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3月も末とはいえ、夕暮れ近い川岸を吹く風はかなり冷たい。しかし暑さ寒さに動じない
武道家と寒い境遇に慣れているキーパーは、土手の草の上に座り込んで、こんがらがった話
をほどきにかかっていた。
「2年、ですか…?」
森崎は気が抜けたようにつぶやいた。
「ええ、最後のチャンスなの。先生が、共同研究者として誘ってくださって、向こうの大学
でなら研究を続けられるって…。身分的には研究助手なんだけど」
道場を継ぐか、研究を続けるか。その選択すら許されないとしたら家を出るしかない、と
いう思い詰めた気持ちは、同じく家業を継がされそうな立場にいる森崎にはよく理解でき
た。おそらく本人以上に。
「だから、ごめんなさいね。時間がないから、結婚式もハネムーンもしている余裕がない
の」
「……あのぉ」
だからと言ってそこまでの発想の飛躍には付き合いかねる森崎であった。
しづ姉はしばらく無言で森崎を見つめ、それから急に思い出したように身を乗り出した。
「と、いうわけだから、プロポーズ、してくださる?」
「プ……!!」
何が「と、いうわけ」なんだっ!――と普通の人間なら怒鳴り返すところだが、あいにく
森崎くんは(みなさんもご存じの通り)普通の人間ではなかった。彼はつまり人が良すぎた
のである。
ちなみに手順としては完全に逆になっている。婚姻届は既に南葛市役所に提出されてしま
っているからだ。めでたいめでたいで浮かれた父親がしづさんに請われるままにハンコを押
してしまったのだと聞かされた時、さすがに森崎も目の前が真っ暗になった。彼とて自分の
運命の女神がこの父親だとは思いたくないではないか。
「……若島津の姉さん!」
「はい」
にっこり笑顔を向けられて、ついたじろぐ。
この時、顔を合わせて、森崎は直感的に悟ってしまった。しづさんに打算というものがま
ったくないことを。からかうつもりもわざと驚かせるつもりもなく、ただひたすら大真面目
なのだ。行動とその結果が突拍子もないというだけで。(…救いがないってことだな)
「お、俺…」
それに気づいた途端に見る見る顔が赤くなる。
目の前では、しづさんが素直に森崎の次の言葉を待っている。これはこわい。何よりこわ
い。彼がこれまで経験した中でもこれに勝る強力シュートはなかったはずだ。
「え、っとぉ……お、俺でよければ…け、っこん」
「はい!」
森崎にとって、一世一代のキャッチかもしれなかった。
しづさんはにこっと笑い、森崎の顔を覗き込む。
「ね、ここでキスをするのが決まりじゃなかったかしら」
「えっ、キ、キス!?」
森崎はびっくりしたように振り返った。
「い、いいんですか?」
「もちろんよ」
混乱しているのか熱に浮かされているのかは不明だが、根が真面目なのはお互いさまだか
ら、これはこれで似合いの二人と言うべきだろう。
「…これが、約束ね」
ゆっくりと離れると、真っ赤になっている森崎にしづさんは笑顔で言った。
「きっと、帰って来るから」
「はあ…」
やっぱりちょっと変かも、と森崎はぼーっと考えていたのだった。
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