2章ー1







2章










「ワカシマヅの姉さん…?」
 ヘフナーの思考がようやく自分のペースを取り戻した時にはもう、列車は空港駅を出てフ ランクフルトの市街目指してひた走っていた。その元凶は車窓の風景に目を輝かせている。 「いきなり森なのね。どうして木がどれも同じ高さなのかしら。こんなに一面、ならしたみ たいに平らだわ」
「………」
「うふふ。まるでレゴのブロックみたい」
「…………」
 質問のきっかけがつかめない。この調子では。
「あっ、街が見えてきた! あれがフランクフルト? あらいやだ、こちらのほうがずっと レゴだわ。ほら、あのおうちの屋根なんてそっくり!」
 しづさんはドイツ語はほとんど話せなかったが、ヘフナーと英語でやりとりする分には一 応問題なかった。しかしヘフナーの当惑をよそに自分の世界を作っているこの人は、もはや すれ違いといった表現を超えているかもしれなかった。無口なヘフナーがいよいよ無口にな ってしまう。
 そのかわりに、というわけでもないが、改めて相手をまじまじと観察する。彼にとって日 本人の年齢というのはまったくのところ謎の領域だったが、この女性はその範疇をも超えて いるように思えた。若島津よりも剛よりも年長と言うからにはそれなりのお年頃なわけだ が、外見、中身共に既に年齢不詳以上のものがある。
「ヘフナーさん?」
「え……」
 女性と突然目が合ったくらいで動じるようなヘフナーではないはずであるが、さすがにこ の時、ある種の恐怖感というものを再確認してしまった。
「どうかしました? ぼんやりなさって…」
 若島津に似ている――と単純に言ってしまってよいものか、外見もさることながら、対し た時に感じるどこか手応えのないようなあるような感覚にやはり覚えがある。若島津の場 合、それが「取り付く島がない」という印象になる場合が多いのだが、こちらはそれに輪を 掛けて正体がつかめない。
 もしかすると、これが若堂流の極意というものなのだろうか。ヘフナーの日本人観はこう してますます歪められていくのであった。














 黒い、と言っていいくらいの濃い葉陰の針葉樹の間に赤レンガの校舎が点在している広い キャンパスは、イースター休みのさなかとあって、どっちを向いても人影はまばらだった。 もともとどこかの国のように学生をギッシリ詰め込んだマンモス大学などとは縁のないお国 柄ではあるが、ここまで来るとゴーストタウンだ。
 だがそうも言っていられない。ここがしづさんの目的地であり、探す相手もいるのだ。
「ああ、ここだな。タダス・ノモリ、と書いてある」
「ありがとう」
 しんとした廊下の一番奥の部屋だった。表示を確認したヘフナーと場所を入れ替わって、 しづさんはドアをノックする。
「野森先生? 元・若島津です」
 妙な名乗り方をしてからしづさんは耳を澄ます。返事はない。
「先生? いらっしゃいますか?」
 しづさんの大学時代の恩師、野森質教授は、昨年夏に客員教授としてこの大学に招かれ渡 独した。生化学を専攻するしづさんを研究助手として推薦したのはこの人である。
 日本語で声を掛けているのだから自己紹介はほとんど済んでいるようなものだが、やはり 返事はなかった。しづさんは困ったようにヘフナーを振り返る。
「待て、この匂い――」
 ヘフナーの表情が一瞬険しくなった。手を伸ばしてノブをつかみ、力任せにドアを押し開 ける。
「う……」
 部屋に飛び込んだヘフナーが棒立ちになった。その後ろから覗き込んだしづさんも目を見 開いて絶句する。
 教官室は文字通り血の海だった。デスクと片側の壁に挟まれた床の上に、一面真っ赤な血 溜まりができていたのだ。
「野森先生……いったい…?」
 しづさんは素早く室内を見回した。デスクの上にはありったけの本や書類が乱暴に放り投 げられているし、書棚、ロッカーも扉が開いたまま、間からファイルがこぼれかけている。 くずかごは倒れ、紙屑が血溜まりの中で赤く染まっているものもある。そんな中でしづさん の視線が一点に止まる。
「ヘフナーさん、あれ…」
 その血溜まりの前で片膝をついていたヘフナーが顔を上げた。一瞬何か言いたそうにした が、さっと立ってしづさんが指す窓べりの洗面シンクの前へずかずかと近づく。
 それは白衣だった。くしゃくしゃに丸めてあったのを取り上げると、血が既に黒ずんだシ ミになってべっとりとついている。ヘフナーがそれを広げてみようとした時…。
「き、きゃあぁ〜っ!」
 悲鳴は廊下まで響いた。教官室の開いたドアの前で、白衣姿の若い女性が真っ青な顔で口 を押さえていた。そう言えばこの二人、さっきから悲鳴どころかあわてず騒がず悲鳴も上げ ずにいたようだが、よく考えるとこちらの彼女ほうが普通の反応なんだった。
「誰か、誰か来て〜っ!!」
 騒々しい。
「どうする、あんた」
 ヘフナーはうっとうしそうに頭を掻いた。どうも今日は厄日というやつらしい。
「そうね…」
 しづさんはちょっと首を傾げてゆっくりと言った。
「先生はどうやらここにはいらっしゃらないようね。こんなになってる理由もわからないか らこれ以上ここにいても仕方ないかしら」
 このゆったりのったりとしたニュアンスをどう外国語に置き換えたらよいものか…。でも ヘフナーはさすがに肝心な一点だけは理解したようだ。つまり――、
『この女は変だ』
 という認識がもはや動かしがたい事実となって彼の目の前にじわじわと迫っているのだっ た。
「じゃ、行きましょう、ヘフナーさん」
 はっと気づいた時にはすたすたと部屋を出て行こうとしている。入れ違いのように大学関 係者らしき人たちがどやどやと押し掛けてきたが、その流れに逆らうようにして二人は廊下 を進んだ。
 こういう事態に出会った時、逃げる、というのは概して誤解を招きやすいものである。む ろん二人に逃げている自覚はないのだが、結果的にそうなってしまったことは否定できな い。
「行くって……、なあ、どこへ行く気だ」
「わかりませんわ」
 しづさんは真面目な顔で振り返った。
「でも、たぶんあなたが行き先を見つけてくださるわね。私じゃ道がわかりませんから」
 厄日はまだまだ続きそうだった。














 実のところ岬はこの町での確たるバックボーンを持っているわけではない。珍しく定住し て3年目になろうとしているにもかかわらず、である。何にも属さず、だからこそ何にでも 自由な精神で接触できる、というのが岬の生活哲学なのだ。
 そして、それは今回の騒ぎにおいても同様だった。
「笑い事じゃないんだよ、三杉くん」
 世間が意外と評する相手と、岬は電話で話していた。
「進学にしろ就職にしろ、地元に残るのはほんとに僅かなんだ。そうでなくたって気分的に 不安定な時期なのに…」
 現ユース代表、そしてオリンピックに向けての日本B代表に内定しているメンバーたちの 間で「広報」役もしくは情報センターとしてその知力財力機動力をフル稼働している三杉淳 は、不本意ながら目下のところ、岬にとって唯一の相談相手であった。
 それもこれも、彼の周囲の連中が今度の一件で揃って精神的ダメージを受け、話にならな かったからだ。
『僕に言わせると、それこそが南葛の強さの秘密じゃないのかい?』
「いーよ。キミがそこまで言うんなら――」
 サッカーのプレイにおいても日常生活の中でも、南葛高校のメンバーたちは非常に結束力 が強かった。と言えば聞こえはいいが、精神的に常に右へならえ的な流され方をしがちで、 つまり落ち込む時は全員でとことん落ち込み、乗っている時はやっぱり全員で果てしなく乗 ってしまう――しかも、その切り替えが無責任なまでに潔い――という非常に純粋で単純で 愛すべきやつらなのだった。小学時代は若林、中学では翼、というきわめてカリスマ性の強 いキャプテンの下で過ごしてきたのだから仕方がないと言えばないのだが。
 ともあれ岬は完全にふくれてしまったようだ。三杉の指摘は確かに間違ってはいない。だ が岬はこの3年間、このチームカラーを武器とするか弱点で終わらせるか、そのバランスを 微調整する仕事に明け暮れてきたのだ。それはご苦労さん、くらい言ってくれてもいいでは ないか。
「――森崎くんと若島津の結婚通知を全国に送って、南葛ウィルスを日本中にバラまくから ねっ!」
『それは困るなぁ』
 いっこうに困った様子のない口調である。
『オリンピック予選に向けての合宿が近いだろう? また日向のために備品代がかさむのは どうも…』
 もちろん払うのはサッカー協会だが。
「――そうか。…小次郎、どう?」
 その名前を聞いて現実に戻ったのか、岬の声が低まった。
『南葛の被害ほどじゃないね。日向以外は冷静だ』
 そりゃそうだろう。東邦がみんなして『健ちゃ〜ん、お嫁に行っちゃやだ〜!』なんて騒 いだらコワイ。(約1名くらいはいるかもしれない)
「若島津からは連絡ないの?」
『ああ、駆け落ちしたきりだね。親御さんのほうにも何もないらしい』
 またその凶悪な表現をする!
「そう…」
 しかし岬はあくまで聞き流した。
「ありがとう、三杉くん。キミだけがボクの心の支えだよ」
『どういたしまして、岬くん。君の役に立てて嬉しいよ』
 ああ、誰も聞いてなくてよかった。
 けれども、この愛に満ちた和やかな通話からかっきり一日後、岬に思いもよらないはた迷 惑が降りかかってきたのである。










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