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50万以上の人口を抱えるハノーファーは、先の大戦で徹底的に破壊しつくされた町だ。
おかげで、と言うのも変だが、現在はドイツでも屈指の近代都市になった。だが一方で、中
世からの建造物、庭園、それに旧市街の街並みは修復によって当時のままの姿に復元され、
その新旧の不思議なバランスが魅力となっている。
その旧市街の一角、中央駅からほど近い広場前に壮麗なオペラハウスがあった。ライトア
ップされたネオ・ルネサンス様式のエントランスをしげしげと見上げている日独の二人連
れ。ハーメルンまでは馬、さらにローカル列車に乗り換えてようやくたどり着いたところで
ある。
「なんだか、別世界みたい」
「オペラハウスは音楽を聴くだけの場所じゃないからな」
車寄せに横付けされる高級車から正装の男女が次々と降り立つ。優雅で、華やいだ光景で
ある。だが彼らが特別なのではなく、この場こそが特別なのだ。心煩わせる日常の現実を離
れ、ここでは夢だけを呼吸する。そうして自らもこの場所の夢を構成する一部分たるべく特
別に装う。そういう場所なのだ。
ヘフナーは淡々と解説してから、しづさんの肩をとん、とたたいた。
「行こう。招かれざる客、になりそうだが」
入り口でフロックコート姿の係員をつかまえ、とにもかくにも事情を話す。が、予想外の
返事が返ってきた。
「ノモリ教授でしたら伺っております。お連れ様ですね。どうぞ、中へ」
大理石造りの豪華なロビーを抜けて、さらに階下にある楽屋口に下りる。案内された部屋
には上機嫌なホールマネージャーが待っていた。
「あのー、野森先生はいらしてないのでしょうか」
「それなんですよ。クリストフは招待したと言って楽しみにしているんですが、この時間に
なっても連絡が取れていなくて困っているんです。お嬢さん、日本からいらしたのでしょ
う? 教授のお知り合いなのでしたら是非お願いしたいのですが…」
歓迎してくれるのはいいのだが、よくしゃべる男だった。大きな身振りでしづさんを促
し、奥の楽屋に案内する。
「まあ、きれいな振り袖!」
しづさんは部屋に入るなり目を見開いた。バリトン歌手クリストフ・エデルの楽屋の壁い
っぱいに、タペストリーのように振り袖がかかっている。
「クリストフが日本で買って来たものです。彼の守り神ですよ。初日には必ずこれを飾っ
て、幸運を祈るわけです。お嬢さん、あなた、これを着ていただけませんか?」
初日ということで開演前にマネージャーの挨拶と一緒に出演者への花束贈呈があるのだと
いう。
「別に、構いませんけど」
帯をはじめ一式が揃っているなら、着付けは一人でこなせるしづさんである。ヘフナーは
通訳しながら何か腑に落ちない顔をしていたが、野森教授の名を出されては特に断る理由も
見つからなかった。
「舞台で渡す時に、先生のこと訊いてみようかしら」
そういう問題とはちょっと違うような…。
ともあれ、開演はもう間もなくであった。
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