◆
「やっぱりさっきの無理が響いてしまったみたいだなあ。かわいそうに…」
車を降りて調べていたジノは、悲しそうに首を振った。メカ好きが高じると、感情移入が
多少危なくなるものらしい。
「レッカー車、呼ぶかい?」
ヴェーゼル川に沿った緑の谷間の途中でシュナイダーの車はエンジンの不調を訴え始め、
徐々にスピードダウンしていったかと思うとついには完全に動かなくなってしまったのだ。
「駄目だな、待ってる間に追いつかれる」
ヘフナーは確信ありげだった。彼には人にはないアンテナがあるのだ。
「あと10km少しでハーメルンだよ。あそこなら鉄道に乗り換えて行けるけど…」
「しょうがないな。俺が話をつけてくる」
「話を…?」
誰とつけるというのだろう。尋ねる暇さえ与えずにヘフナーは道路からその下の草地に降
りて、木立ちの向こうへどんどん入って行ってしまった。
「どうぞ」
「まあ、ありがとう」
宿で入れてもらってあったジャーポットからコーヒーを注ぎながら会話教本の例文のよう
な会話を交わしているシュナイダーとしづ姉である。なりゆきに任せる素直な性格がどこと
なく共通しているのかもしれない。
「あなたもどうぞ」
「あ、これはどうも」
心配そうにヘフナーを見送っていたジノも、しづさんにコーヒーを手渡されてにっこりす
る。
「こんな騒ぎじゃなかったら、二人きりカフェでゆっくり飲みたいところなのに、残念です
ね」
「………」
なぜかいきなり無言で割り込んできたシュナイダーである。
「え、この時計が何か?」
シュナイダーはしづさんの腕には少々不似合いなスポーツタイプの腕時計に目を止めてい
た。その視線にしづさんもびっくりしたように目を落とす。
「時間が、違う」
「ああ、本当だ。これ、もしかして日本の時間のままになってるんじゃないですか?」
「ええ、これはいいんです」
ほんっとーに嬉しそうにしづさんは微笑んだ。
「有三さんの時間のままにしてあるんです」
シュナイダーとジノは顔を見合わせた。はあそうですか、と答えるしかないではないか。
「おーい!」
白くなりかけた空気を突き破って、ヘフナーの声が届いた。
「連れて来たぞ!」
「う、うまっ!?」
栃栗毛の馬が1頭、ヘフナーと並んでこっちにやって来る。
「牧場が見えたんでな、頼んできた」
「へええ、よく貸してくれたね」
馬は3人の前で足を止め、ぶるん、と首を振った。
「いや、こいつが、暇だから少しくらいなら付き合ってもいいって…」
つまり人間のほうの了解はとっていないということだ。
「き、君、まさか動物の言葉がわかるとか…!」
「なわけないだろう。慣れてるだけだ」
そうは言ってもヘフナー、普通はできないと思いますが。
ヘフナーは車の中からしづ姉のバッグを出した。それからしづ姉をひょいと抱え上げて馬
の背に座らせる。馬具なしなのでつかまるところがわからず、目を丸くしているしづ姉だっ
た。こわごわと、でも嬉しそうに馬のたてがみを撫でてみたりしている。
「で、僕たちのは?」
ジノはきょろきょろと見回した。まさか1頭に4人で乗るのではあるまい。
「自分で調達しろ。駄目ならここで待つんだな。どうせ、連中はおまえらに興味はないだろ
う」
「そんなぁ!」
ここまで来ておいてそれはない――というより、美人を独り占めするなんてズルイ!とい
うのがこちらの二人の本音だった。
しかしヘフナーは聞く耳持たず、馬跳びの要領でしづさんの後ろに飛び乗ってしまった。
「電話見つけたら、レッカー車を頼んでやるからな!」
「さようならー」
振り返って手を振るしづさんの姿が木立ちの間に消えて行くのを呆然と見送る。
「シュナイダー?」
ふと見るとシュナイダーは道路に上がって、後方を睨んでいるではないか。
「来たな」
言うなり腕を振り上げて追っ手のBMWに合図を始める。ジノはあわてて側に駆け寄っ
た。
「何をする気なんだ!?」
「ヒッチハイクだ。決まってるだろう」
ブンデスリーガの若き皇帝の思考回路は、今ひとつ理解不能…かもしれなかった。
|