5章ー3
















「うわ…!」
 飛び起きた若島津は一瞬自分がどこにいるのか混乱した。
 カーテンのかかった窓。そして畳の部屋。そこらにしみついているような絵の具の油っぽ い匂い。
「ああ、帰って来たのか…」
 頭が多少重い感じはしたが、普通の寝覚めとあまり変わりはないようだ。若島津はゆっく りと体を起こして横を見た。
「森崎…」
 ここにいるのが当然のようにすやすや眠っている。本人に自覚がないのだからしかたがな いにせよ、いつもいつも拍子抜けさせられる若島津である。
 台所へ行き、ザバザバと顔を洗った。夢の中にいたのはどれくらいのことだったのだろ う。流しの曇りガラスの外はまだ十分に明るさがある。
「――妙だな」
 若島津は部屋の掛け時計を見上げて首をひねった。日本では夕方、ならばドイツでは同じ 日の朝のはずだ。さっきしづ姉の腕時計を合わせた時もその計算だった。
「なんで、俺たち夜に出ちまったんだ?」
 そう言えばその腕時計も見当たらない。若島津は周囲を見回して、玄関のドアが少し開い ているのに気づいた。
「そうだ、岬はどうしたんだろう」
 町で差し入れ責めに合い、それを岬に押し付けてきたことを思い出す。
 靴をはいてドアを開けると、なんとその戸口に彼が預けた荷物がそっくり置いてある。岬 は一度戻って来ていたのだ。
 若島津は家の中の森崎を振り返ってちょっと迷ったが、そのままにして探しに出ることに 決めた。森崎もどうせまもなく目を覚ますだろう。少なくとも岬には一宿一飯の恩義という ものがあるわけだし。
「さっきの商店街か、それとも南葛の連中のところかな…」
 むろん彼は三杉に見られていたことなど知るはずもない。まして天下の往来でなじみの 面々がひと騒動起こしているなどと想像すらしていなかった。
「四の五の言わねえで、さっさと出しゃいいんだ!」
「だから言ってるだろう、日向。俺たちも知らないんだよ」
 井沢にはさすがに一般市民の皆さんへの配慮というものがあったが、血の気の多さと遠慮 のないことにかけては南葛一かもしれない男が横から口を出して井沢の努力を端から破壊し ているのだった。
「ま、知ってたって教えてやる気はないけどよ!」
「なにぃ!」
 日向に凄まれてもまったく動じない石崎である。思えば翼が来る前の南葛小でサッカー部 のキャプテンを張り、全国優勝校修哲小のキャプテン若林に対等の口をきいていた恐ろしい 前科もあった。
「やっぱりおまえらがかくまってやがるな。出せ、出さねえか! 森崎には俺が自分で決着 をつけてやる!」
「で、でも、日向、もし当人たちが真面目に好き合ってるなら俺たちには口出しする権利は ないんじゃないかって――」
「ば、馬鹿野郎! 何が、真面目に、す、す、す……だとぉ!」
 怒りのあまり、口に出すのも許せないらしい。単に純情なだけだったらどうしよう。
「権利もくそもあるか! 森崎を出せ! 話はそれからだ!」
「う…く……く、苦しい――放してくれ!」
 襟首を絞め上げられた井沢を助けようと仲間がどっと詰め寄る。どうしてこう理性的に話 し合いができない体質の者ばかりなのだろう。
「あーっ、日向にボールが渡ったぞ、ブロックしろ!」
「誰だぁ、ボールなんか持ち込んだのは…?」
 まったくである。
「やめてよ、小次郎! みんなもやめるんだ!」
 駆けつけて来た岬を、全員が一斉に振り返った。が、次の瞬間また乱闘に逆戻りする。そ の中からボロボロになりながら日向が抜け出して来た。
「――岬、わかったぞ、かくまってるのはおまえだな!」
 ギラリと野性の目が光る。確かに並のカンではない。
「どこだ、おまえの家か。……よし!」
「小次郎、駄目だってば! 待ってよ、キミの誤解なんだ!」
 岬の言葉など聞く耳持たず、日向は南葛川の方角へ爆走して行く。だからなんでドリブル してるんですか…。
「止めろー、高杉! 日向を止めてくれ!」
「え……」
 いきなり指名されて絶句した高杉だが、突進して来る日向を見るとほとんど反射的に向か って行ってしまう。ストッパーの性であろう。
「うおおおおおおっ!」
 大きなガタイのスライディングタックルが迫る。が、日向はやっとマスターし始めたフェ イントでそれを右にかわした。
「やあ、日向」
「うっっ!」
 たった一言で猛虎の突進を止めてしまう。さすがは松山光を全日本のリベロに――ただし 彼らの間では「放し飼い」または「野放し」と訳されているが――育て上げた男である。
「元気なのはわかるが、少しは岬くんの話も聞きたまえ」
「どけ、三杉! 俺は若島津を取り返すんだ、邪魔をするな!」
「…見境がないねえ。これじゃ何のために連れて来てやったんだか」
 さりげなく立っているように見えて、実は日向の進路を一分のスキもなく完璧にふさいで いるビューティフル・ディフェンスなのであった。日向はただ唸るばかりである。
「何だって!?」
 岬の声がとんがった。
「三杉くん、キミが、小次郎を南葛に持ち込んだの?」
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。不可抗力だよ。彼に車を乗っ取られたのはこ っちだ」
 お互い似たようなことをやっている。
「僕としても日本代表のストライカーにあまりみっともない評判を立ててもらいたくなかっ たのでね、あえて僕が犠牲になったというわけだよ」
 平たく言えば、東名高速の入り口でヒッチハイクをしようとしていた日向につかまって乗 せて来たということらしい。日向の指示でフランボワーズまで送り届け、自分は岬の家を目 指したわけだ。
「えーい、ぐだぐだうるせえな! いいからどけ!」
 日向に押しのけられて、岬は本題を思い出した。
「小次郎、よく聞いて。森崎くんが結婚したのは若島津じゃないよ。あれはね…」
 と説明しかけた折りも折り、その当事者がのんきに現われたのである。
「うわーっ、若島津だ、若島津が出たぁ!」
 だから妖怪変化じゃないんだったら。
「こんな所で何を騒いでるんだ? ――おや、日向さん、なんであんたが…?」
「若島津っ!!」
 自分よりでかい相手に飛びかかる。
「おまえはなっ、よくも森崎と…」
「森崎と――何だってんですか?」
 若島津の声が険悪になった。
「あんた、あんな間抜けな噂を本気にしたんですか、え?」
「本気――って、ほら、こいつらが…」
 さすがに少々首をすくめて背後の集団を指さす。こっちはこっちで熱くなっていたのだ が。
「若島津、森崎をどこへやったんだ! おとといからずっと家に帰ってないって…」
 ただし家族は何も心配していない。尋ねられた父親は、『新婚だし、いいじゃないか』の 一言で片付けていたくらいだ。
「森崎が人がいいからってよぉ、たぶらかしたんだろ、オマエ」
「だ、だ、誰がたぶらかすか!!」
 石崎の命知らずな表現に、とうとう若島津は爆発した。だから普段静かな人間ほどいった ん怒らせると大変なのだ。
「いいですか、日向さん。家出したのは俺の姉貴です。俺はそれを追っかけて来ただけなん だ。それをまあ言うに事欠いて…」
 至近距離でのこの言葉はとても説得力があった。それに日向はしづ姉を知っている。その ぶっとんだ人間性も。
「そ、そうか、あの姉さんがな…。は、ははは、なーるほど」
「なーるほどじゃありません! あんた、俺を何だと思ってんですか!」
「俺のもんだと思ってるぞ」
 よくもまあぬけぬけと。
「こら、自分たちだけで盛り上がってるんじゃねえ、森崎はどうした! 早く返せよ!」
「そうだそうだ、どこへやったんだよ!」
「え…? 俺――?」
 橋を渡りかけていたところで自分の名前が耳に届いて、森崎はぼーっと寝ぼけた顔を上げ た。土手の上でずいぶんな人数が小競り合いをしているのが目に飛び込んでくる。
「わ、何してんだ、みんな! 駄目だよ、ケンカはやめろ!」
 物騒な危機一髪を味わった夢から醒めたばかりの森崎は、わざとではなかったのだが、夢 の中で使った力がその目盛りのままフルパワーで出てしまった。突然の猛烈な突風に、土手 の上の全員が巻き込まれる。
「なんだこれはぁああ!」
「わ――っ、助けてくれ!」
「……あれ、どうしたんだろう」
 本人はただ止めに走っただけのつもりだったのだが、倒れる者転ぶ者ひっくり返る者飛ば される者しがみつく者転げ落ちる者と、もう大変なありさまであった。謎の突風は一瞬だけ で消え、その後にはそこいらじゅうに散らばった被害者たち。
「あ、日向…?」
 中で一番近くに見つかったのが日向だった。頭を下に土手の斜面を滑り落ちたらしい。森 崎もそこまで滑り降りた。
「大丈夫か? ケガは…?」
「――う、畜生、なんだぁ、今のは…」
 逆さまになったまま日向はうめいた。目を開いて森崎が覗き込んでいるのを見、むせかえ る。
「も、森崎!! おめえ……!」
「どこか、痛くしたのか?」
 今回の騒ぎ、全国規模で広まっていた噂のことをもちろん森崎は知らないのであった。日 向はハーッと息を吐き出す。
「――おまえ、いい奴だな、森崎」
「えっ、な、何…!?」
 どぎまぎしている森崎に構わずガバッと起き上がる。
「でも若島津はやらんからな、絶対」
「何をバカ言ってんですか、あんたは」
 ゆっくりと降りて来た若島津は呆れたように腰に手を当てた。他の者たちもあちこちで起 き上がろうとしている。日向は恨めしそうに若島津を見上げた。
「だってよ、おめえ、姉ちゃんと似てっからよ、こいつが変な気を起こしゃしねえかって …」
「へ、変な気って、あんたね!」
 つまり日向はまだ警戒を緩めていないのである。何でもすぐ忘れるのが身上のくせに、森 崎に関してだけはしぶとい。しかしその森崎はいたって屈託がなかった。
「何言ってんだ、日向。しづさんと若島津は全然似てなんかいないよ。しづさんのほうがず っと美人だし」
 さりげなく暴言を吐いている森崎だったが、しかし若島津はこれ以上ないというほど感動 して森崎の手をがっしり握る。
「そうだ、森崎、さすがだ! 俺としづ姉は似ていない! その通りだ!!」
 思えばかわいそうな役回りだったね、健くん。そんな様子を少し離れた所で眺めていたの が岬と三杉の両君であった。
「若島津って、ガードが固いからなあ。結局あれを天然で蹴り破れるのは小次郎くらいなん だよね」
 大胆な分析は岬くんの得意技である。三杉は振り向く。
「じゃあ森崎はどうなんだい?」
「森崎くん相手には最初からガードなんてしていないもの、若島津は」
「なるほど、フリーパスか。日向が警戒するわけだね」
 草の上に腰を下ろしたまま、二人は肩を並べている。
「で、キミはトライしてみないの? 若島津のガード破り」
「いや、僕は遠慮しておくよ」
 三杉はにっこり笑い返した。
「でもどうせ難攻不落に挑戦するなら君のほうがいいな」
 岬は沈黙した。ただ顔を見合わせる。目撃していた者たちが思わず青ざめる光景であっ た。
「……冗談だよね、三杉くん」
「うん、冗談」
「――ならいいんだよ」
 土手の向こうの山の端に沈んでいく夕陽を、二人は静かに眺めていた。
 くわばらくわばら。










<< BACK | MENU | NEXT >>