2章ー3

















「ワカバヤシ! おい、ワカバヤシ!」
 デッキのガラスに寄りかかって顔を誰にも覗かれないようにして、ヘフナーは何度も名前 を呼んだ。
「ワカバヤシ、返事しろ!」
『あー、うるせぇっ!!』
 かなり間をおいてようやく反応があった。が、上機嫌とは言えないようで、波長がかなり とんがっている。
『今まだ試合中だぞ! さては貴様、ケルンの回し者だなっ!』
 なるほど、今日の相手はヘフナーの地元、1FCケルンらしい。だがヘフナーは、余裕が あるんだかないんだかわからない抗議には耳を貸さず、さっそく用件を切り出した。
『――部屋が血まみれだって? おい、そいつはヤバイんじゃないのか? 彼女はなんて言 ってる』
「別に動揺はしていないようだな」
『………』
 そういう本人もきっぱり冷静だからどうしようもない。
「とにかく手掛かりは今のところ一つだ。まずそっちから当たってみる」
『――ヘフナー、おまえってやつは…』
 つくづく呆れたというふうに若林はぼやいた。トラブル好きの性格はこの分だとじいさん になっても変わらないだろうな、と思う。
『好きだからトラブルが寄ってくるのか、いつもまとわりつかれてるから好きになったのか …』
「なんだって?」
『――お、来やがったな』
 わざととぼけたのではなく、若林の意識が一転緊張したのをヘフナーは感じた。ま、お仕 事の邪魔をするつもりはないからおとなしく待つ。
『ふん、そんな程度でうちのゴールを奪えると思うなよ』
 プロとしてのキャリアを数倍積んでいる選手たちに囲まれていても、若林の態度のデカさ は変わりないようだ。デビューの年に新人賞をとった時も、その「新人」という初々しい言 葉があまりに似合わなくて、関係者が苦笑したという伝説もあるくらいだ。
「だから頼むな」
 若林のプレイぶりについて今さらコメントする気などないヘフナーは、ボールがフィード されたタイミングを見計らって委細構わず話を再開した。とても18才とは思えない…と言 われるのは若林だけではないのだ。
『何をだ!』
「あの嫁さんをなんとかしてくれ」
『言っとくが、俺はおまえらのためのボランティア窓口じゃないぞ』
「違ったのか?」
 昨日は森崎から、嫁さんの案内を頼むという連絡があり、その前は井沢たちから森崎の結 婚騒動について支離滅裂な注進があった。相談相手として信頼されている――というよりこ れは単に便利屋にされているのかもしれないと思ってしまう若林であった。
 それにつけても森崎からの国際電話があった時に留守にしていたのは痛かった。大家のシ ュトック夫人の英語はかなり心もとないもので、ほとんど伝言ゲームの大笑いな結末みたい になってしまったのだ。直接本人と話ができてさえいれば井沢の報告の事実関係をちゃんと 確認できただろうし、問題の嫁さんについてもそれなりに心の準備ができたかもしれないの に。
『俺は動けないんだ、わからんのか! ペナルティエリアから出られねえんだよっ!』
 そうじゃなくてー。
『このくそ忙しいとこへ水曜日にオリンピック代表とテストマッチが組まれてるんだ。うち のレギュラーがじいさんと外人ばかりだからってな!』
「――なかなか刺激的な表現だな」
 キーパー同士の攻防、らちがあかないというのはこういうことかもしれない。
『わかったな、ヘフナー。その嫁さんはおまえがじっくり世話してやるんだ』
 諭しの源三、と言われた彼もヘフナー相手ではどうも切れ味が悪いようだ。
「でも、いい女だぞ」
『……美人なのか』
「ワカシマヅに生き写し」
 一瞬の沈黙。
『よし、何とかしよう』
 どちらかと言うと、今日の試合の相手チームに同情したくなる会話であった。














「ヘフナーさん、すみません。起きてくださいな」
 なまじのことでは表情が動かない体質でよかった。普通の人間ならにまにまと笑いを浮か べているところを目撃されてしまっていたことだろう。
 窓にもたれていた顔を振り向けると、しづさんがこちらも負けずに落ち着いた顔で立って いた。デッキに立ったまま顔を隠している男を怪しみもせず、居眠りしていると勘違いして くれる素直なお姉さんである。ヘフナーもそこには感謝しなければ。
「どうかしたのか」
 若林との通信を未練もなく切ってヘフナーは問い返す。
「さっき駅で会った人が、乗ってますわ」
「ほんとか」
「私、目はいいですから」
 しづさんに無礼をはたらいてのされたほうの男はさすがにリタイアしたらしく、つまりヒ ゲの男のほうだと言う。ヘフナーが席を立ったすぐ後に、隣の車両から覗いていたのだそう だ。
「次の停車駅は――ハーナウか」
「もう降りるんですか?」
 飲み込みは悪くないようだ。デッキ横のバゲージ棚に入れてあった自分のバッグをひっぱ り出して、しづ姉はにこっと微笑んだ。2年もの滞在にしては少ない荷物だが、これでなか なか重いことを、運ばされたヘフナーおよびこれを投げつけられた追っ手の男は、この直後 思い知ることになった。
「もっと先だ!」
 男に命中して転がったバッグを素早く拾い上げてヘフナーが叫んだ。彼らが今降りた長距 離列車(インターシティ)とはホームの反対側に、かなり旧式のローカル列車が発車待ちし ている。こちらに乗るのかと走りつつ目で問うしづさんに、ヘフナーはさらに走るように指 示して自分も後に続いた。
「あら、動き出しましたけど」
 発車ベルもホイッスルも聞こえなかったがこれがドイツの鉄道の流儀だ。二人が走る横で ローカル列車はゆっくりと動き出していた。
「よし、その先のドアだ。飛び乗れ」
「はい」
 手動のドアはまだ外に向かって開いている。そこに飛びつくようにして二人は列車に飛び 込んだ。飛び込んでおいて首を突き出し、背後を確認する。
 ヒゲの男も列車が動き出したのにあわてたのだろう。二人が1両先の車両に飛び乗ったの を見て自分も急いで手近のドアに飛びついている。閉め忘れたそのドアをホームにいた駅員 が手を伸ばしてバタン、と閉めてくれたのもしっかりと見えた。
「あばよ」
「ほんと、行っちゃいましたわね」
 男が乗った列車はそのままスピードを上げて駅を出て行った。その一方で、二人のいるこ の車両はまだホームにある。
 さっきドアを閉めていた駅員がそんな二人を不思議そうに振り返ったので、二人は顔を引 っ込めた。
「さ、こっちも席につこう。あと10分ほどで発車だ」
「ドイツの駅って不思議ですのね。同じホームなのに」
 男は気づかなかったのだ。こちらの列車は駅に着いた後で連結を切り離していたことに。 支線に向かう列車と、別方向に向かう列車が同じホームにそのまま停車していたのだが、そ の片方だけが先に発車したとは知らずに飛び乗ったのが運の尽きだった。
「この分だとあいつら、まだまだ諦めそうにないな」
 若林に指摘されるまでもなく、やっぱりどこかちょっぴり嬉しそうな顔になっているヘフ ナーだった。














 岬くんは人生の不条理をかみしめながら台所に立っていた。
「そりゃ黙ってろって言うんならボクも黙ってるよ。でもね、若島津、スキャンダルはまず いんじゃない、この時期?」
 どの時期だってまずいものはまずいと思うが。
「それにいくら逃げ隠れしたってすぐ見つかっちゃうよ。南葛も東邦も大騒ぎになってるん だから」
「別に逃げ隠れする気はないさ。ただ、こいつが――元に戻るまで、あんまり人に詮索され たくないんだ」
「まあプライベートに口を出す気はないけどね」
 揚げ油がじゅっと鳴る音が響いた。噂通り岬の料理の手際はなかなかのものらしい。話は 微妙にすれ違っていたが。
「父さんは当分留守だし、森崎くんが良くなるまでいてくれて構わないよ」
「悪いな」
 台所とはノレンで仕切られた6畳間に森崎は寝かされている。困っているのは若島津も同 じだ。そもそも原因がわからないのだから。
「ん……」
 ぼーっと森崎が目を開いた。まだ夢うつつの顔だ。
「――あ〜、若島津?]
「あ〜、じゃないぜ」
 時々、深刻に悩んでやるのがアホらしくなる若島津であった。
「しづ姉はどうしたんだ。おまえんちに来たんだろ?」
 森崎はぼんやり若島津を見つめ返した。眠気を必死に押しのけて相手の言葉の意味に焦点 を合わせようとしているらしい。
「…そう、うん、昨日の夕方……に…」
「それでどうした? しづ姉は今どこなんだ」
 まぶたがまた落ちかけるが、眉を寄せながらなんとか目を開く。状況がつかめていないら しく、森崎はゆっくりと周囲に視線を動かした。
「ああ、そうだ――いないんだ。ドイツへ…行ったんだ」
「ドイツ――!?」
 なんだそれは……と叫ぶかわりに、若島津は無言でまじまじと森崎を凝視した。森崎の意 識はまたふわふわと宙をただよい始めたようだ。
「こら、寝るな……森崎!」
 支えていた両肩を急いで揺すぶってみるが、反応は返って来なかった。また、すー、と寝 息が漏れ始める。
「だめだよ、乱暴しちゃ」
 てんぷらの大皿と炊飯器を持ってやって来た岬は、横を通りながら若島津をにらんでみせ た。
「どう、森崎くんも食べられそう?」
「…無理だな。この調子じゃ」
「あれっ? それ、女物の時計…?」
 覗き込んだ岬が目を丸くした。寝返りを打った時、森崎のシャツの胸ポケットから小さな 腕時計がすべり落ちたのだ。若島津は腕を伸ばしてそれを手に取る。
「森崎くんのじゃ、ないね」
 岬が断言した。若島津はちらりと森崎の腕を見る。いつもはめている腕時計はそこになか った。
「しづ姉と交換、したのか…?」
「え?」
 不思議そうに問い返す岬には答えず、若島津は黙って腕時計を目の前にかざした。
「――こいつの、せいなのか?」
 しづ姉の時計は、静かに、時を刻んでいた。







【第2章 終】


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