2章ー2

















 夕食の買物を済ませて家に向かっていた岬は、なずな橋商店街のはずれで、ギョッとして 立ちすくんだ。どこかで見たような人物が、やはりとてもよく知っている人物と路上にしゃ がみ込んでいる。
「ど、どうしたの…!?」
 例によって表情のあまり読めない顔が、はっと上げられた。岬を見て驚いた様子はない。 むしろほっとしたような色がその中に見えたように岬は思った。
「森崎くんじゃない。…具合悪いの?」
「いや…」
 若島津はぐったりともたれかかっている森崎を抱え直した。森崎はむにゃむにゃ言いなが ら顔を上げる。
「何でも…ないんだ。……ちょっと、眠い…だけ……」
「え〜っ!?」
 そう言ってるはしからまた眠りこけている森崎であった。どこが『ちょっと』なのだ。岬 は疑惑の目になる。若島津は少しためらってから、改めて岬に向き直った。
「おまえの家、近いのか? 悪いが、少し休ませてやってくれないか」
「――いいけど」
 事情をきくのは後回しだった。どんなわけがあるにしろ、チームメイトを路上で眠らせる ような真似はさせられないではないか。
 先に立って案内しながら岬はちらっちらっと話題の二人を窺ったが、何かこう、悪びれな いというか単に無表情というか、期待していたような緊迫感がすっぽり抜けている感じだ。 「ねえ、酔っ払ってるんじゃないよね…」
「ああ」
 若島津の返事は普段通りの素っ気なさだし。
「ここだよ。どうぞ」
 アパートの2階に着く。森崎は半分は自分で歩いているつもりらしかったが、実際は肩を 貸した若島津がほとんど支えてここまでたどり着いた。
「――ごめん、みさき…」
「いいから、ほら!」
 口の中でモゴモゴ謝っている森崎をかなり乱暴に畳の上に放り出しておいて、若島津は岬 を振り返った。
「はい、毛布かける?」
「岬、こいつ、最近こういうことがあったか? ああ、つまりところ構わず眠っちまうって のか…」
 毛布を受け取りながら、若島津はじっと岬を見つめた。
「まさか。サッカー以外では世間の常識を守るように、ボクたち気をつけてるつもりだよ」  そ、そう…だった?
「森崎くんをそんなに疲れさせたの、キミのほうじゃないの?」
「なんだ、それは」
 岬の口調にちょっぴり冷やかしが混じっているのを若島津は聞きとがめた。
「だって――駆け落ちしたんでしょ?」
 珍しいことに、若島津がほんの一瞬あっけにとられた顔になった。岬は若島津が当然それ を否定すると予想した。起こるか呆れるかは別として。だが若島津は大真面目にこう言っ た。
「なんでそれを知ってる」
 気の毒な岬くんは、『世間の常識』への逃げ道を塞がれてしまうこととなった。ま、南葛 だからしかたないか。














「ハノーファーのオペラハウス?」
 受話器を握ったまま、ヘフナーはしづさんを振り返った。しづさんはボックスの外でじっ と見ているだけだ。ドイツ語がわからないのだから仕方がない。
「どうでした?」
「エデル氏は自宅にはいないそうだ。公演中らしい」
 出て来たヘフナーは頭を掻いた。もし連絡がつかない時は、と言って教えられたという教 授の知人宅――遥かベルリンである――に電話をしてみたのだが、さっそく肩透かしを食っ たかっこうだ。
「公演…って?」
「聞いていなかったのか。あんたの先生の友人ってのはバリトン歌手らしいぜ。ハノーファ ーのオペラハウスで『魔笛』の3日連続公演だそうだ」
 言うなりしづさんの足元の大きなバッグをひょいと持つ。しづ姉の顔がぱっと輝いた。
「ヘフナーさん、一緒に行ってくださるの、ハノーファー」
 返事代わりにちょっと肩をすくめてみせたヘフナーである。イースター休暇でいつもより 混雑しているフランクフルト中央駅構内をどんどん進んで行く。
 しづさんは身軽になったこともあって、好奇心いっぱいの目であたりを見回しながら、ヘ フナーのスピードにもしっかりついて行っている。
「あ、ちょっと待って」
 実はさっきこの中央駅で乗り換えた時にちゃんと目をつけていたのだ。人が行き交うホー ム横通路にドンと置かれている屋台にしづ姉は駆け寄った。
「えっとね、二つ、くださいな」
 大丈夫、ドイツ語が話せなくても通じる。身振りと表情が豊ならなお良い。おじさんはサ ンドイッチを売りたい、こちらはサンドイッチを買いたい――互いの思いは一致しているの だからコトは案外スムーズに運ぶ。
「腹へってるのか」
 ヘフナーが引き返して来て覗き込む。しづ姉はおじさんの手馴れたダイナミックな手つき をわくわくと見守っていた。ガラスケースに並んだハムやチーズや野菜を輪切りのパンには み出さんばかりにはさみ、白い紙にがさがさと包む――それが2回繰り返された。
「いいえ。一度自分で何か買ってみたかっただけ。ここだと簡単そうだし」
 受け取ったサンドイッチを胸に抱えて、しづ姉は嬉しそうにヘフナーを見上げた。
「旅行って、初めてなの。何もかも珍しくて」
「……」
 コメントに詰まったのか、若干の間が開く。
「――食い物を買っておくのはいいことだ。列車の中じゃロクなものがないからな。八百屋 にも寄るか?」
「駅に、八百屋さんが…?」
「あるさ。バーも床屋も仕立て屋もあるぞ」
 自覚のないまましっかりツアーガイドになっているヘフナーは、次にハノーファーへの乗 車券を買いに一人で窓口に向かった。しづさんはその間に飲み物を買うと言って張り切って いる。
「えっ…!?」
 2枚の乗車券を受け取ってコンコースに出たヘフナーは息を詰まらせた。
「やばい!」
 まっすぐ向こうの壁際にしづ姉はいた。男が二人、両側からはさんで何やら絡んでいる。 しづ姉は眉をひそめ、迷惑そうに相手を交互に見やっていた。
「何をしてる!」
 ヘフナーが駆け寄って行くと、男たちはぎょっとしたようだった。無理もないが。
「こんなの相手にするんじゃない。行こう」
 男たちは無視して間に割って入り、しづ姉の手を引く。
「待ちなよ、おい!」
 口ヒゲの若い男がヘフナーの肩をがしりとつかんだ。
「おまえら、今日ノモリ教授を訪ねて行ったろう。教授の身内か?」
「なに…?」
 ヘフナーは相手を睨み下ろした。男は一瞬たじろいだようだが、なんとか持ちこたえて睨 み返す。
「――俺たちと来てもらおうか。ちょいと話を聞きたいんでね。なあに、教授がどこへ行っ たのか素直に答えてくれるなら何もせんよ」
 ヘフナーの目が光った。次の瞬間、男の襟首をつかんで、ドン、と壁に体ごと押し付け る。ほとんど吹き飛ばされたかっこうの男は、目の前にぬっと覆い被さる無表情な顔に今度 こそ腰を抜かしかけた。
「……どこへだと? おまえたち、教授にいったい何をしたんだ!?」
「くっ、くそ……離せ!」
 ガタイの大きさはともかく、ここまで過激な腕力を持っているとは予想していなかったの だろう。男は息を詰まらせて真っ赤な顔をしながら、ジタバタともがくばかりだった。もう 一人があわてて詰め寄り、スーツの胸元に手を入れる。
「おいっ、やめろ! こいつが見えないのか!」
 銃身の先だけがスーツの下から覗いていた。ヘフナーはちらりとそれを見下ろしたが手は ゆるめない。と、その一番緊迫した局面で、しづさんがゆったりと割り込んできた。
「ねえ、何て言ってますの?」
「あのなっ!」
 さすがのヘフナーもぎょっとする。チャンスと見た男はしづ姉の体をぐいっと抱えて引き 寄せた。――いや、引き寄せたつもりだった。
「あれま…」
 今度は自然に手をゆるめてしまったヘフナーであった。締め上げられていたヒゲの男 共々、ぽかんと見つめる。ついでに物音に驚いた通行人たちがわやわやと集まって来てしま った。
「無礼者!」
 しづさんはきっぱりと日本語で怒鳴りつけた。こういう場合これは正しい対処法である。 ええとこの国の言葉でなんて言ったらいいんだっけ…なんてためらっていたら負け。たとえ 何語でも、要は『私は怒ってるんだぞ』ということをわからせればいいのである。
「私は夫ある身、気やすく触れてもらっては困ります」
 続いて今度は英語で宣言する。しかし相手はどっちにしろ聞いていないから気配りは無駄 だったかもしれない。つまり、つかまえるはずが逆に瞬時に腕をひねり上げられた男は、目 にも留まらぬ正拳突きに吹っ飛んで小荷物の山の上でのびてしまったのである。
「え、ヘフナーさん…?」
 人目がこわい。ヘフナーは素早くしづ姉の肩を抱えると、さっさとその場を離れることに した。しづ姉は不満そうに後ろを振り返りつつヘフナーに訴えた。
「あの人たち、野森先生のこと、言ってませんでした? 話を最後まで聞かなくていいのか しら…」
「――あんた、もしかして空手の段位持ち?」
 もっと早く確認しておくべきだったね、ヘフナー。どっちにしても手遅れだけど。
 サッカーグラウンドが3、4面とれそうなくらいバカでかいドーム屋根の下、二人は行き 交う雑踏の中へそそくさと紛れて行ったのであった。










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