3章ー3

















「あの…ギュンターさん。上で、探してますよ」
 さっきまでの熱狂が嘘のようにがらんとしたライブハウスの地下ホールに、ギュンターは 一人残っていた。森崎が遠慮がちに声を掛けたのだがそれにも答えず、立ったままピアノに 向かっている。片手で蓋を支え、鍵盤に軽く触れた。
「……」
 たった一つの音がポーンと部屋に反響した。森崎はどう話しかけていいかわからず、足を 止めてしまう。
「オマエみたいに――あいつも、出て来てくれるといいな」
「え…?」
「一緒にいたのはたった半年だった。子供が生まれると聞いて久し振りに戻って来た時に は、もうダメだった」
 ギュンターは静かに蓋を閉めた。顔は上げず、蓋の上の白っぽいキズを指でなぞってい る。
「俺はギター弾きだから、どこへでも自分のギターは持って行ける。だが――ピアノは違 う。ただその場所にいつづけるだけだ。別れて、また出会う…」
 ゆっくりと足音を響かせ、ギュンターはピアノから離れた。森崎が立っている脇をそのま ま通り過ぎて、ドアへと向かって行く。
「オマエ、好きな女はいるのか?」
「えっ、あ、あの…」
 恋人はいませんが、奥さんならいます…と、答えるべきか。急いで追いついて肩を並べ る。コンパスの差の分、急ぎ足にならざるを得ない。たとえ足が宙に浮いていても。
 足は止めないまま、ギュンターはそこでやっと森崎を見た。
「いるなら、写真くらいは撮って持っておけよ。俺みたいに、後から悔やまないようにな」  森崎は言われてあたふたと胸ポケットに手をやった。確かにここに…と思ったのに、もら った時計はそこにはなかった。
「あいつは写真は嫌いだと言って1枚も撮らせてくれなかったんだ。まあ、グスタフを見る と思い出すからいいんだが…」
 え、思い出すって、そこまで自分と似ているのにヘフナーはお母さん似なんですか…と、 思わず聞き返しそうになった森崎だった。
「おい、ギュンター」
 開いたままのドアから声がした。べた塗りのそのドアに手を掛けて、ルディがニヤッと笑 いかける。
「あれだけアンコールに応えといて、まだやり足りないってのか? 早く来いよ。車の用 意、とっくにできてるぜ」
「ああ、すまん」
 ドアをくぐり、後ろ手に閉めかけて、ギュンターはもう一度部屋の奥を振り返った。
「……じゃあな」
 ぶっきらぼうな、しかし想いのこもった声だった。先に階段を上がっていくルディを見上 げ、ギュンターを振り返り、森崎はためらった。ええと、これからどうなるんだ?
 後ろから来たギュンターが追い越しざま森崎の肩をぽん、とたたく。(たたかれた実感は なかったが)
「オマエも来い。忙しくないのなら」
 ギュンターはすっかりこの幽霊が気に入ってしまったようだ。ありがたいんだか迷惑だか …。でも忙しくないことだけは間違いなかった。なにしろ、夢を見ているのだから。














「え、やだなあ、そんなことないよ、三杉くん」
 岬は答えながらちらっと6畳間の方を見やった。そこに居座っている招かれざる客が、口 を結んでかぶりを振っている。
「僕がなんでうろたえるわけ? 違うよ、父さんがさ、今頃起きてきてゴハン作れって言う から……あ、そ、そうなの? わかった。じゃ、悪いけど。さよなら」
 岬は受話器を置くとフウと息をつき、それから台所からゴハンならぬコーヒーを運んで来 た。
「三杉とおまえがつるんでるとは知らなかったな」
「変な言い方しないでよ。誰のせいだと思ってんの」
 コーヒーを注ぎながら岬はわざととんがってみせたが、若島津のほうは意外そうな顔をし ただけだった。手応えがないとはこのことである。
「キミが思ってる以上に大騒ぎになってるんだよ。南葛だって東邦だって、もう手がつけら れないんだから…」
「おまえと三杉にでもか?」
 平然とコーヒーを口に運ぶ若島津に、とうとう岬は本気で呆れてしまった。
「いい? いくら僕に口止めしてたって、すぐばれちゃうんだからね。ここは南葛なんだ よ。何かにつけてみんなボクに話を聞きに来る。現に三杉くんまでが今みたいに情報交換に 電話して来るんだ。隠し事には最悪だと思わないの?」
「思わないな」
 若島津の答えはあくまでシンプルだった。
「少なくとも三杉の家に行くよりはずっと安全だ」
「なにそれ」
 岬がその怖さを知るのはこっちの話ではもっとずっと後のこととなる。
「そうそう、それでさっき三杉くんが教えてくれたんだけど、小次郎がさ、とうとう飛び出 しちゃったんだって」
 そういうことはもっと早く言いなさい。
「へえ、あの人が合宿すっぽかすとはね…。で、何しに?」
「キ〜ミ〜は〜!」
 こうして熟睡する森崎くんの頭上で、不毛なすれ違いは果てしなく続くのであった。
















 ケルンを出発してアウトバーンを北上して行くツアーバスは、さながら移動ビアホールだ った。ガンガン鳴っている音楽のテープも彼らのライブ録音だったりするからその騒々しさ は想像して余りある。
「XIP(ジッパ)のメンバーはしばらくオフなんだ」
 とギュンターが言ったのは、今夜のケルンを含めて当分はソロの仕事ばかりだという意味 だ。こういう時にもクルーとしてついてくるルディは、結局仕事というより趣味を共有して いるわけだ、とギュンターは説明する。
「まあ、飲め」
 缶ビールを押しつけられても困るのである。
「すいません、俺、飲めないんです」
 未成年だから、ということではない。森崎だって二人の兄やあの父親に付き合うことはな くはない。ただ、今はちょっと事情が異なるのだ。
「――そうか、オマエ、幽霊だったな」
 ギュンターはプシューッ、とまた新しい缶を開け、少し顔をしかめた。その定義が正確か どうかは別として、自分がこの夢の中で実体でないのは確かだし、と森崎は訂正するのを諦 めた。つまり、彼はここでは何に触れることも動かすこともできないのである。床の上を歩 く、椅子に座る、というのも、自分ではそうしているつもりで実際は宙に浮いているだけ、 のようなのだ。
「まあいいさ。飲まなくてもウチアゲはウチアゲだ」
 ギュンターは開けた缶を一気にぐいっと飲んだ。森崎はそっとその顔を観察する。見たと ころ表情に変化はないが、さっきから1ダースは軽く空にしているはずだった。よほど酒に 強いか、全てにおいて無表情なだけなのか、どちらかだ。
「おー、ギュンター、おまえやっぱり取り憑かれちまったみたいだな!」
 前の列に陣取って歌ったり叫んだりしていた5、6人の酔っぱらいの中から声が上がっ た。こちらはこちらでケース単位でビールを消費しているようだ。ツアーのための機材とビ ール、どっちをたくさん積んだか、確認するまでもない。
 ふらふら立ち上がって一番後ろの席までやって来たのはライティング・エンジニア氏だっ た。ギュンターの向かいにどすんと腰を下ろし、腕を伸ばしてその肩を叩く。
「おまえな、そんなに落ち込むくらいなら、あそこの仕事は受けなけりゃいいんだ。たまに あの店でやるたびにこれだもんなぁ」
「――別に落ち込んではいないが」
「なあ、ギュンター」
 ルディの耳にはどうやら何も届いていないようだ。
「そりゃわかるよ。15のガキには十分すぎる体験もしただろ。けどいつまでも引きずるこ とないんだ。彼女だってそんなことおまえに望んじゃいないぞ」
「ルドルフ、おまえはいい奴だ」
 ギュンターも相手の肩を叩き返す。
「だがその酒グセの悪いのはなんとかしろ。俺をダシにして勝手に脚色するのもな」
「なぁんだとー」
 ルディはギュンターの手のビールをバッと取り上げ、ぐいぐいと飲み干してしまった。そ して空になった缶をぽいと投げ捨てる。それがぶつかりそうになった森崎があわててよける が、むろん、その必要はなかった。缶は森崎の肩先をすっと通り抜けると音を立てて床に落 ちる。
「そんな無関心ぶってもな、俺にはわかるんだ。なんだなんだ、幽霊でも見てきたような顔 しやがって…」
 こういう無表情な男の表情がちゃんと読み取れるのはエライ、とほめるべきなのか、それ とも言い掛かりなだけなのか。長年の付き合いゆえのこの決めつけも、できれば酒の入らな い状態でやってほしいものだ。
 ルディのしゃべりがだんだんスローダウンしてきたかと思うと、いきなりがくっとシート の背に頭が落ちた。からみ上戸もここまでのようだ。
「おい、そんなかっこで寝るな。首が痛くなるぞ」
 ギュンターが揺り起こすと、ぱっと目を開き、大声を出す。
「なにぃ、俺は起きてるぞ! もっとビールをよこせ。ギュンター、お前ももっと飲むん だ。そっちのやつも、飲め!」
「は?」
 突然指をさされて、あっけにとられる森崎であった。ギュンターを振り返ると、あきれた ように肩をすくめている。
「しょうもないやつだ。人の代理で酔いつぶれやがって」
「この人、今、俺が見えたみたいでしたけど…」
 手伝えない森崎は、ルディを面倒くさそうにシートに押し込んでいる横からギュンターを 覗き込んだ。
「酔ってる時しかわからんこともあるさ」
 ぶっきらぼうに答えて、ギュンターは何やら紙を拾い上げた。ファックス用紙だ。ルディ が持っていたらしい。
「明日の仕事の分か。ああ、ドラムの助っ人が見つかったんだな」
 ボーカルとギターはこなせるギュンターだが、ソロの仕事の時は現場ごとにリズムセクシ ョンの手を探すことになる。次のライブハウスから返事が届いたようだ。
「ゼージ・オーバ? ああ、あの時の…」
 同じロックフェスに出ていたとは言え、共演したわけでもないドラマーの名前をよく覚え ていたものだ。読み方がドイツ語風にされてしまっているのはやむをえないが。
「ユニークなドラムソロだったな、あれは」
 よほど印象が強かったらしい、あのステージの。
「あの、その人、もしかして…」
 そう、3年前まで不本意ながらアイドルグループとしてデビューさせられ、その後不本意 ながら渡欧してジャズ修行、のはずが時には不本意ながらヘビメタまでやるあの器用貧乏の 見本のような不運なドラマーである。
 だが、そのことに気づいた森崎がちょっぴり逃げ腰になりかけたのはもちろん彼のせいで はなく、その相棒が原因だった。
「どうしたんだ?」
 自分の奥さんの弟――てことは、若島津剛さんは義弟(おとうと)…。
 今頃気づいて青くなっても、それは手遅れってものですよ。
 ツアーバスは走る。目指す先は、ニーダーザクセン州の州都、ハノーファーであった。







【第3章 終】


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