5章ー2

















「ヘフナー、何があったんだ!? ――う!」
 楽屋に駆けつけて来た若林とジノは、ドアを開けた瞬間、立ちすくんでしまった。なんと そこにはヘフナーが二人分いたのである。
「なっ、何をしてるんですか、ギュンター!」
「――ああ、ジノか」
 妻の弟をギュンターは床の上から見上げた。
「いや、面白いんでな。ほら、麻酔銃で撃たれた猛獣みたいだろう」
「………」
 言葉が出ない。ぐったりと意識のないヘフナーを、両膝の上に抱えているその姿だけで十 分凶悪なのに。
「――ほんとに、麻酔なんですか?」
「らしいぞ。きっと暴れて手に負えなかったんだろう」
 お父さん、どっちに同情してるんですか。
「で、若島津の姉さんは? 連れてかれたんなら…」
「ああ、だが今、ゴーたちが追跡してる――」
 やっと気を取り直した若林である。ギュンターが、答えかけて言葉を切った。抱えたヘフ ナーがぴく、と動いたのだ。
「ヘフナー?」
 ジノがこわごわ覗き込んだ。若林のほうはとばっちりを避ける気なのか、腕を組んだまま 一歩下がる。
「……グスタフ」
 眉を寄せ、目を開く。そして次の瞬間、ヘフナーは2メートルは離れた場所に立ってい た。大きななりをしていて、どういう瞬発力をしているのだろうか。
「あ――あ、あ、あんたはなっ…!!」
「なんだ、もう気がついたのか。つまらんな」
 ヘフナーは大きく深呼吸した。さすがにまだ気分が悪いのか――あれだけ急激な目覚め方 をしたのだから当然だ――ちょっと顔をしかめる。
「なんでこんなとこに湧いて出た」
「うむ――野次馬だ」
 ギュンターもゆっくり立ち上がる。
「寝顔があんまりあどけなくて、つい見とれていたんだ」
 やめろとゆーに!――と叫ぶかわりに、ヘフナーはくるりと向きを変えて部屋を出て行こ うとした。
「まあまあまあまあ、そうムキにならないで…」
 身内として多少は責任を感じているのか、それとも単に面白がっているだけなのか、ジノ がその肩を押し戻す。
「それより詳しく教えてくれないか。彼女、いったい何があったんだ」
「――新しい共同研究者だって、やつらにバレちまったんだ。黙ってりゃ引っぱって行かれ ることもないないってのに」
 3人は話しながら足早に楽屋口へと向かう。ギュンターもその後を無表情について来てい た。
「剛さんが今、教授の車で追っかけてるそうだ」
「え、ノモリ教授、無事なのか!?」
 行方不明のはずの教授がここに現われたと知り、ヘフナーは教授がバリトン歌手の婚約者 だということを話した。若林がひゅっと口笛を吹く。
「まあ、あっちでもこっちでもめでたい話続きだな」
「俺はもう勘弁してくれ。あの嫁さん、手に負えん」
 階段を駆け上がると、もうそこは屋外である。舞台装置を出し入れするだけの間口の広さ と高さがある。
「あんな美人とずっと一緒で、役得だったじゃないか」
 ヘフナーはじろりとジノを睨み返した。
「俺は森崎の心配をしてるんだ。あいつ、人が良すぎるからな。あれじゃ苦労するぞ」
「いや、あいつなら大丈夫だろう」
「え?」
 思わぬところから保証されて3人のGKは驚く。
「幸運の鍵を握っていることに自分で気づいてないところがあいつの強みだ」
「ギュンター?」
 あっけにとられる3人は追い越して、ギュンターは一人先に外に出た。小雨はまだ降り続 いている。
「そうか。モリサキ、という名か、あいつは」
 手をかざして広場の向こうを眺める。しづさんが乗せられて行った方向だ。
「ギュンターさん!」
 若林が顔色を変えてその肩をつかまえた。
「じゃ、あの時の気配はやっぱり森崎だったんだ。あなたは森崎と一緒にいたんですね!」 「……ん?」
 ギュンターは興味なさそうに振り向いた。若林の顔を眺め、また向こうに戻す。
「今もいるぞ。シヅの車を追っかけて行ったからな」
「なん、ですって…?」
 3人が呆然と目を合わせた時、そこにヘッドライトが近づいて来た。剛が窓から手を振っ ているのが見える。
「若林くん、大変だよ! しづ姉が…!」
 停車したワゴン車の中には3人の男が押し込んであった。この先の路上で転がっていたと ころを回収してきたのだという。
「姉ちゃん、麻酔を打たれてるって…!」
「なんだって…!?」
 絶句する。
「――どう、すりゃいい…?」
 それが、大問題なのだった。















「――おい、森崎! しゃんと目を開け! 何がどうしたのか、ちゃんと言ってみろ!」
 岬に小言を言われる心配がないとは言え、ちょっと乱暴すぎる起こし方だったかもしれな い。
「時計……時計を、しづさん、時計を、早く…!」
 森崎は一瞬ぱちっと目を見開いたかと思うと、若島津の両腕に飛び込むようにしがみつい た。
「森崎…?」
「――あ」
 森崎は顔を上げるとぱぱっと周囲を見回した。それからもう一度若島津を見上げる。
「若島津…? 俺…」
「しづ姉が――おまえ、しづ姉のところにいたのか?」
 森崎の表情が見る見るこわばった。必死に歯を食いしばる。
「しづさんが、死んじゃう! 車が暴走してるのに、俺には助けられない……」
「なんだって!?」
 両手につかんだ森崎の体がガタガタと小刻みに震えていた。若島津はぐいっと引き寄せ る。
「時計が、時計がどうした! しづ姉、おまえの時計を持ってるんだな?」
 若島津はポケットに入れていたしづさんの腕時計を急いで引っぱり出した。
「ほら、しづ姉のはここにあるぞ。おまえ、もしかしてこれに共鳴して…」
「時間を――」
 ぎゅっと目を閉じ、浮かされたように森崎はつぶやいた。
「ドイツの時間に、合わせてくれ、若島津……」
「森崎?」
 若島津は一瞬あっけにとられ、それから、弾かれたように時計を握り直した。ドイツ時間 ――? 時差は、今、どれだけだっけ…? 慣れない女物の時計にあせりながらネジを回 す。
 文字盤に集中していた若島津は、周囲の空気が揺らぎ始めたことに気がつかなかった。室 内の光景がふっと白く霞んだかと思うと、次の瞬間すべてがかき消される。
「よし、これでいい……えっ?」
 顔を上げた若島津がギョッとしたのは言うまでもない。いきなり強い力がぐいっと彼を捕 らえたのだから。
「おいっ、何だ、いったい…!」
 周囲は既に何もない真っ白な空間である。はっと視線を手に戻すと、確かに持っていたは ずの時計まで消えている。
「――おい、森崎っ!」
 大声で呼んでみる。
「ここは何だ? 俺までおまえの夢に入っちまったのか?」
「――若島津!」
 森崎の声だった。声だけがすぐ近くに聞こえるのだ。
「しづさん、どうしても起きてくれない……どうしよう」
「なに?」
 声を出そうとした途端、ぐわん、と全身に強い衝撃があって今度は真っ暗な中に放り出さ れた若島津である。
「しづさん、しっかりしてください! 早く、起きて!!」
 いや、真っ暗なのではない、窓からは点々と市街の灯りらしいものが流れていくのが目に 入る。――え、窓?
「森崎っ!」
「ああ、若島津……駄目だ。どうしても俺じゃしづさんを動かせない。助けられないんだ」
 そこは車の中だった。運転席にしづ姉が眠っていて、森崎は助手席側から身を乗り出して いる。そして自分は…。どこからそれを見ているのだろう――? 自分はそこにはいない、 でもその場面は見える…という奇妙な感覚だ。そう、ちょうど夢を見ている時のように。
「森崎、時計の時間、合わせたぞ」
 声をかけると、森崎はびくっと若島津のほうを見た。しづ姉の時計はドイツ時間、森崎の 時計は日本時間――これで食い違っていた出口と入り口が繋がったことになる。
「なあ、しづ姉、本気なんだろうぜ。本気だから、おまえ、こうして引っ張られたんだ。違 うか?」
 森崎の驚いた顔がゆっくりと真剣な顔に変わった。車の行く手をにらみ、そしてしづ姉に 目を戻す。
 膝の上に力なく置かれたしづさんの右手に自分の手を重ねる。森崎ははっとした。ぼんや りとではあるが感触がある。振り向くと、若島津がまた応じた。
「だから、やってみろ」
 森崎はしづさんに向き直り、今度は決心したようにぎゅっと目を閉じた。
 ――手の感触、体の感触、そしてしづ姉の眠りの感触が徐々に森崎の中に入ってくる。息 が詰まるような重い圧迫感が森崎を包んだが、それは決して不快なものではなかった。
 自分の体の外からか中からかわからないが、しづさんの体温が染み込むように伝わってく る。森崎の緊張がふっと解けた。
「わっ…!!」
 目を開くと同時に森崎は叫んだ。車の疾走感が真正面から飛び込んでくる。ここは、運転 席…!?
 反射的にがばっとハンドルにしがみついた。その途端、右の前輪にガタンと強い衝撃があ り、激しくバウンドする。
「うわ、わわわわ…!」
 実感がある。触るもの、動くもの、何もかもに実感がある。森崎は叫びそうになった。
――そうか、しづさんの中に、入ってしまったんだ!
「森崎、ブレーキだ! 早く!」
 若島津の声が、耳に響いた。正面に、高いレンガ造りの建物がのしかかるように迫ってい る。車体がガリガリガリと鈍い音を立てた。もう、間に合わない!
 ――森崎は思いっきりブレーキを踏み込んだ。甲高い音と激しい揺れの中で車体がぐるー っと横滑りしていくのがわかった。
「……と、止まれ! 止まってくれ――!」
 衝撃が弾けた。前方からの大きな振動が一瞬の火花となって車を貫き、そのまま思いがけ ず消えた。バリバリッという音と共に前のめりに車体が浮き上がる。頭がぐらぐらして周り の様子がつかめない。
「大丈夫か――!!」
「姉ちゃんっ!」
 ぱらぱらと人影がいくつも駆け寄って来るのがぼんやりと見えた。車は植え込みに包み込 まれるようなかっこうで止まっていた。オペラハウスがライトの中に浮かび上がっているの がその枝の間から見える。窓の外に、見知った顔が次々と現われた。
「――よかった、しづさん、怪我がなくて……」
 森崎の意識がすーっと軽くなった。
「――森崎!?」
 そう呼んだのは若林の声だっただろうか。だが、森崎の夢は、再び遠く彼方へと溶けてい ったのであった。










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