう思い詰めた気持ちは、同じく家業を継がされそうな立場にいる森崎にはよく理解でき た。おそらく本人以上に。
「だから、ごめんなさいね。時間がないから、結婚式もハネムーンもしている余裕がない の」
「……あのぉ」
 だからと言ってそこまでの発想の飛躍には付き合いかねる森崎であった。
 しづ姉はしばらく無言で森崎を見つめ、それから急に思い出したように身を乗り出した。 「と、いうわけだから、プロポーズ、してくださる?」
「プ……!!」
 何が「と、いうわけ」なんだっ!――と普通の人間なら怒鳴り返すところだが、あいにく 森崎くんは(みなさんもご存じの通り)普通の人間ではなかった。彼はつまり人が良すぎた のである。
 ちなみに手順としては完全に逆になっている。婚姻届は既に南葛市役所に提出されてしま っているからだ。めでたいめでたいで浮かれた父親がしづさんに請われるままにハンコを押 してしまったのだと聞かされた時、さすがに森崎も目の前が真っ暗になった。彼とて自分の 運命の女神がこの父親だとは思いたくないではないか。
「……若島津の姉さん!」
「はい」
 にっこり笑顔を向けられて、ついたじろぐ。
 この時、顔を合わせて、森崎は直感的に悟ってしまった。しづさんに打算というものがま ったくないことを。からかうつもりもわざと驚かせるつもりもなく、ただひたすら大真面目 なのだ。行動とその結果が突拍子もないというだけで。(…救いがないってことだな)
「お、俺…」
 それに気づいた途端に見る見る顔が赤くなる。
 目の前では、しづさんが素直に森崎の次の言葉を待っている。これはこわい。何よりこわ い。彼がこれまで経験した中でもこれに勝る強力シュートはなかったはずだ。
「え、っとぉ……お、俺でよければ…け、っこん」
「はい!」
 森崎にとって、一世一代のキャッチかもしれなかった。
 しづさんはにこっと笑い、森崎の顔を覗き込む。
「ね、ここでキスをするのが決まりじゃなかったかしら」
「えっ、キ、キス!?」
 森崎はびっくりしたように振り返った。
「い、いいんですか?」
「もちろんよ」
 混乱しているのか熱に浮かされているのかは不明だが、根が真面目なのはお互いさまだか ら、これはこれで似合いの二人と言うべきだろう。
「…これが、約束ね」
 ゆっくりと離れると、真っ赤になっている森崎にしづさんは笑顔で言った。
「きっと、帰って来るから」
「はあ…」
 やっぱりちょっと変かも、と森崎はぼーっと考えていたのだった。














「聞いてくれよ、うちの親父まだぶつぶつ言ってんだぜ」
「え、東京に決まったことをか?」
「おまえ、長男だもんな」
 来生の頭越しに滝がのんきに論評する。ちなみに彼も井沢と同じくれっきとした長男であ る。
「だけど、受験の時は黙ってたくせに今頃になって文句言うなってんだ」
「未練なんじゃねーの?」
「なんだよ、それぇ!」
 声を張り上げかけた井沢のセーターが、いきなり背中から引っ張られた。振り向くと来生 が真っ青な顔で立っている。
「お、おい、見ろよ――あそこ!」
 来生が指さした先は、暮色の下りかけた南葛川の向こう岸だった。三人は同時に金縛りに なった。
 そこには、キスを交わす一組のカップルが…。しかも片方には見覚えがあったりして。
「うっっ…!」
「も、森崎!?」
 三人の呼吸が完全停止した次の瞬間、重なっていた影が二つに別れてさらなるパニックが 彼らを襲った。
「若島津だぁあああ!」
「なんで〜!」
 土手道の上で三人してどたばたと駆け回る。彼らのチームワークは別々の進路を選んだ今 も揺るぎないものであった。
「も、も、森崎のやつ…!」
「まだ若島津と手を切ってなかったのかよ!」
「その上、こんなとこで堂々と…!」
 3年前の事件に端を発する彼らの誤解は根深いものがあった。しづ姉の存在を知らないと いう悪条件も重なって、こうして騒ぎは一気に全国規模で広がって行くのであった。














 さて、ここで時間は少し進んで1日後のドイツになる。フランクフルト空港の国際線到着 ロビー。その電話ブースに一人の男がいた。
「だから! そういう不可解な情報じゃなく、もっとわかりやすく説明をしろと言ってるん だ」
 長身に加えて独特の長い黒髪が人目を引くその男は、さっきから受話器に向かってしきり に怒鳴っていた。
 大きな声では言えないが、実はその電話にコインは入っていない。電話に向かっているの は人目をごまかすための単なるポーズであった。
「モリサキが結婚したってのはまあ事実として認めよう。つい一ヶ月前にあれだけ一緒につ るんでて、そんな話は全然出て来てなかったとしてもな」
 ヘフナーにしては「超」のつく多弁ぶりであった。興奮していることが他人の目にも明ら かなのもとにかく珍しい。
「しかしその相手がワカシマヅ、ってのはどういうわけだ! 同じ日本人なら情報は正確に 流せ!」
 もうメチャクチャな理屈である。だが若林の日本についての情報源が元修哲メンバーに限 られている以上、それは無理というものだった。電話代が要らないとはいえ、二人の遠距離 通話はさっきからすれ違ったまま空しく延々と続いている。
「もういい! そろそろ出迎えの時間だ。モリサキの『新婚の嫁さん』のな!」
 ヘフナーは公衆電話の受話器を置くと深呼吸した。土曜日の午後、ブンデスリーガのレギ ュラーGKをこれ以上引き止めておくことはできなかった。キックオフまであといくらもな い。加えて若林が所属するハンブルガーSVは現在トップ争いの中心にいるのだ。
 が、その数分のち、ヘフナーは望まぬままに相当量の精神的ショックを若林に送りつける ことになった。
「ワ、ワカシマヅ…!? 本当にワカシマヅ…!」
 税関出口からぞろぞろと出て来る人波の中でひときわ目立つその人物は、進みながら硬い 表情であたりを見回していたが、ヘフナーと目が合った途端、ぱっと花が咲いたように笑顔 を見せた。
(う……嘘だろーっ!!)
『どうした、ヘフナー!?』
 ヘフナーでもショックを受けることがあるのだということを如実に知らされた若林は―― ロッカールームに入ったばかりだったのだが――あわてて遠隔通話の回路を繋ぎ直した。 が、呆然としたままのヘフナーは返事をしなかった。いや、できなかった。
「ええ、そうです」
 しづ姉はちょっとタイミングのズレた応答をしながら握手の手を差し出した。
「旧姓は若島津です。でも今は、森崎、森崎しづ、ですの」
 しつこいようだがこのグスタフ・ヘフナー、普通の男ではない。自分で「鼻」と呼ぶとこ ろの感覚で人間の波長を、そして危険の兆候を嗅ぎとることができるのだ。そしてその特殊 感覚の波が洪水のごとくアラーム音を発し続けていた。もちろんそのまま若林の元へ――数 百キロ離れた若林へと転送されているのだが。
(危険、キケン、危険、キケン、キ、キ、キ……)
『答えろ! どうしたんだ、ヘフナー!?』
 別にどうもしない。ヘフナーはただ、しづさんと初対面の握手をしていたのだった。







【第1章 終】


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