4章ー2

















「やっぱりさっきの無理が響いてしまったみたいだなあ。かわいそうに…」
 車を降りて調べていたジノは、悲しそうに首を振った。メカ好きが高じると、感情移入が 多少危なくなるものらしい。
「レッカー車、呼ぶかい?」
 ヴェーゼル川に沿った緑の谷間の途中でシュナイダーの車はエンジンの不調を訴え始め、 徐々にスピードダウンしていったかと思うとついには完全に動かなくなってしまったのだ。 「駄目だな、待ってる間に追いつかれる」
 ヘフナーは確信ありげだった。彼には人にはないアンテナがあるのだ。
「あと10km少しでハーメルンだよ。あそこなら鉄道に乗り換えて行けるけど…」
「しょうがないな。俺が話をつけてくる」
「話を…?」
 誰とつけるというのだろう。尋ねる暇さえ与えずにヘフナーは道路からその下の草地に降 りて、木立ちの向こうへどんどん入って行ってしまった。
「どうぞ」
「まあ、ありがとう」
 宿で入れてもらってあったジャーポットからコーヒーを注ぎながら会話教本の例文のよう な会話を交わしているシュナイダーとしづ姉である。なりゆきに任せる素直な性格がどこと なく共通しているのかもしれない。
「あなたもどうぞ」
「あ、これはどうも」
 心配そうにヘフナーを見送っていたジノも、しづさんにコーヒーを手渡されてにっこりす る。
「こんな騒ぎじゃなかったら、二人きりカフェでゆっくり飲みたいところなのに、残念です ね」
「………」
 なぜかいきなり無言で割り込んできたシュナイダーである。
「え、この時計が何か?」
 シュナイダーはしづさんの腕には少々不似合いなスポーツタイプの腕時計に目を止めてい た。その視線にしづさんもびっくりしたように目を落とす。
「時間が、違う」
「ああ、本当だ。これ、もしかして日本の時間のままになってるんじゃないですか?」
「ええ、これはいいんです」
 ほんっとーに嬉しそうにしづさんは微笑んだ。
「有三さんの時間のままにしてあるんです」
 シュナイダーとジノは顔を見合わせた。はあそうですか、と答えるしかないではないか。 「おーい!」
 白くなりかけた空気を突き破って、ヘフナーの声が届いた。
「連れて来たぞ!」
「う、うまっ!?」
 栃栗毛の馬が1頭、ヘフナーと並んでこっちにやって来る。
「牧場が見えたんでな、頼んできた」
「へええ、よく貸してくれたね」
 馬は3人の前で足を止め、ぶるん、と首を振った。
「いや、こいつが、暇だから少しくらいなら付き合ってもいいって…」
 つまり人間のほうの了解はとっていないということだ。
「き、君、まさか動物の言葉がわかるとか…!」
「なわけないだろう。慣れてるだけだ」
 そうは言ってもヘフナー、普通はできないと思いますが。
 ヘフナーは車の中からしづ姉のバッグを出した。それからしづ姉をひょいと抱え上げて馬 の背に座らせる。馬具なしなのでつかまるところがわからず、目を丸くしているしづ姉だっ た。こわごわと、でも嬉しそうに馬のたてがみを撫でてみたりしている。
「で、僕たちのは?」
 ジノはきょろきょろと見回した。まさか1頭に4人で乗るのではあるまい。
「自分で調達しろ。駄目ならここで待つんだな。どうせ、連中はおまえらに興味はないだろ う」
「そんなぁ!」
 ここまで来ておいてそれはない――というより、美人を独り占めするなんてズルイ!とい うのがこちらの二人の本音だった。
 しかしヘフナーは聞く耳持たず、馬跳びの要領でしづさんの後ろに飛び乗ってしまった。 「電話見つけたら、レッカー車を頼んでやるからな!」
「さようならー」
 振り返って手を振るしづさんの姿が木立ちの間に消えて行くのを呆然と見送る。
「シュナイダー?」
 ふと見るとシュナイダーは道路に上がって、後方を睨んでいるではないか。
「来たな」
 言うなり腕を振り上げて追っ手のBMWに合図を始める。ジノはあわてて側に駆け寄っ た。
「何をする気なんだ!?」
「ヒッチハイクだ。決まってるだろう」
 ブンデスリーガの若き皇帝の思考回路は、今ひとつ理解不能…かもしれなかった。















 大場勢至はガチガチに緊張していた。
「そう、そこは4ビートでうーんとシャッフルしてくれ」
 ギュンターは2コーラス目からのメインフレーズを口ずさんでコードを示した。ベーシス トが途中から入って勢至を振り返りながらリズムパタンを調節する。
 XIP(ジッパ)ではまず聴くことはないだろうジャジーなスローバラードである。途中、 ギターのブレイクソロが入るが、ギュンターはその前でストップしてクルーを振り返った。 「よーし、OK! ご苦労さん。あと、店を開ける前の最終リハまであがっててくれ」
 長い金髪のハウスミキサーが手を上げて了解を示した。その横で腕組みをしていたルディ と二言三言うなづき合ってからステージに歩いて来る。
「いいアンサンブル出てるよ。うちの常連はだまされるかもな。まさかメタルのビッグネー ムがこんなとこでスタンダードのトリオ組むなんて思わないだろうし」
 ギターを下ろしたギュンターは、背の高いパイプスツールからのっそりと降りた。むろ ん、いつもの変形フライングVではなく無難にレスポールだ。もう1本、サブとして12弦 も用意してあるが、こちらの出番はなさそうだった。
「ゼージ、握手しよう。あんたとはいい仕事ができそうだ」
 振り返ってドラムスの正面に立つ。上背があるからハイハットシンバルの上から軽く手が 届いた。
「テンポのキープ加減が実にいい。適度な軽さがあって、そのくせ決して余分に流れずに乗 せてくれる。いいドラミングだ」
「ど、どーも」
 勢至は弾かれたように立ち上がり、赤い顔で握手を返した。そりゃなんたってロック界の スタープレーヤーだ。一晩限りの助っ人でも、共演できるだけで夢なのである。
「ここんとこ、すごいモテっぷりらしいぜ。あちこちから仕事の声がかかってる。な、ゼー ジ」
 ルディが愉快そうに付け加えた。名前をちゃんと発音してもらえないことはもう諦めるし かなさそうだ。
 そう、あのスイスのライブでのヤケっぱちドラムソロ以来、妙に多忙になっている勢至で あった。相方が図に乗って売り込みに精出しているせいもあるのだが、やっぱり、あの時の 演奏が関係者の間で話題になったのは間違いない。
「え…、そ、そんな――」
 どちらかと言えばありがた迷惑の部類に入る状況ではあったが、今夜ばかりは剛に感謝し てもいいかな、と勢至は思ってしまった。
 さっきの金髪の兄さんが向こうで手招きした。
「オーナーがメシおごってくれるって。本場仕込みのパエリアだぜ!」
 店のオープンまでまだ時間は十分あった。演奏前には酒は飲まない主義のギュンターに合 わせて、アルコール系は抜きの食事であったが、一同は大いに盛り上がった。スペインに長 くいたというオーナーの腕がものを言ったに違いない。
「ところでゼージ、あんたのマネージャーはどこ行ったんだ? 控え室にはいなかったが」 「え、ああ、私用でちょっと出てくるとか…。遅いな、そう言えば」
 オーナーの誤解も無理からぬところだったので、勢至はあえて訂正はしなかった。マネー ジャーと言うよりは、事務所の社長になりきっている相方だけに。ギュンターが目を上げて ニヤリとする。
「彼にも出演依頼するか? ギャラはふんだくられそうだが」
 その言葉にオーナーが訝しそうにしたその時、派手な声が入り口で響いた。まさしく噂を すれば、である。
「あー、いい匂い! ずるいぞ、俺のいない間に食っちまおうなんて…」
 もしあるなら自分でシンバルをジャーン、と鳴らすか、あるいはファンファーレと共に登 場――というノリである。ただし、剛は一人ではなかった。
「勢至、あのさ、俺ちょっと今夜ここの仕事付き合えなくなっちまった。若林くんと、オペ ラハウスに行ってくるんだ」
 入り口の階段の上で立ち止まっていた若林が、ポケットに手を突っ込んだまま軽く会釈し た。
「え、オペラハウスぅ!?」
 仕事上の了解を得るためもあってドイツ語でそう言った剛に対して、思わず日本語で返し てしまった。が、勢至の当惑も含めて周囲にはちゃんと理解されたようだ。
「今度はオペラに挑戦か」
 半分本気で茶化したのはルディだ。なにしろ剛には前科がある。ジャズシンガーのくせに ジャンル無視で何にでも首を突っ込むところは彼も見せつけられた一人なのだ。
「違うんだ。姉ちゃんが、結婚したんだ」
 剛はわざとしょんぼりとうなだれてみせる。勢至は昨夜の若林からの電話を知らなかっ た。剛の様子がどこか落ち着かないと思っていたのだが、その謎が解ける。
「家飛び出して、結婚して、ドイツに逃げて来たんだ」
「ええええええっ?」
 つくづく人騒がせな一家である。
「若林くんの話だと、今日ハノーファーに来るらしくて。…ヘフナーくんと一緒に」
「ヘフナーくん、って!? まさか、お姉さんが結婚した相手が?」
 一同の目がさっとギュンターに集まる。当然だ。もっとも当人の表情は変化ない。
「違う、違う! 相手はほら、2月に会ったろ、森崎くんだ。健と同じユースチームの」
 余計こんがらがってきた気がする。第一、剛の弟とその友人連中が出てくるとろくなこと はない、というのが勢至がこれまでの体験から得た教訓だったわけで、深入りは避けたいと ころだった。
「いきさつはともかく、めでたい話じゃないか、ゴー」
 ルディは大きな手で剛の肩をたたいた。しかし剛には手放しで祝福していられない事情が あったりする。
「姉ちゃんはおっかないからなー。俺、首根っこつかまれて、日本に強制送還になりそうで …」
 そういう目にあってもしかたないだけのことをしてきた剛であるが、今ひとつ深刻になれ ないのが彼の彼たるゆえんかもしれない。
「オペラハウスか。確か今夜は『魔笛』のプリミエだったな」
 オーナーがぽつんとつぶやいた。
「あんたたち、チケットがいるならうちのクラブで押さえてあるボックス使っていいよ」
 ジャズクラブのオーナーであるこの男、なかなか手広い趣味を持っているらしい。まあ新 演出初日(プリミエ)となると席の確保も大変だろうということで、剛は好意に甘えること にした。
「行こう、若林くん。……どうかしたかい?」
 待たせていた若林のところに戻ってドアを開けながら剛が振り返った。若林が、逆に室内 に一歩踏み出して、クラブの店内を厳しい顔で見回している。
「いや、なんかこう――気のせいか、気配が…」
「気配って?」
「まさか、な。――あ、いいです。行きましょう」
 若林は首を振ってドアをくぐった。その姿をステージの前からじっと見ていたのはギュン ター・ヘフナーである。
「あの男も、幽霊を見るタイプなのかもな」
「そ、そんな――若林さんが…!?」
 すれ違いのように目覚めかけていてその場から消えていた幽霊――森崎が、しばらくして 夢の中に舞い戻ってきた時、ギュンターからその話を聞いてパニックになったのは当然だっ た。










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