3章ー2

















 さてその頃、頼みの若林は苦悩の中にいた。
「監督ー、もういいじゃないですか!」
「ワカバヤシ、私はこれでもずいぶん寛大でいたつもりだ。だが今日という今日は許さんか らな」
 前から見ても横から見てもシルエットのあまり変わらない立派な体格の監督が、若林のジ ャージをがしっとつかむ。
「あの気の抜いたプレイはなんだ! 上の空で守れる相手じゃないんだぞ!」
 なのに結果的に守り切ってしまったのだから始末が悪い。
「ね、だから言ってるでしょう、俺、急いでるんです。行かせてください!」
「どこへ」
「美人とデートなんですよっ!」
 監督は赤い目でじっと若林を見た。
「そうか、それはお楽しみだな。だが、日が悪かった。今日は私に付き合ってもらう。さ あ、がしがし飲め!」
「かんとく〜!」
 他の選手やコーチたちは本日の犠牲者に同情と感謝の目を向けつつ、半径5メートル以内 には近寄らないようにして楽しいウチアゲを続けていた。
「そ、そうだ、せめて電話を…」
 一瞬のスキをついて逃れ、廊下の電話にすがりつく。国際電話を何本か、国内にも何本 か。一回ごとに部屋に引きずり戻されつつ粘り続けるが、成果はなかなか出てきてくれなか った。
「くそー、どうにかしてくれ!」
 手帳のメモの一番最後にあった自動車電話の番号――あまり気は進まなかったが、これも 当事者の一人には違いない。
『はい、どちらさま?』
 明るい声は、こちらの声を聞くとすぐに日本語に切り替わった。
『若林くんか! 懐かしいなあ。どうしたんだ? ドラマーの出前の注文かな?』
 こういうノリの相手に深刻な話題を持ち出すのには、やはりエネルギーが余分にかかる。 「たぶんまだご存じないと思うんですが…」
 若林は深呼吸してから切り出した。
『……え、え、まさか! ほんとにしづ姉が結婚!? しかも、今、ドイツに来てるぅ?』
 若林が予想した以上に驚いている様子だ。いやむしろ怯えていると言ったほうが正確かも しれない。
「日本ではけっこうゴタゴタがあったらしくて、詳しい事がよくわからないんですが、俺が 聞いてる話ではそんな感じで…」
『そうか…。駆け落ちで結婚して、――でもって新婚早々単身赴任…。姉ちゃん、ついに切 れたな』
 こちらの意図が伝わっていないようなので、若林は結論を急ぐ。
「それでですね、彼女は今ヘフナーと一緒にハノーファーに向かっているんです。俺もすぐ そっち行きますから、その教授探し、手伝ってくださいよ」
『い、いやあ…、俺さ、姉ちゃんと会うのは――マズイってのか、その…やっぱパスね』
「だ、め、です!」
 押しの強さにかけては、若林に勝てる者はいないのであった。














 森崎の奇妙な夢はまだ続いていた。
「あなた、ピアニストですか?」
「……いいや」
 ギュンターの目が一瞬おかしそうに光った。森崎くん、彼の本来の音楽を聴いたらきっと 驚くぞ。
「この店は、ずっと昔俺が初めてバンドを組んでやり始めた場所なんだ。今日は久し振りに ここで仕事をするんでな、ちょっと思い出してたとこだ」
「はあ…」
 ずっと昔って、この人いくつだろう…と森崎は悩んだ。
 スツールに腰掛けて、ギュンターは缶ビールをまた一口流し込んだ。片足を別のスツール に伸ばして引っかけている。長い足だなあ、と森崎は脈略なく感心しているところだ。
「なんだ、ギュンター、ヒマそうだな」
「ルドルフか。どうだった?」
 その時、彼らに近づいて来たのは、森崎が廊下で出会った男だった。ギュンターの手のビ ールを物欲しそうに眺めながら、森崎のすぐ横に立つ。
「OK取ってきたよ。ま、オーナーもおまえとは馴染みだしな」
「好きにやっていい、って?」
「そーゆこと」
 ひらひらと手を振って、ギュンターの長年の親友シュタイニッツハウプトブルガー氏はビ ールを取りに消えた。
「ふーん、あいつには見えないようだな、オマエ」
「はい」
 森崎はうなづいた。
「俺、あの人知ってます。2月にスイスのコンサートホールで一度会ったの、思い出しまし た」
 あの時眠りっぱなしだった森崎の記憶はごく限られている。ゆっくり紹介してもらってい るヒマもなかったし、この問題のギュンターとは結局会わずじまいだったのだ。ヘフナーは 全く説明もしてくれなかったし。
「そうか、なら俺の息子の知り合いなんだな」
「あ…?」
 えらいぞ、森崎くん。よく持ちこたえた。彼には善意の常識が味方だしね。
「ヘフナーの……お、お父さん、ですか…」
「あいつに会いにきたのなら、18年遅かったな。あいつはここで生まれて、それ以来一度 も訪ねて来たことがないんだ」
 森崎が絶句している間に、向こうを通りかかったルディが声を張り上げた。
「なぁに一人でブツブツ言ってんだ、ギュンター。昔の恋人の幽霊とでも話してるのか?」 「いや、あいつじゃない。別口だ」
 ギュンターも叫び返す。昔の恋人の、幽霊…?
「しかし幽霊の友人がいるとはあいつもたいしたもんだ」
「あ、あの…」
 なんとか気を取り直す。
「俺、幽霊じゃなくて、ただの…」
 ただのキーパーです、と言うのも変か。
「なら、なんでそんなに薄ぼんやりしてるんだ。それにさっきドアを通り抜けただろう」
「と、とおりぬけたぁ…!?」
「クラブのスタッフがドアを閉めた時、オマエ、あそこに立ってたろ。閉まったドアを突き 抜けて入って来たじゃないか」
「えーっ、えーっ、えーっ!!」
 うるさい幽霊である。
「これ、俺の夢なのに〜! もう、早く目が覚めてくれよ!」
 しかし残念ながら夢はまだまだ続くのであった。
















「――おい、まさか…?」
 ハンブルクナンバーの白いアウディに歩み寄って、ヘフナーはぴたりと足を止めた。隣で ジノがうなづく。
「僕は四輪の免許は持っていないからね、知っての通り」
「じゃ…! ほんとにこいつが運転してたのか!?」
 知らず、じりっと後ずさりしそうになるヘフナーに対し、ジノのほうはのんきなものであ る。
「先月、免許を取ったそうだよ」
「ヘルナンデス、おまえってやつは――命知らずだな」
 言われている当人は、そんな二人に背を向けて、東洋の美女をじっと凝視していた。
「あの…どうも、こんにちは」
 その沈黙の重さにさすがに少々居心地が悪くなったのか、しづさんがにっこり会釈した。 シュナイダーは一瞬びくっとしたかと思うと、いきなりびしりと指を相手に突きつけた。
「……ワカシマヅだ!」
「え…、ああ、ワカシマヅの姉さん、な」
 振り向いてヘフナーが紹介する。ジノもにこっと笑顔を見せて手を差し出した。
「はじめまして。モリサキと結婚なさったそうですね。もっと早く知り合っておきたかった な」
 ヘフナーがじろりと睨んだ。
「なんでそれを知ってる。極秘情報だぞ」
「むろん、ワカバヤシ、さ」
 ひそひそ囁き合う。
「ハンブルクに向かう前に彼に『連絡』をしたんだけど、何かずいぶん取り込んでるみたい だね」
「……まあな」
「原因は彼女、かな」
「そういうことだ」
 ともあれ日はどんどん暮れてくる。乗り込むしかなかった。
「大丈夫だよ。シュナイダーに任せておけば」
 ジノが意味ありげに片目をつぶる。なるほど、走り出してまもなくその訳がわかってしま った。
「ああ、そっちじゃない、今来たのは右からだったろ。そう、そっちだ」
 身内の間ではすっかり伝説となっているシュナイダーの方向音痴だが、それはジノの適切 なナビゲーションがフォローしていた。が、秘密はそれだけではなかったのだ。
「うおっと…ぉ!」
 カーブでハンドルを切り過ぎて、右の車線のトレーラーに突っ込みかける。そのまま激突 か!――と思った次の瞬間、スローモーションを見るようにするすると横すべりして元の向 きに修正された。顔を覆いかけたヘフナーが思わず声を上げたくらいのきわどさだった。
「――おまえっ、遊ぶんじゃない!」
 後ろからジノの頭をはたく。
「シュナイダーは遊園地の絶叫マシンじゃないぞ!」
「そんなぁ。これは純粋なボランティアだよ」
 と言ってるそばからまたガクン、と変なところでギアが入りかけたが、それをふわりと押 しとどめてまた順調な走りに戻る。ジノは平気な顔をしていたが、これでは気の休まる暇も ないことだろう。
「……ボランティアはいいが、おまえ、こんなとこでウロウロしてていいのか? リーグの ほうはどうしたんだ」
「ははは、実はね、先週カードもらっちゃって、半月ばかりぽっかり暇になったんだ」
 笑ってる場合だろうか。
「レッドカードをか!? 何をやらかしたんだ、おまえ…」
「危険なタックルと故意の暴行と審判への暴言」
 ゴール前の聖人とさえ言われているジノ・ヘルナンデスの実態は実はこんなものである。 虫の居所が悪い時に当たってしまった相手チームはご愁傷様だった。
「だからせめて偵察くらいして来い、って」
 それが処分だとすれば、イタリアではチーム首脳もなかなか鷹揚にできているようだ。
「バイエルンとは今度の選手権で同じ予選組に入ってるんだ。前回みたいに痛い目に遭いた くないんじゃないかな」
「それがどこで迷子係にすりかわったんだ」
「まあ、何て言うか、互いの利害が一致したものでね」
 聞けば聞くほど恐ろしい話であった。というのもバイエルンはこの2月のスキャンダル事 件に相当懲りてしまっており、つまりシュナイダーに単独行動をさせることまかりならん、 ということになったのである。しかしオリンピック代表としてハンブルクへのテストマッチ に送り出すにあたって適任者が見つからず、部外者も部外者、偵察に来ていた彼に頼み込む という非常手段に出たらしいのだ。
「僕のことをシュナイダーの親友だと思ってるらしいよ。ほら、あの事件で」
 そう、シュナイダーの冤罪を晴らすために東奔西走させられたGK集団のうち、直接バイ エルンと交渉に当たっていたのは確かにジノだった。
「別にいいけどね、ハンブルクに行けばマリーちゃんにも会わせてもらえそうだし」
「断じて、駄目だ!」
 運転中のシュナイダーが突然話に割り込んだので、二人は思わず緊張した。つまり、完全 な脇見運転になったのである。
「シュナイダー、前を向け、せめて」
 せめてとは何だ、と尋ねないところがシュナイダーなのであるが、実質的にコントロール しているのが誰であれ、世間の目はやっぱりハンドルを握っている者に行くからね、普通 は。
「親友でなくて義弟(おとうと)、になったりしてね」
「駄目だと言ったら駄目だ! ヘフナー、おまえもだ」
「俺は関係ないだろーが!」
 大きなお兄さんたちが怒鳴り合っていても、言葉がわからないというのは幸せである。い つの間にやらすやすやと眠ってしまっているしづさんに気づいて、ヘフナーは頭をかいた。 「どっか宿を探そうぜ。うるさいのが追いついて来そうだが、しかたない」
「賛成だな。僕もいい加減疲れてきた…」
「俺は疲れないが…」
 まさしく苦労知らずのシュナイダーであった。










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