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さてその頃、頼みの若林は苦悩の中にいた。
「監督ー、もういいじゃないですか!」
「ワカバヤシ、私はこれでもずいぶん寛大でいたつもりだ。だが今日という今日は許さんか
らな」
前から見ても横から見てもシルエットのあまり変わらない立派な体格の監督が、若林のジ
ャージをがしっとつかむ。
「あの気の抜いたプレイはなんだ! 上の空で守れる相手じゃないんだぞ!」
なのに結果的に守り切ってしまったのだから始末が悪い。
「ね、だから言ってるでしょう、俺、急いでるんです。行かせてください!」
「どこへ」
「美人とデートなんですよっ!」
監督は赤い目でじっと若林を見た。
「そうか、それはお楽しみだな。だが、日が悪かった。今日は私に付き合ってもらう。さ
あ、がしがし飲め!」
「かんとく〜!」
他の選手やコーチたちは本日の犠牲者に同情と感謝の目を向けつつ、半径5メートル以内
には近寄らないようにして楽しいウチアゲを続けていた。
「そ、そうだ、せめて電話を…」
一瞬のスキをついて逃れ、廊下の電話にすがりつく。国際電話を何本か、国内にも何本
か。一回ごとに部屋に引きずり戻されつつ粘り続けるが、成果はなかなか出てきてくれなか
った。
「くそー、どうにかしてくれ!」
手帳のメモの一番最後にあった自動車電話の番号――あまり気は進まなかったが、これも
当事者の一人には違いない。
『はい、どちらさま?』
明るい声は、こちらの声を聞くとすぐに日本語に切り替わった。
『若林くんか! 懐かしいなあ。どうしたんだ? ドラマーの出前の注文かな?』
こういうノリの相手に深刻な話題を持ち出すのには、やはりエネルギーが余分にかかる。
「たぶんまだご存じないと思うんですが…」
若林は深呼吸してから切り出した。
『……え、え、まさか! ほんとにしづ姉が結婚!? しかも、今、ドイツに来てるぅ?』
若林が予想した以上に驚いている様子だ。いやむしろ怯えていると言ったほうが正確かも
しれない。
「日本ではけっこうゴタゴタがあったらしくて、詳しい事がよくわからないんですが、俺が
聞いてる話ではそんな感じで…」
『そうか…。駆け落ちで結婚して、――でもって新婚早々単身赴任…。姉ちゃん、ついに切
れたな』
こちらの意図が伝わっていないようなので、若林は結論を急ぐ。
「それでですね、彼女は今ヘフナーと一緒にハノーファーに向かっているんです。俺もすぐ
そっち行きますから、その教授探し、手伝ってくださいよ」
『い、いやあ…、俺さ、姉ちゃんと会うのは――マズイってのか、その…やっぱパスね』
「だ、め、です!」
押しの強さにかけては、若林に勝てる者はいないのであった。
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