5章ー4
















「どうだ?」
「よく寝てる。まだまだ起きそうにないな」
 ドアを挟んでひそひそと話す若林とヘフナーである。控え室の中にいるヘフナーはちらっ と振り返る。しづさんは事故現場からここオペラハウスに運ばれて、とりあえず楽屋のソフ ァーに寝かされているのだ。
「連中、5、6時間はもたせるつもりだったらしいからな、薬が切れるのは朝になるかもし れん」
「そうか。道理でゴーが元気なわけだ」
「え…?」
 控え室から出て来たヘフナーと一緒に廊下を行きかけて若林が目をみはった。ちょうど二 人の前を布にくるまれた大きな物体が鼻歌を歌いながら通り過ぎて行ったのだ。もちろん歌 っているのはその運ばれて行く物体ではなく、運んでいる剛である。野森教授と並んでその まま少し先のエデル氏の控え室に入って行こうとしている。
「なんだありゃ!?」
「――ソーセージ、だな」
 ぴくりと鼻を動かしてヘフナーは断言した。ちなみにこれは決して『力』ではなく、ヘフ ナー言うところの『ドイツ人の常識』だそうであるが。
「行ってみよう。ひょっとするとあれがアレかもしれん」
「なんだって?」
 若林が振り返った時、向こうからばたばたと足音がやってきた。一緒にとんでもない大声 が響く。
「おお、タダス!! 交通事故に遭ったって……ケガは?」
 体じゅうに鳥の羽をまぶしたようなキテレツな衣装で走って来たのは間違いなくパパゲー ノである。なにしろ本職であるからその声の通ること大きなことと言ったら、頭痛がしそう なほどだった。エデル氏は野森教授を見つけるとこれまた大げさに腕を広げて抱き締める。 「心配ないのよ、クリストフ。乗ってたのは私じゃないの。それにあの子にもケガはなかっ たし」
 ビッグバードと抱き合っているようにしか見えない小柄な野森教授だが、ひるむ様子もな いのはさすがと言うか。
「ごめんなさいね、プレゼントは初日に間に合わせるつもりだったのに。ちょっとやり直し をしていて、遅刻してしまったの」
「おおお! これを私に? ああ、ありがとう、タダス。君のソーセージは芸術だよ!」
 エデル氏は剛から荷物を受け取ると、いそいそと自分の楽屋に運び込んだ。
「えー、ソーセージだってぇ?」
 中身を知らなかった剛は唖然としている。そこへぬっと進み出たのはヘフナーだ。
「教授、もしかして、やり直しってのはブルート・ヴルスト(血のソーセージ)では?」
「おほほほ。そうなのよ。研究室でぶちまけちゃって…」
 生化学の研究と趣味のソーセージ作りを両立させるのは結構だが、場所は考えたほうがい い。
「え、まさか、あの血が…!?」
 若林が絶句する。
「ええ、せっかく用意しておいた材料の血をまるまるこぼしてしまったものだから、契約し ている農場へもう1頭買い直しに行くことになって…」
 肉食文化への順応ぶりが見事だとしか言えない。肉はもちろんのこと内臓も皮も血さえも 無駄にせずに加工してしまうのがドイツのソーセージなのだが、肉はパック詰めされて店先 に並んでいる状態でしか想像しない日本人には、豚1頭をつぶしてソーセージに加工する過 程はかなり生々しい話になるはずだ。
「ヘフナー、おまえわかってたのか、最初から…」
「いや、人間の血でないことはあの時に気づいてたんだが、まさかソーセージ用とは思わな かった…」
 研究室の惨状にもうろたえていなかったのは、なるほどそういうわけだったのか。
「タダスのソーセージはあちこちの企業がパテント争いをしているほどなんだよ。秘伝の製 法があるからね」
「いやだわ。商品化なんてする気はないのよ。クリストフがおいしいって言ってくれればそ れで十分」
「――なあ、ヘフナー」
 アホらしくなって楽屋を出た二人のキーパーは、肩のあたりにどっしりと疲労を感じてい た。
「おまえらを追っかけてた大学の連中、ただのソーセージマニアだったら悲しいな」
「バックにどこかの企業がついてたのは間違いないが…」
 その企業がマニアだったらどうしようもない。
「やー、まいったまいった」
 のったりと廊下を歩いていた二人の前にジノが現われた。濡れた髪をぷるぷる振ってい る。ヘフナーの表情が固くなった。さらにその後ろにはギュンターの姿まであったから当然 なのだが。
「やっと片付いたよ。1日のうちに2回もレッカー車を呼ぶ羽目になるとはね」
 ヘフナーに避けられている件に関してはいつも通り意に介していない様子のジノと、もと もと表情に出ないギュンターであるから、中で一番すまなそうな顔をしているのは部外者の 勢至だったかもしれない。
「ここに…?」
 目で確認してから勢至は控え室を覗く。振り袖のまま眠っているしづさんに興味を引かれ たのか、ギュンターが一緒に中に入って行った。
「ワカバヤシ」
 それを横目で見送っておいてジノが声を低めた。若林に近寄り、手を広げてみせる。持っ ていたのは腕時計だ。針はドイツの現地時間を刻んでいる。
「おい、これは…!」
「運転席の足元に落ちてたんだ。これ、彼女がモリサキに渡した時計だろ? 日本にあるは ずの、ね」
 3人の間に沈黙が流れた。しかし彼らは知らない。その時計が12時間まるまる遅れてい ることを。
「モリサキのやつ、本当に『いた』のか、ここに…」
「あいつもよくよく限度知らずなやつだな、まったく」
 若林はがっくりとつぶやいた。しかも、本人は意識していないのだ、どうせ。
 その肩をジノがぽんと叩いて目配せする。
「野暮は言いっこなしだよ、ワカバヤシ。愛は偉大だよね、ほんと」
「おまえの思考回路もな!!」
 ヘフナーに誉めてもらっちゃった。
「でもなあ、どうも納得がいかんと言うか…」
 若林は一人でまだ悩んでいた。
「若島津に電話した時、言ってたんだよな。森崎のやつ、若島津に会った途端に眠り始めた って…。俺はどうも若島津の予知能力が作用してるような気がしてならないんだ」
「ワカシマヅの、予知夢か…?」
 ヘフナーが呆然と言った。
「モリサキがその夢に紛れ込んで、こっちに来たって…?」
「わからん。わからんが、あいつらやたら共鳴を起こしやすい。あの時もそうだったしな」  そう、先月のシュナイダーの一件。若林は顔を上げてヘフナーを見た。
「こんなこと言っても無駄だろうが、あいつら、あまり接触していないほうがいいかもしれ んなぁ。いちいちこんな芸当を見せるんじゃ」
「でも、もう兄弟になっちゃったものね」
 コワイことを平気で言うジノであった。でも大丈夫。ちゃんと二人の仲を邪魔してくれる 人がいますよ。独占欲の強い虎が。
「森崎のやつ、自覚がないから、余計に厄介なんだ」
 若林がちらっと部屋の中を振り返ると、ギュンターの姿が見えた。むしろ一番の謎はあの オジサンかもしれない。
「…で、これ、彼女になんて言って渡す?」
 ジノが時計を示した。とてもまともに説明がつくとは思えない。
「案外気にしないんじゃないか、あの嫁さんなら」
「そうだねぇ…」
 きっぱり切り捨てるヘフナーの言葉にジノがちょっと考え込んだ。
「つまりそれって、結局お似合いのカップルだってことかな」
 ああ、ありがとう、ジノ。
 階上のホールからは家路につく観客たちのざわめきが波のように伝わってくる。
「あーあ、結局舞台は観られなかったなあ、残念。……あ!!」
 言いかけてジノがゴホッとむせた。
「シュナイダーを、忘れてた…!」
「う、まずい!」
 若林も顔色を変える。フィールドでは皇帝、その外ではただの迷子坊やである。もし一人 で動こうとしていたら――どこへ行ってしまうかわかったものではない。もっともこの人の 場合、方向音痴と言うよりもむしろ独自の価値観の中に生きているせいで世間のそれとズレ が生じているだけなのかもしれないが。
 ともかく、ばたばたとバルコニー席へ走って行く。
「グスタフ……」
 その後を追おうとしたヘフナーの足がぎくりと止まった。
「俺、帰るな」
 音もなく背後に立っていた黒い姿――。
「帰れば?」
「まあそうつれなくするな。これを、おまえに渡しておきたかったんだ」
「何だ、これは?」
 目の前に突き出されていたのは小さな銀色の鍵である。
「おまえの母親のピアノだ。おまえ、ケルンに住んでるんだ、たまには弾きに行ってやれ」 「俺はピアノなんか弾けんぞ」
 ギュンターは構わずその鍵をヘフナーの掌の上に落とした。
「弾くと、いいことがあるかもな」
「……?」
「どっか遠くから幽霊が訪ねて来るとか…」
 ヘフナーがはっと顔を上げた時には、ギュンターは階段を上りかけていた。
「――俺は、幽霊なんぞに用はないからな!」
「向こうのほうで用があるかもしれんぞ」
「お断りだ!!」
 叫んだ時にはもうギュンターは消えている。ヘフナーは舌打ちして鍵に目を落とした。
「勝手に親父面しやがって…」
 でも本物の親父だからしかたないと思いますが。
『――ヘフナー!』
 若林の声だった。
「いたか、シュナイダーは」
『ああ、いた。ぐーぐー眠ってやがった』
 それはまあ何よりと言うか。
『シュナイダーも今朝張り切って早起きしてたからねえ』
「そんな奴にオペラなんて、見せるだけ無駄ってもんだ」
『まあな』
 土曜日にはこれと対戦するのかと思うと心境複雑な若林であった。















 そしてもう一人眠っている人はと言うと――。
「な、な、おまえも食ってみな。変な教授だけど、このソーセージは確かに最高だね。姉ち ゃんも化学の研究なんかより、こういうの教わったらいいのに」
(し、しーっ! 大声は駄目だったら…)
 どうやらさっきの運搬作業の報酬を現物支給でせしめてきたらしい剛は、制止する勢至に も構わず、しづ姉の枕元ではしゃいでいた。
「大丈夫だって。姉ちゃん、寝付きがいいから」
 それはまあAB型だからね。関係ないか。ちなみにこの人は、大方の予想通りB型である。
「ああ、でも姉ちゃんを嫁にもらってくれるやつがいるなんて夢のようだよ。俺、永遠に無 理だと思ってたもんね……う!」
「剛――」
 服のすそがぐいっと引っぱられる強い感触に、剛が絶句した。
「ね、姉ちゃん……」
「あなた、日本に帰る?」
 振り袖を着た若奥様が目を開いている。でもって片手だけで大の男をがっしりと引き止め てしまうあたりはさすがである。剛はひたすら凍りついていた。
「は、はい! 帰りますっ、そのうち。いや、近いうちに…、ややや、きっと!」
「そう」
 おっとりと微笑を浮かべるしづ姉である。
「じゃ、帰ったらみのりにありがとうを言うのよ」
「はいっ、おっしゃる通りに……はぁ? なんでみのりに…」
 訊き返そうとしたが、しづ姉はまた眠そうに目を閉じてしまった。
「ねえ、姉ちゃん? しづさん? ……寝ちゃったのかな?」
「あ、そうそう」
 つんつんしようとした途端、いきなり目を開く。
「みのりね、おみやげはシュタイフのクマさんがいいんですって。特大の、ね」
「えーっ、シュタイフは高いよぉ!」
「もとはと言えば、あなたの分を引き受けてくれるのよ。それともヘンケルのナイフセット にする?」
「ひえ〜っ!?」
 それだけは想像したくない剛であった。末っ子のみのりの率直な行動力はあれでなかなか 恐ろしいものがある。
「なあ、剛、しづさん着替えたほうが楽なんじゃないのか?」
 勢至が横からこわごわと言った。まったくその通り。
「姉ちゃん、ねえ、そのすごいかっこ、脱いだら? ね、いっぺん起きてさ」
「いいの、邪魔しないでちょうだい。夢の続きを見るんだから」
「え〜?」
 しづさんはふわーっと小さなあくびをするとまた目を閉じた。
「――ねえ、夢ってさ、何の…? 何の夢見てたんだよ」
 それを訊くのはやっぱり野暮というものです。しづさんは手にしっかりと腕時計を握っ て、また眠ってしまったわけで。
 2年後に、また夢から覚めるまで……。







【シュガームーンは眠れない END】


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