3章ー1







3章










 森崎が見ていたのはそれはそれは奇妙な夢だった。
 彼は道を歩いていた。見慣れた通りのような気もしたが、まったく知らない異国の風景の ようにも感じる。
「ああ、これ、夢なんだ」
 そう思いながら、悲しいような、苦しいような気持ちになる。
 ふと見るといつの間にかしづさんが隣に立っている。しづさんは森崎を見てにこっと笑い 返す。ますますつらくて悲しくてたまらなくなった。
「――ごめん」
 森崎はゆっくりとポケットを探った。
「何もないけど、これ、俺のだから…」
 しづさんは驚いたように森崎の腕時計を受け取る。
「ありがとう。指輪のかわりね。じゃ、私のも」
 銀色の細身の腕時計が森崎の掌の上に乗った。同時にぱあんと光の破片が弾け飛び、風景 は粉々に舞い散っていく。
 何度も何度も繰り返される情景。終わらない夢――。
 森崎はその時やっとわかる。彼は不安だったのだ。悲しいのでも苦しいのでもなく、ただ 不安なのだった。でも何が…?
『森崎…!』
 ああ、なんだ、若島津。なんでここにいる?
 夢と現実の境界が、ゆらゆらと波のように森崎の意識を漂っている。若島津の顔がすぐ目 の前にあるのはどうしてだ? それに、ここは岬の家…?
『しづ姉はどうしたんだ、どこにいるんだ……』
 声を出そうとするが、自分で自分の声が聞こえない。
 若島津の声が遠ざかり、かわりにブーンという重いモーター音が耳元で響き始める。何か が揺れている。光のようなものが次第に形を取り始め、森崎はそれが白熱球であることを知 った。
「あ、れ……?」
 森崎は我に返った。その白熱球が等間隔に並ぶ狭い廊下が目に入る。
「なんだろう、ここは」
 彼の前にペンキの塗りムラの激しい緑色のドアがあった。その向こうからモーター音と、 微かなピアノの音が聞こえてくる。と、そのドアがバタンと乱暴に開いた。
「わかったわかったよ。オーナーに話つけてくるって」
 ぶつかりそうになって急いで飛び退いたが、森崎より頭一つ大きい相手はまったく見向き もせずに行ってしまった。
「外人だ…」
 それを見送ってつぶやく。束ねた茶褐色の髪になんとなく見覚えがある気がした。
 ドアが開いたままだったのでそっと覗いてみる。天井の低い広い部屋がそこにあった。照 明は薄暗く、壁際に椅子とテーブルが積み上げてある。その一番奥、部屋の突き当たりの一 角にだけ照明が当たっていた。部屋のあちこちに人が動き回っているが、全員外国人だ。
「おい、ドアを閉めろ! 音が漏れる!」
 自分に言われたのかと森崎がギョッとした時、すぐ横からメガネの男がぬっと現われ、ド アを勢いよく閉めた。森崎があっと思った時には部屋の中に吹き飛ばされるように入ってし まっていた。
「そんなぁ……」
 危ないじゃないか、と抗議したくなるような扱いだった。この男も森崎のほうを見やりも せずに持ち場に戻って行く。
 どうも奇妙な感じだった。さっきから誰も森崎に注意を払わない。今だって見知らぬ者が 入って来たというのに、問いかけるどころか振り返る者さえいないではないか。
 森崎ははっとする。さっきの外人が言った言葉、どうして自分に通じたんだ? 日本語… じゃなかった気がする。
 振り向いておそるおそる部屋の中央に近づいて行くと、男たちは何やら機材を組み立てた り設置したりの作業中のようだったが、やっぱり森崎には気づかないままだ。
「もしかして、俺が見えないのかなぁ…」
 照明が当たっている場所、部屋の突き当たりの一段高くしつらえたステージの脇にアップ ライトピアノがあり、その前に誰かが座っていた。少し背を丸めるようにして一人鍵盤をた たいている。かなりの長身だ。長めの黒髪がメロディに合わせて小さく揺れている。
「……え、ヘフナー!?」
 その横顔を見て、森崎はびっくりした。つい数週間前に一緒だったキーパー仲間のヘフナ ー、かと思ったのだが。
「おーい、ギュンター、こっち見てくれ!」
 向こうから声がかかり、男は立ち上がった。そこにいた森崎にはやはり目もくれずにすれ 違って行ってしまう。
 森崎はぽかんと見送った。何と言うか、そっくりだった。無表情な雰囲気まで。
「どうもうまくいかないんだよな…」
「バッテリーか」
 大きなモーターの前にかがんで二人で話し始める。森崎はフウと息を吐き出すと、忙しそ うな男たちの間を見て回ることにした。こっちが見えていないのならこれはこれで気が楽 だ。
 ステージの上にはドラムがセットされていた。横のほうにマイクがスタンドごと束ねてあ る。そのさらに横に、むき出しでミキシング装置が置かれていた。制御盤(コンソール)に ずらりと並ぶスイッチ類はなかなか壮観だった。つい見とれてしまう。
「興味があるのか?」
 いきなり声がして、森崎は飛び上がりそうになった。振り向くと、さっきのヘフナーそっ くりの男が立っているではないか。
「え…、お、俺…?」
 急にドキドキしてくる。無表情のままではあるが、その視線はまっすぐ森崎をとらえてい るのだ。
「俺が、見えるんですか?」
「見えるさ。なんだ、オマエは」
 ギュンター・ヘフナーは手を腰に当てて森崎を見下ろす。低いが響きのよい静かな声だっ た。
「なんだか薄いが――幽霊か?」
 それは、あまりと言えばあんまりな表現だった。














「あら。さっきまでいいお天気だったのに…」
 しづ姉は膝の上に広げていたハンカチを丁寧にたたみながら空を見上げた。ぽつりぽつり と落ちかけたと思ったら、風に流されるようにして細かな雨がサーッと降り始めたのだ。
 ちょっと早めの夕食(それともオヤツ…)を広場のベンチでとっていたしづさんとヘフナ ーは、紙クズを片付けながらあたりを見回した。
 ハーナウはフランクフルトからわずか20キロしか離れていない地方都市だが、夕暮れ近 いこの時刻、通りはけっこう人通りも多かった。なのに道行く人々は突然の雨に少しもあわ てることなく、雨など無視して歩いている。しづさんは、傘をさす人がほとんどいないのに 何より興味を引かれたようだ。
「おもしろいのね」
「……?」
 ヘフナーにはその感動は伝わらないわけで、これはまあお互いさまだ。ヘフナーだって3 年前に日本を訪ねた時には何かとカルチャーショックを楽しんだのだから。
「ちょっと見て回って構わないかしら」
「あ、ああ」
 危機感がないのはトラブル自体がまだよくわかっていないせいで、この性格を日本人全体 に当てはめてはいけない。それはヘフナー自身をドイツ人の代表にしてはいけないのと同じ なのだが、ヘフナー、自覚はあるんでしょうね。
「ワカバヤシのやつ、連絡はどうしたんだ」
 ハーナウで途中下車したことは伝えてある。今は連絡待ちということで時間をつぶしてい るのだ。ヘフナーは、しづさんの後をゆっくりと追いながらぶつぶつとつぶやいた。
「まあ、犬の運転手さん!?」
 またヘフナーには理解できない感動をしているしづ姉だ。通りの向こうに停車中のタクシ ーを呆然と見つめている。
「何だって?」
 錯覚の元はごく初歩的なことだった。つまり日本とハンドルが逆になるせいで、「助手席 にいる犬」が「運転する犬」に見えてしまうのである。理屈はわかっていても感覚のほうは そう簡単に順応しきれないわけだ。
「だってあんなに真面目な顔をしてるんですもの。今にも運転して行きそう」
 これがまた大きなシェパードだったからなおのこと。背格好が妙にリアルなのだ。
「…でもどうしてタクシーの助手席に犬が?」
「別に珍しいことじゃない。あれは運転手のペットなんだ」
 とても珍しいと思うしづさんであったが、反論はしなかった。素直な性格のせいではな く、関心が早くも次に移ってしまったからだ。
「ねえ、今気がついたんですけど、電線が見当たりませんわ」
「ああ、そいつはわかる」
 これは逆にヘフナー自身が日本で経験済みだった。ドイツの町に街灯はあっても電柱はな い。むろん電線もない。地下を通っているからだ。
 次々と説明することが出て来る。ヘフナーはほとんど幼稚園の教師のような気分だった。 この後も、2両連結のバスが珍しいとか、平日の昼間にテレビの放送がないのはどうしてか とか、しづさんの好奇心は果てしなく回転し続けるのであったが、とりあえずこの時、その 質問攻めにストップがかかった。
「――フロイライン、ちょっと失礼」
 なまじ腕に覚えがあると警戒心が発達しない、というわけでもないだろうが、いきなり両 側から大柄な男二人に腕を取られ、ご丁寧に銃まで突きつけられたその状態を、しづ姉はさ っきからの続きでただ珍しがっているだけに見えた。
「――きさまら!」
「おっと、騒ぐとためにならんぞ。フランクフルト駅では不覚を取ったが、今度はおとなし くしてもらおうか」
 ヘフナーはやれやれと思った。どうしてこうも類型的なセリフしか吐けないのだろう。や ることなすこと何の進歩もない。第一、駅でしづ姉に吹っ飛ばされたこの男、明らかに人違 いをしている。人質を取って脅すのなら、ヘフナーをとらえてしづさんを説得すべきなの だ。外見にだまされた先入観こそためにならない。
「ヘフナーさん」
 その、外見だけはとことん無害な人質が口をはさんだ。
「今度こそ、この方たちに先生のことを詳しくお聞きしたいのですけれど」
「そうだな」
 ヘフナーはむっつりとうなづいて、その言葉をドイツ語に通訳した。
「恐ろしくて気絶しそうだ、と彼女は言ってる。逆らわんからその人を放してやってくれ」 「よし、そのまま車に乗れ、二人とも」
 顔に青アザが残ったままの男が、その原因を作った女性の言葉とは思えない通訳を信じて うなづいた。BMWの後部座席に二人と一緒に乗り込み、新手のほうの男が運転席に座る。 「おや、大学に戻るんじゃないのか? あんた、あそこの職員だろ」
「な、なんでそれを…!」
 走り出した途端のヘフナーの先制攻撃で、男はまんまと誘導尋問に引っかかってしまっ た。
「理学部の生化学研究所員、あたりだな」
「く、くそっ…! するとノモリ教授は俺たちのことを感づいていながら見て見ぬふりをし ていたって言うのか!?」
「さてね」
「――どうしましたの?」
 男がパニックに陥っている間にしづさんにやりとりを説明する。
「そ、そうか、教授が招いた新しい共同研究者って、おまえのことなんだな!」
 また勝手に勘違いをした男は再び銃を向け直した。
「答えろ! 教授を襲ったのは誰なんだ!? 教授はどうなったんだ!」
「なんだ、あんたらも知らんのか」
 銃を向けられてもヘフナーの態度には何の変化もない。
「てっきりあんたらが教授をどうにかしたんだと思ったんだが」
「――あの変人教授は、再三警告したのに耳を貸そうともしなかった。この上共同研究者ま で加わったら、ますますガードが固くなる。いざとなったら強硬手段も、とは思っていた が、誰かに先回りされちまったんだ…!」
「ははあ、さてはどこかの企業に買われてんだな、おまえら」
「黙れ! それより――」
「……おい、見ろよ!」
 運転席の男が、後部座席での騒ぎに横やりを入れた。言われてルームミラーを見ると、彼 らのずっと後方、百メートル以上離れて白い乗用車が小さく映っている。
「あの車、さっきから変だとは思ってたんだが、市内からずっとつけて来てるぞ!」
「なにっ?」
 振り返った男が気をそらしたその一瞬、その腹にずん、とヘフナーのパンチが入った。銃 を握る指が思わず緩んだところを、しづさんがすかさず取り上げてしまう。
「くっ、よくも、きさまら…!」
「おい、あんた、命が惜しかったら言う通りにするんだ…」
 しづさんから受け取った銃を手にすると、ヘフナーは立場を逆転させた。が、どうもそこ までの余裕ぶりから比べて殺気立っているような。
「もっとスピードを上げろ!」
「――はぁ!?」
 要求が逆なのでは。
「いいか、絶対にあいつらに追いつかれるんじゃないぞ!」
 あいつら、と言い切るからには、追って来る相手が誰なのかを知っているということだ。 それでもって追いつかれるな、とは…?
 しかし男たちにその意味を考える余裕はなかった。車はコントロールを失ってあえなく道 路わきの植え込みに突っ込み、身動き取れなくなってしまったのだ。万事休す。
「ヘフナーさん? ――ねえ、どうかなさいましたの?」
 二人の大学職員が必死に這い出して逃げて行った後も、ヘフナーは車内から動こうとしな い。
「やあ、ご無事で何より」
「あら?」
 しづさんが振り返ると、窓の外に二つの顔があった。
「囚われの姫君とその騎士グスタフくん、助けに参上しましたよ」
「一体何だ! どういう関係でおまえらが揃って現われる!」
 出したくない大声を出してしまうのも運命かもしれなかった。
「――ま、そういうこともあるさ」
 ジノ・ヘルナンデスがぽんと肩を叩いてみせた隣の男、それは畏れ多くもバイエルン・ミ ュンヘンの皇帝閣下だったのである。










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