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「あの…ギュンターさん。上で、探してますよ」
さっきまでの熱狂が嘘のようにがらんとしたライブハウスの地下ホールに、ギュンターは
一人残っていた。森崎が遠慮がちに声を掛けたのだがそれにも答えず、立ったままピアノに
向かっている。片手で蓋を支え、鍵盤に軽く触れた。
「……」
たった一つの音がポーンと部屋に反響した。森崎はどう話しかけていいかわからず、足を
止めてしまう。
「オマエみたいに――あいつも、出て来てくれるといいな」
「え…?」
「一緒にいたのはたった半年だった。子供が生まれると聞いて久し振りに戻って来た時に
は、もうダメだった」
ギュンターは静かに蓋を閉めた。顔は上げず、蓋の上の白っぽいキズを指でなぞってい
る。
「俺はギター弾きだから、どこへでも自分のギターは持って行ける。だが――ピアノは違
う。ただその場所にいつづけるだけだ。別れて、また出会う…」
ゆっくりと足音を響かせ、ギュンターはピアノから離れた。森崎が立っている脇をそのま
ま通り過ぎて、ドアへと向かって行く。
「オマエ、好きな女はいるのか?」
「えっ、あ、あの…」
恋人はいませんが、奥さんならいます…と、答えるべきか。急いで追いついて肩を並べ
る。コンパスの差の分、急ぎ足にならざるを得ない。たとえ足が宙に浮いていても。
足は止めないまま、ギュンターはそこでやっと森崎を見た。
「いるなら、写真くらいは撮って持っておけよ。俺みたいに、後から悔やまないようにな」
森崎は言われてあたふたと胸ポケットに手をやった。確かにここに…と思ったのに、もら
った時計はそこにはなかった。
「あいつは写真は嫌いだと言って1枚も撮らせてくれなかったんだ。まあ、グスタフを見る
と思い出すからいいんだが…」
え、思い出すって、そこまで自分と似ているのにヘフナーはお母さん似なんですか…と、
思わず聞き返しそうになった森崎だった。
「おい、ギュンター」
開いたままのドアから声がした。べた塗りのそのドアに手を掛けて、ルディがニヤッと笑
いかける。
「あれだけアンコールに応えといて、まだやり足りないってのか? 早く来いよ。車の用
意、とっくにできてるぜ」
「ああ、すまん」
ドアをくぐり、後ろ手に閉めかけて、ギュンターはもう一度部屋の奥を振り返った。
「……じゃあな」
ぶっきらぼうな、しかし想いのこもった声だった。先に階段を上がっていくルディを見上
げ、ギュンターを振り返り、森崎はためらった。ええと、これからどうなるんだ?
後ろから来たギュンターが追い越しざま森崎の肩をぽん、とたたく。(たたかれた実感は
なかったが)
「オマエも来い。忙しくないのなら」
ギュンターはすっかりこの幽霊が気に入ってしまったようだ。ありがたいんだか迷惑だか
…。でも忙しくないことだけは間違いなかった。なにしろ、夢を見ているのだから。
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