4章ー3

















 50万以上の人口を抱えるハノーファーは、先の大戦で徹底的に破壊しつくされた町だ。 おかげで、と言うのも変だが、現在はドイツでも屈指の近代都市になった。だが一方で、中 世からの建造物、庭園、それに旧市街の街並みは修復によって当時のままの姿に復元され、 その新旧の不思議なバランスが魅力となっている。
 その旧市街の一角、中央駅からほど近い広場前に壮麗なオペラハウスがあった。ライトア ップされたネオ・ルネサンス様式のエントランスをしげしげと見上げている日独の二人連 れ。ハーメルンまでは馬、さらにローカル列車に乗り換えてようやくたどり着いたところで ある。
「なんだか、別世界みたい」
「オペラハウスは音楽を聴くだけの場所じゃないからな」
 車寄せに横付けされる高級車から正装の男女が次々と降り立つ。優雅で、華やいだ光景で ある。だが彼らが特別なのではなく、この場こそが特別なのだ。心煩わせる日常の現実を離 れ、ここでは夢だけを呼吸する。そうして自らもこの場所の夢を構成する一部分たるべく特 別に装う。そういう場所なのだ。
 ヘフナーは淡々と解説してから、しづさんの肩をとん、とたたいた。
「行こう。招かれざる客、になりそうだが」
 入り口でフロックコート姿の係員をつかまえ、とにもかくにも事情を話す。が、予想外の 返事が返ってきた。
「ノモリ教授でしたら伺っております。お連れ様ですね。どうぞ、中へ」
 大理石造りの豪華なロビーを抜けて、さらに階下にある楽屋口に下りる。案内された部屋 には上機嫌なホールマネージャーが待っていた。
「あのー、野森先生はいらしてないのでしょうか」
「それなんですよ。クリストフは招待したと言って楽しみにしているんですが、この時間に なっても連絡が取れていなくて困っているんです。お嬢さん、日本からいらしたのでしょ う? 教授のお知り合いなのでしたら是非お願いしたいのですが…」
 歓迎してくれるのはいいのだが、よくしゃべる男だった。大きな身振りでしづさんを促 し、奥の楽屋に案内する。
「まあ、きれいな振り袖!」
 しづさんは部屋に入るなり目を見開いた。バリトン歌手クリストフ・エデルの楽屋の壁い っぱいに、タペストリーのように振り袖がかかっている。
「クリストフが日本で買って来たものです。彼の守り神ですよ。初日には必ずこれを飾っ て、幸運を祈るわけです。お嬢さん、あなた、これを着ていただけませんか?」
 初日ということで開演前にマネージャーの挨拶と一緒に出演者への花束贈呈があるのだと いう。
「別に、構いませんけど」
 帯をはじめ一式が揃っているなら、着付けは一人でこなせるしづさんである。ヘフナーは 通訳しながら何か腑に落ちない顔をしていたが、野森教授の名を出されては特に断る理由も 見つからなかった。
「舞台で渡す時に、先生のこと訊いてみようかしら」
 そういう問題とはちょっと違うような…。
 ともあれ、開演はもう間もなくであった。















「よし、ここでいい。止めてくれ」
 左手にオペラハウスが見えてくると、シュナイダーはドライバーの男に平然と命じた。
「何を馬鹿言ってる! 俺たちはタクシーじゃないんだぞ!」
 青アザがさらにさらに増えた男が怒鳴りつけた。当たり前だ。
「おまえらは人質なんだ、自覚があるのか、え?」
「違う。ヒッチハイカーだ。いいから降ろせ」
 どっちだとしてもこの態度には問題がある。隣でジノが大げさにため息をついた。
「シュナイダー、いいかい? ものを頼む時は、もう少し謙虚にしなくちゃいけないよ」
「そうなのか?」
「おいっ、本当に、ここにいるんだな? …こら、人の話を聞かんか!」
 頭上で大声を出すが、人質ヒッチハイカーはびくともせずに自分たちの話に没頭してい る。
「だからね、ワカバヤシもこの町に向かってるはずなんだ」
「何のために?」
「そりゃ、彼女に会うためだよ、決まってるだろ」
 これでは話が終わりそうにない。サッカー選手としては一流かもしれないが、人質として は最悪な奴らだ、と彼らは結論づけた。
「あれ、おじさんたち、先に降りてったよ」
「どうしたんだ。降りると言ったのは俺たちだぞ」
「急いでたんだね、きっと」
『――おまえらな、あまり妙な評判を広めて回るな。同業者の迷惑も考えろ』
 シュナイダーに続いて車を出ようとしたジノの頭に、その時なじみのある声が響いた。
「ワカバヤシ、遅いよ。連絡待ってたんだからね。ヘフナーはどうしたかわかるかい」
『もうオペラハウスに着いてるらしい。俺は今来たとこだ。合流しよう。席はある』
 エントランス前は既に人影はまばらになっていた。開演寸前に駆け込んでくる観客のため に待機している係員もどことなく暇そうだ。
 若林と剛、そしてシュナイダーとジノはまもなくオペラハウスの正面で落ち合った。
「そうですか、仕事でこの町に…」
「いや、俺はどうせ出番ないし、ヒマだったからねー」
 一度だけ顔を合わせたことのあるジノと剛さんが挨拶を交わす。イタリア人と日本人がド イツ語で会話するというのも奇妙な光景だ。ノリがどことなく似通っているのは置いておく として。
「シュナイダー、おまえが自分の車で来たって話したらカルツがおびえてたぞ。なんで素直 に飛行機にしなかったんだ」
「………」
「ははあ、さてはマリーに見せびらかすつもりだったのか」
 シュナイダーがその指摘にぴくりと反応する。
「ワカバヤシ、おまえマリーにちょっかい出してないだろうな!」
 どうしても警戒心はゆるめないシュナイダーの背後から二つの声がかぶる。
「僕は手を出してもいいよね」
「ふーん、その子って美人? シュナイダーくんに似てるの?」
 しかしふざけた会話はロビーまで。桟敷席に入って見渡すと、ホールの中は第一正装の紳 士淑女ばかりである。開演を待つ低いざわめきが、あくまで優雅に流れていた。
「――こんなことなら、ブラックタイくらい用意しておくんだったな」
 と、しきりに残念がるのは本国でこういう場に馴染んでいるジノである。しつこいようだ が、アリーナ席と違って桟敷席というのはそこに座るだけで、「見る」だけではない「見ら れる」役割を持つということなのだ。
「こんないい席だとは思わなかったなあ。こんなのを年間契約しておくなんて、あのクラブ のオーナー、けっこう好きモンだな」
 この人は論外。いっそシュナイダーのように黙っているのが一番いいかもしれない。
『ヘフナー、気をつけろ、フランクフルトからの連中、ここに来てるらしいぞ』
 さらにこっちはオペラよりも心配事が先に立っている若林。手すりから軽く身を乗り出す ように客席に目を配っているが、あいにくヘフナーのように「匂い」で識別することができ ない。そもそも追っ手の顔だって知らないのだ。
『ちょっと聞くが、ワカバヤシ、キモノのオビというのはなんだってこんなに重いんだ?』 『なに?』
 問題にしているものが、若林とヘフナーではすれ違っているようだった。大学の研究室に 端を発したキナ臭い事件より、手伝わされているしづ姉の着付けのほうがヘフナーにとって はよほど難問らしい。
「ああ、始まるね」
 モーツァルトよりヴェルディが好き、とかなんとか言っていたジノも、いよいよ開演の鐘 が鳴ると目が輝く。
 「魔笛」全2幕。モーツァルトのオペラの中でも定番となっている人気作品だ。数々の苦 難を乗り越えて姫を救出するというおとぎ話的な展開を見せながら、哲学上の暗示や宗教的 要素をも下敷きにし、モーツァルトと秘密結社フリーメーソンとの関係まで取り沙汰される 実に謎と矛盾に満ちた曰く因縁だらけの作品なのである。
 場内が暗くなったところで、ホールマネージャーが緞帳の前に進み出た。一緒に出て来た のは演出家と指揮者である。ホールに拍手が響き渡った。
「うわあ、あれ、彼女だ!」
「うーむ」
 花束を持って現われた3人の中に振り袖姿の女性がいる。声を弾ませるジノの横で、若林 がうなった。
 重厚かつきらびやかな劇場、大勢の観客の前でも、しづさんの何にも動じない品格と美し さは際立っていた。和服という意表を突いた演出もプラスされて、その場の誰もが視線をく ぎづけにしてしまっている。
 他の2人に続いてしづさんが花束を渡そうとすると、マネージャーがユーモラスな仕草で それをさえぎり、舞台の袖を窺った。客席がどーっと沸く。下手から奇妙な衣装の男が跳ね るようなステップで舞台中央に飛び出して来たのだ。パパゲーノ役のバリトン、クリスト フ・エデルである。
 エデルはしづさんから花束を受け取ると、パントマイムのような無言の動作で感謝を表わ してみせた。それから客席に一礼し、またすばやく袖に消える。
「しづ姉、また一段と凄味が出て…。こわい〜」
「うーん、あれが――あれが森崎の嫁さんとは」
 若林の驚きは結局そこに集約されるらしい。こっちの弟は弟で他人にはわからない基準が あるようだし。
「ワカバヤシ、彼女、役目も終わったのなら、ここに呼んだらどうかな。一緒のほうが安全 だろ」
 ジノが振り返った。うなづいて賛意を示したのはなんとシュナイダーだ。しづさんに関し ては妙に熱心な二人である。
「あ、悪い。俺、ちょっとトイレ、ね…」
 剛がそそくさと席を立った。まさか逃げる気では…。若林は横目で見送りながらヘフナー を呼んだ。
『ヘフナー。ヘフナー…?』
 様子が変だ。ジノと無言で目を合わせる。
『どうした、ヘフナー、何かあったのか…!?』
『――このっ! くそ!!』
 こちらへの応答はないが、なにやら取り込み中の様子だけは伝わる。
『…ったく、しつこい、連中だ…!』
 ヘフナー相手に格闘を挑むとは確かに無謀、いや、勇気ある連中がいたものだ。が、彼ら が持っていたのは実は勇気だけではなかったらしい。
『…………!』
『ヘフナー? 答えろ、ヘフナー!』
 突然ヘフナーからの反応が途切れる。何度呼びかけても同じだった。ジノがさっと立ち上 がる。シュナイダーが不思議そうにそんな二人を振り返った。
「あ、あのな、シュナイダー。俺たちヘフナーを探して来る。おまえはここで待っててく れ。剛さんも戻るだろうし」
 詳しい説明をしている暇はなかった。キーパー同士の内緒の通信について明かすのも、む ろんできない。
 二人が桟敷席を出ようとしたその時、序曲の演奏が始まった。ちょっぴり名残惜しそうに 舞台を振り返ったのはジノだった。










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