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「どうだ?」
「よく寝てる。まだまだ起きそうにないな」
ドアを挟んでひそひそと話す若林とヘフナーである。控え室の中にいるヘフナーはちらっ
と振り返る。しづさんは事故現場からここオペラハウスに運ばれて、とりあえず楽屋のソフ
ァーに寝かされているのだ。
「連中、5、6時間はもたせるつもりだったらしいからな、薬が切れるのは朝になるかもし
れん」
「そうか。道理でゴーが元気なわけだ」
「え…?」
控え室から出て来たヘフナーと一緒に廊下を行きかけて若林が目をみはった。ちょうど二
人の前を布にくるまれた大きな物体が鼻歌を歌いながら通り過ぎて行ったのだ。もちろん歌
っているのはその運ばれて行く物体ではなく、運んでいる剛である。野森教授と並んでその
まま少し先のエデル氏の控え室に入って行こうとしている。
「なんだありゃ!?」
「――ソーセージ、だな」
ぴくりと鼻を動かしてヘフナーは断言した。ちなみにこれは決して『力』ではなく、ヘフ
ナー言うところの『ドイツ人の常識』だそうであるが。
「行ってみよう。ひょっとするとあれがアレかもしれん」
「なんだって?」
若林が振り返った時、向こうからばたばたと足音がやってきた。一緒にとんでもない大声
が響く。
「おお、タダス!! 交通事故に遭ったって……ケガは?」
体じゅうに鳥の羽をまぶしたようなキテレツな衣装で走って来たのは間違いなくパパゲー
ノである。なにしろ本職であるからその声の通ること大きなことと言ったら、頭痛がしそう
なほどだった。エデル氏は野森教授を見つけるとこれまた大げさに腕を広げて抱き締める。
「心配ないのよ、クリストフ。乗ってたのは私じゃないの。それにあの子にもケガはなかっ
たし」
ビッグバードと抱き合っているようにしか見えない小柄な野森教授だが、ひるむ様子もな
いのはさすがと言うか。
「ごめんなさいね、プレゼントは初日に間に合わせるつもりだったのに。ちょっとやり直し
をしていて、遅刻してしまったの」
「おおお! これを私に? ああ、ありがとう、タダス。君のソーセージは芸術だよ!」
エデル氏は剛から荷物を受け取ると、いそいそと自分の楽屋に運び込んだ。
「えー、ソーセージだってぇ?」
中身を知らなかった剛は唖然としている。そこへぬっと進み出たのはヘフナーだ。
「教授、もしかして、やり直しってのはブルート・ヴルスト(血のソーセージ)では?」
「おほほほ。そうなのよ。研究室でぶちまけちゃって…」
生化学の研究と趣味のソーセージ作りを両立させるのは結構だが、場所は考えたほうがい
い。
「え、まさか、あの血が…!?」
若林が絶句する。
「ええ、せっかく用意しておいた材料の血をまるまるこぼしてしまったものだから、契約し
ている農場へもう1頭買い直しに行くことになって…」
肉食文化への順応ぶりが見事だとしか言えない。肉はもちろんのこと内臓も皮も血さえも
無駄にせずに加工してしまうのがドイツのソーセージなのだが、肉はパック詰めされて店先
に並んでいる状態でしか想像しない日本人には、豚1頭をつぶしてソーセージに加工する過
程はかなり生々しい話になるはずだ。
「ヘフナー、おまえわかってたのか、最初から…」
「いや、人間の血でないことはあの時に気づいてたんだが、まさかソーセージ用とは思わな
かった…」
研究室の惨状にもうろたえていなかったのは、なるほどそういうわけだったのか。
「タダスのソーセージはあちこちの企業がパテント争いをしているほどなんだよ。秘伝の製
法があるからね」
「いやだわ。商品化なんてする気はないのよ。クリストフがおいしいって言ってくれればそ
れで十分」
「――なあ、ヘフナー」
アホらしくなって楽屋を出た二人のキーパーは、肩のあたりにどっしりと疲労を感じてい
た。
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