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「ワカバヤシ! おい、ワカバヤシ!」
デッキのガラスに寄りかかって顔を誰にも覗かれないようにして、ヘフナーは何度も名前
を呼んだ。
「ワカバヤシ、返事しろ!」
『あー、うるせぇっ!!』
かなり間をおいてようやく反応があった。が、上機嫌とは言えないようで、波長がかなり
とんがっている。
『今まだ試合中だぞ! さては貴様、ケルンの回し者だなっ!』
なるほど、今日の相手はヘフナーの地元、1FCケルンらしい。だがヘフナーは、余裕が
あるんだかないんだかわからない抗議には耳を貸さず、さっそく用件を切り出した。
『――部屋が血まみれだって? おい、そいつはヤバイんじゃないのか? 彼女はなんて言
ってる』
「別に動揺はしていないようだな」
『………』
そういう本人もきっぱり冷静だからどうしようもない。
「とにかく手掛かりは今のところ一つだ。まずそっちから当たってみる」
『――ヘフナー、おまえってやつは…』
つくづく呆れたというふうに若林はぼやいた。トラブル好きの性格はこの分だとじいさん
になっても変わらないだろうな、と思う。
『好きだからトラブルが寄ってくるのか、いつもまとわりつかれてるから好きになったのか
…』
「なんだって?」
『――お、来やがったな』
わざととぼけたのではなく、若林の意識が一転緊張したのをヘフナーは感じた。ま、お仕
事の邪魔をするつもりはないからおとなしく待つ。
『ふん、そんな程度でうちのゴールを奪えると思うなよ』
プロとしてのキャリアを数倍積んでいる選手たちに囲まれていても、若林の態度のデカさ
は変わりないようだ。デビューの年に新人賞をとった時も、その「新人」という初々しい言
葉があまりに似合わなくて、関係者が苦笑したという伝説もあるくらいだ。
「だから頼むな」
若林のプレイぶりについて今さらコメントする気などないヘフナーは、ボールがフィード
されたタイミングを見計らって委細構わず話を再開した。とても18才とは思えない…と言
われるのは若林だけではないのだ。
『何をだ!』
「あの嫁さんをなんとかしてくれ」
『言っとくが、俺はおまえらのためのボランティア窓口じゃないぞ』
「違ったのか?」
昨日は森崎から、嫁さんの案内を頼むという連絡があり、その前は井沢たちから森崎の結
婚騒動について支離滅裂な注進があった。相談相手として信頼されている――というよりこ
れは単に便利屋にされているのかもしれないと思ってしまう若林であった。
それにつけても森崎からの国際電話があった時に留守にしていたのは痛かった。大家のシ
ュトック夫人の英語はかなり心もとないもので、ほとんど伝言ゲームの大笑いな結末みたい
になってしまったのだ。直接本人と話ができてさえいれば井沢の報告の事実関係をちゃんと
確認できただろうし、問題の嫁さんについてもそれなりに心の準備ができたかもしれないの
に。
『俺は動けないんだ、わからんのか! ペナルティエリアから出られねえんだよっ!』
そうじゃなくてー。
『このくそ忙しいとこへ水曜日にオリンピック代表とテストマッチが組まれてるんだ。うち
のレギュラーがじいさんと外人ばかりだからってな!』
「――なかなか刺激的な表現だな」
キーパー同士の攻防、らちがあかないというのはこういうことかもしれない。
『わかったな、ヘフナー。その嫁さんはおまえがじっくり世話してやるんだ』
諭しの源三、と言われた彼もヘフナー相手ではどうも切れ味が悪いようだ。
「でも、いい女だぞ」
『……美人なのか』
「ワカシマヅに生き写し」
一瞬の沈黙。
『よし、何とかしよう』
どちらかと言うと、今日の試合の相手チームに同情したくなる会話であった。
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