4章ー1







4章










 さわやかな朝だった。昨夜の雨はあがって、澄んだ空が広がっている。休暇中の土曜の 夜、しかも観光ルートにあたるこの土地でやっとのことで見つけた宿は、ガストホーフと呼 ばれる小さな民宿レストランである。木組みの白い壁にバルコニーいっぱいの花は、朝の光 の中で見るといっそう鮮やかだ。
「グリム兄弟…?」
 しづさんはシュナイダーを振り返った。時差の関係で早めに眠くなるかわりに目が覚める のも早く、夜明けと共に起き出して散歩を楽しんでいたのだが、そこに早起きがもう一人現 われたのだ。
「そう、彼らが童話を採集して回ったゆかりの土地だ。たとえば、このあたりが赤ずきんの 村」
「まあ、素敵」
 メルヘン街道の解説ができるシュナイダーに驚いてはいけない。父親代わりをつとめてい た妹マリーに、彼は幾度となくグリムを読んで聞かせてきたのだ。
「ドイツって医学や先端技術の国、ってイメージしかなかったわ、私」
 白い朝霧を尾根ごとに残している緑の谷を見晴らしながら、しづ姉は深呼吸した。
「野森先生があんなに傾倒してらしたわけ、よくわかったわ。夢が現実の隣で呼吸している …って、いつもおっしゃってた」
 日本語がわからないなりに、シュナイダーに特に支障はないようだった。レストランの白 いデッキチェアに腰掛けて、しづ姉のはしゃぎぶりを黙って見ている。
「くぉらっ! おい、シュナイダー!!」
 彼なりに平和な幸福感を味わっていたのかもしれないシュナイダーが、表情だけはそのま まに2階の窓を振り仰いだ。ゼラニウムの赤い花の間から顔を突き出しているのは、心なし か疲労の色の見えるヘフナーだった。
「俺たちを犠牲にして自分だけ熟睡しやがったな!」
「そうだったか?」
 運転席のシュナイダーは相変わらずのマイペースであった。朝食も手早く済ませてさっそ く出発した車の中、険悪な空気がしぶとく漂っている。助手席のジノはさっきからコキコキ と首の運動に余念がないし、ヘフナーのほうは腕組みをして席に沈み込んだままだ。しづ姉 だけは、会話がドイツ語で進む以上自分とは無関係、と割り切っているのか、窓からの眺め に一人で見入っている。
「まあ、夜通し雨の中を走り続けるよりはましだったと思おうよ、ヘフナー」
 先天的楽天主義、というより今回は既にヤケ気味のジノだったが、ヘフナーのほうはそう はいかなかった。ベッドの恨みはこわいのである。
『久し振りに、一緒に寝よう』
などと変な表現で喜んでいたのはシュナイダーだけであった。昨夜なんとか確保できたのは ダブルの部屋が2つ。当然しづさんが一人で片方の部屋を使い、残りの男3人が一つベッド を分け合うこととなった。その結果――。
「おまえに蹴り落とされるくらいなら最初から床で寝るんだったぜ、まったく」
「僕は頭だよ、彼のキックに直撃されたの。命があってよかったかも」
 これもキーパーの宿命、なんて言ってはいけない。まあ、相手が悪かったのだ、やっぱ り。
 メルヘン街道の真っ只中、ドイツ・ブンデスリーガ史上最も危険なドライバーがなおも走 り続ける。古い城壁や木組みの家が連なる中世の姿そのままの村をいくつも通り、対岸に古 城を眺めたりしながら北上して行くと、ほどなくいばら姫の森にさしかかった。
「シュナイダー、ちょっと待って。ガソリンが危なくなってきたようだよ」
 ジノの指摘でアウディは道路沿いのガスステーションに入った。セルフサービスで手早く 給油……したのは代理のジノ。
「あまり甘やかすとつけあがるぞ、こいつは」
「君ほどじゃないと思うよ」
「なにぃ!」
 結構呼吸の合った叔父・甥コンビかもしれない。
「あのう、シュナイダーさん…」
 走り出してすぐ、しづ姉が口を開いた。
「後ろの車、見覚えありません?」
「――FF ZK71。なるほど、昨日の車だ」
 常識にボケていても、頭が悪いわけではない。記憶力はこれでもちゃんと機能しているの だ。もっともバンパーが派手にへし折れてドアあたりの塗装に大きな傷をこさえている外観 からある程度の特定はつくのだが。
「シュナイダー、急げ!」
 よく見ればもう1台、その後ろに付き添っている。なるほど救援軍が加わったらしい。
「ヘルナンデス、しばらく、手出しはするなよ」
「え…?」
 一瞬ジノが動揺したのも無理はない。助手席はすなわち死のシート、一番危険なポジショ ンなのだ。ドイツの法律では12才未満の子供は絶対に座らせてはならないことになってい る。シュナイダー自身の運転でここに座る者の身になってみろ。
「ほら、あんたもシートベルトを強く締めて」
「はい」
 しづ姉は何が始まるのかとわくわくしている。
「ヘフナー、彼女に気やすく触るな」
「誰がだ! 第一この人はおまえのもんじゃないだろ!」
「違うのか?」
 どんな時もシュナイダーはシュナイダー。ある意味心強い。楽しい会話と同時進行で、思 わず目を覆いたくなるような運転を続けている。
「あっ、そっちは…!」
 右折車線に間違えて入りかけ、掟破りの信号無視でそのまま突っ切る。日曜で車が少なく てまだ助かっているが、このままでは人的被害が出るのも時間の問題だ。
「あー、あいつだ」
 グレーのBMWがスピードを上げて彼らの横に並びかけた。その窓に、こちらを睨んでい る顔がある。どうやら青アザがまた増えたようだ。
「回り込め!」
 向こうでも必死に怒鳴り合っているが、こっちのドライビング・テクニックを見くびって はいけない。
「――あ、間違えた」
 ぽつん、とつぶやく。シュナイダー、それはアクセルじゃなくブレーキ!
 ギアがギブアップしてあっと思う間もなく見事にスピン。ちょうどコマ回しの失敗のよう に激しく隣の車線に弾き出されてしまった。
 遠心力ってすごい。アウディにちょっと接触しただけの相手の車が、同じ勢いで弾き飛ば され、サポートの仲間に玉突き追突してしまった。耳に突き刺さりそうな急ブレーキの音と クラクション。
「――なあ、シュナイダー」
「何だ」
 その騒音もあっと言う間に背後に遠ざかった。シュナイダーはやっぱりのんびりと前を見 ている。
「おまえ……サッカーやってて、よかったな」
「そうか?」
 仕事場がきっちり四角いワクの中ですむのなら、これに越したことはない。少なくとも被 害は一定の範囲内で食い止められそうだし。
「だから、君も早く戻っておいでよ、ヘフナー」
 どのへんが『だから』なのか、それは永遠の謎であった。














 さて、日本ではちょうど朝食がすんだ時刻。
「え…? 若林くん!?」
 岬は受話器を持ったまま、思わず6畳間のほうを振り返る。静岡茶を飲んでいた若島津が ぴくっとその手を止めた。
「あ、ああ、森崎くんね。自宅にいないって? そ、そう? えーとね、森崎くんは、つま りさ…」
「話しても、いいぞ」
 岬は目を丸くした。若島津がゆっくりと立ち上がってそばに立ったのだ。
「え、と…つまり、今、ボクの家にいるんだ」
 答えながら、ちらっと若島津を見上げる。
「若島津も、一緒だよ」
「よお」
 岬から受話器を渡されて、若島津は無愛想に応えた。
『若島津か!』
 電話の向こうは確かまだ土曜の深夜である。若林の声がどことなく疲れ気味なのはそのせ いではなかったのだが。
『おい、おまえら、いったい何がどうなってんだ。俺はもうクタクタだぞ』
「おまえのことなんぞ知るか。俺は森崎の世話で手いっぱいなんだからな」
『森崎? 森崎がどうかしたのか…』
「またぶっとんじまったようだぞ。昨日の夕方からずっと眠りこけてる。時々目を覚ましか けるんだが、すぐまた眠っちまう」
『おい、それって…』
 若林の声が低まった。
「原因は、たぶん、しづ姉だ」
 若島津は腕時計のことを説明した。
「姉貴も森崎の時計を持ってるんだとしたら…」
『いや、でもそいつは無理がないか。日本とドイツじゃいくらなんでも遠すぎる…』
「断言できるか?」
『ううう…』
 うなってもいい考えは出ない。
「若林、あの時みたいに……俺も森崎のところへ行けないか?」
『おい、無理を言うなよ。それに、こないだと違って森崎はそこにいるんだろ? 中身ごと 飛んじまったんじゃないだろ?』
「――ああ」
 森崎の寝顔は静かだった。だが夢の中でもそうなのか、こちらからはわからない。
『それにしたって、おまえの姉さん、ありゃ何者だ? ヘフナーがヨレヨレにされてるぞ』 「俺に聞くな。あれはどうせ正体不明だ」
 実の弟がこれではどうしようもないな。
『それがまたなんでよりによって森崎の嫁さんに…』
「まったく」
 そうは聞こえないかもしれないが、これでも若島津は目いっぱい共感しているのだ。
『でもって、おまえまで加わって…。三角関係の駆け落ちなんて初めて聞いたぞ』
「――? おい、待て」
 若島津の顔が微妙に引きつる。ねじくれた話がさらにねじくれてきたような…。
『こっちでな、剛さんに連絡を取って話したんだ。すっごく同情してたぞ、森崎に』
「待てと言ってるんだ!!」
 隣で、何も知らない岬くんがびっくり目玉で立っていた。










<< BACK | MENU | NEXT >>