5章ー1







5章










「すみません、やっぱり俺、行って来ます」
「妙な奴だな」
 ギュンターは顔も上げず、ふっと笑った。
「幽霊のくせに、出たり消えたりをいちいち断る奴がいるか」
 森崎は答えようがなくて、もじもじしている。ギュンターはちらっとそちらを見てからケ ースを閉じた。
「あれっ、ギュンター、どうしたんだ?」
 そこへ入ってきたルディが、すれ違いざまにギターケースを押しつけられて目を丸くす る。
「出かけてくる。後は頼むな」
「え、おい、待てよ! 出かけるって、まだあとワンセットあるんだぞ!」
 通常のライブと違って、こういうクラブでは一晩に同じプログラムを2回ないし3回程度 演奏して客の回転に合わせる。ギュンターのトリオはこの夜、3セットまでやることになっ ていたのだ。
「今日は早じまいだ。いい子は早く帰って寝ないとな」
「そんな無茶な! 契約違反になるぞ、どうする気だ!」
 ルディの叫びを閉めたドアの向こうに残し、ギュンターは森崎と並んで外へ出た。
「え、と、そんな、悪いですよ。俺、一人で行けますから…」
「気にするな。俺もグスタフに話しておきたいことがある」
「――あのう、俺も一緒に連れてってください」
 追いかけて来たのは勢至だ。森崎はびくっと足を止めて振り返ったが、勢至はその横を通 り抜けてギュンターに追いついた。やはり見えてはいないようだ。
「ああ、構わないが。君は運転できるか?」
 できるなんてもんじゃないですよ。もっとも平和な夜の道を、しかも過激な相棒抜きで走 るのにたいした腕は要らないが。
「どうも嫌な予感がするんです。剛のやつ、何か変に張り切ってたから…」
 ワゴン車のハンドルを切りながら勢至がつぶやいた。意欲的になればなるほどはた迷惑の 嵐を巻き起こす男を長年フォローしてきたのだ。予感にも重みがある。
「オペラハウスで、何かあったんでしょうか」
 並んで座っているギュンターを森崎は不安そうに見上げた。フランクフルトにいるはずの しづさんがこのような遠い場所に来ていて、若林と剛があわてて飛んで行った…と聞かされ ては勢至ならずとも気が気ではない。勢至には聞こえないことを前提に森崎はその不安を口 にした。
「何か、あったんだろう」
「あ、あのー」
 気休めを言って慰めるという気はまったくないらしい。
「はい?」
 勢至があわてて問い返した。「二人」の会話のうちギュンターの分しか彼には聞こえない のだ。不審に思うのは無理もない。そんな勢至には気の毒だが、こちらはこちらで会話は続 く。
「――俺、わかんないんです」
 しばらく考え込んだ後、森崎は大きなため息をついた。
「しづさんは美人だし頭もいいし、なんでわざわざ俺なんかと結婚するのか…」
「シヅ…?」
 ギュンターは怪訝そうに繰り返した。さっき聞いたばかりの名前だ。
「ゴーの姉、のか? 今、この町に来てる」
「はい」
「そうですけど」
 森崎と勢至の答えが重なる。なんてややこしい。
「あの人はとても真剣な人だから――嘘をついたりだましたりする人じゃないから、俺のこ ともきっと何か間違えてるだけなんです。きっといつかがっかりさせてしまうと思うんで す。あんな、真剣に思ってくれてるのに、それが気の毒で…」
「ふーん」
 ギュンターは髪をぐいとかき上げた。
「オマエが自分でそう思うならそうなんだろうな」
「えっ、何がですか?」
 気の毒に、勢至は会話から完全に外されている。
「だがな、それほど真剣なら信じてやるしかないんじゃないか。勘違いがいつでも不幸とは 限らないぞ」
「そ、そうでしょうか…」
「ひょっとしたら、だが」
 あくまで甘やかし過ぎないギュンター・ヘフナーである。
「まあ、がんばるんだな。不安になるってのはそいつに惚れてる証拠だ」
 ひゃー! そこまで考えていなかった森崎は真っ赤になる。ついでに勢至も赤くなる。
「な、何の話ですか、ギュンター」
 何の話だと思ったのだろう。
「おい、前を見ろ」
 今度こそ勢至に話しかけた言葉だった。が、もう少し緊迫した言い方でないといけなかっ たのだ。勢至のリアクションもその分だけ遅れてしまった。
「う、わあああああ!」
 ヘッドライトはすぐ目の前に迫っていた。ハンドルに突っ伏すようにして大きく切る。ほ とんど肩と肩が触れ合うくらいのキワドサだった。
「――し、しづさんが!!」
 悲鳴を上げたのは森崎である。窓にしがみつくようにして、すれ違った車に視線を投げ る。勢至が一瞬虚を突かれたようにきょろきょろした。
 なあに、空耳というやつだよ、勢至くん。















 敵前逃亡を企てた剛は、ロビーに出た途端いきなり係員に捕まってしまっていた。悪いこ とはできないものである。
「あなた、日本人ですよね。もしかしたらノモリ教授のお連れの方ですか?」
「えっ、い、いやだなぁ。俺は全然あの花束の女の弟とかじゃありませんよ、全然。あはは は」
 自分で自分の首を絞めている。係員はたじろいだ。
「いえ、そうではなくて…。教授はさっきお着きになったのですが、ちょっと目を離した間 にいらっしゃらなくなって…」
「一人で席に行ったんじゃないんですか」
「いいえ、確認しましたが教授のパルテレロージェにはどなたも…」
 なるほど、最愛の恋人のためにあの歌手は劇場の中でも最も派手で豪華な席を用意してい たらしい。パルテレロージェとはつまり、ステージのアーチのすぐ横、さじき席の一番ステ ージ寄りの席である。実際の話、ここからは舞台のほとんどが見えない角度なのだが、とに かく目立つのでごひいき筋の指定席にされることが多い。
「とにかく、俺、関係ないですから。じゃ、失敬」
 そそくさと劇場を出る剛であった。
「しづ姉につかまったらどうなるかわからないからなぁ。でも野森教授、行方不明とか言っ てたけど無事だったんだ」
 エントランスの階段を下りかけて剛は足を止めた。雨がぽつりぽつりと降り始めている。 「なんだ、あれ」
 思わず凝視してしまう。オペラハウス横に停めてある乗用車のトランクから、小柄な中年 女性が一人で大きな重そうな荷物を抱え出そうとしているのだ。
「ああ、すみませーん、そこの人、手を貸してくださいなー!」
「え?」
 見に覚えのあるような訛りのドイツ語だった。既に嫌な予感は全身を駆け巡っている。
「あらま、若島津剛さんじゃなくて? なんて偶然かしら」
 案の定日本語に切り替わる。剛は逃げ腰になった。ヨーロッパに来て1年ほどは時々取材 陣が訪ねて来たり、旅行者に見つかって囲まれたりということもあったが、さすがに最近は その手の騒ぎからは解放されている。と、すれば…。
「わたくし、野森です。しづさん、今度来てくれることになって、本当に嬉しいわ」
 やっぱり…。
「どうなさったんですか、これは」
「ああ、これはね、プレゼントなの。今夜ここで出演してるエデルさんに。楽屋まで運びた いんだけど、お願いしますわ」
「楽屋〜ぁ?」
 それはちょっと避けたいパタンだった。
「実はですね、姉がもうこのオペラハウスに来てまして、俺、なんてゆーか、会うのはよし たほうがいいかなー、なんて」
「まあま、心配いりませんよ、あなた。弟が二人揃って空手をほっぽり出したせいで道場を 押しつけられたなんてこと、しづさん全然恨んじゃいませんから」
 おほほほと笑って見せるこの人、やはりしづ姉の恩師と言うだけのことはあるようだ。
「それにね、卒業してすぐ来られなかったのはおうちのせいだけじゃないのよ。どうやら、 好きな人がいたらしいの」
「へ?」
 身長差のせいでどうも剛ばかりがワリを食っている運搬作業だった。その分だけ野森教授 の舌は回転が滑らかだ。
「迷ったりためらったりする子じゃないのにねぇ。きっと何か事情があったのよ」
「――そりゃまあ相手の男がまだ高校生で、しかも実の弟が恋敵(ライバル)じゃなあ」
 もしもし、剛さん剛さん…。
「え? 何かおっしゃった?」
「い、いーえ、何も」
 エントランスからではなく、楽屋口のほうに回る。このほうが近道なのだという。
「それより教授、研究室で何があったんですか? 大学じゃ大騒ぎになってるそうですよ。 部屋は荒らされてるし連絡は取れないし――その上部屋が血だらけだったとか…」
「あら、まあ…、おほほほほ」
 笑い事ではないのだが。
「見つかってしまったの? 嫌だわ。恥ずかしいから誰も中に入らないようにって言ってあ ったのに」
「恥ずかしい?」
 ドイツ人の特性にある程度慣れている剛はピンと来たらしい。
「まさか、『荒らされた』んじゃなくて、ご自分で…」
「清潔に、だとか整理整頓だとか、ドイツの人ってやかましくて…。急いでたから掃除は後 回しで来てしまったのよ」
 散らかし魔の野森教授と、何を見ても驚かないしづ姉。さぞ名コンビだったのだろう、日 本でも。
「なら、あの血は何だったんです? すごい量だったって…」
「ああ、あれはね――」
 教授が答えかけたその時、前方から突然まぶしいライトが彼らを照らし出した。車のエン ジン音が派手に轟く。
「うわっ、危ない!」
 妙にボコボコにキズだらけのグレーのBMWが二人の脇を急発進して行った。大きな荷物 を肩にしたまま、剛はかろうじて教授を壁に押し戻してよける。力持ちでよかったよかっ た。
「なんだ、あれ…!?」
 振り向いたところへ反対側からもう1台ワゴン車が突っ込んで来たのが見えた。BMWは あわてて向きを変えようとしてフェンスに接触、一方ワゴン車は鮮やかなターンでかわして 急停車した。
「剛、こんなとこで! 大丈夫か!」
 運転席から飛び出してきたのは勢至だった。
「なんて失礼な車なの。剛さん、あなたあれをこらしめてくださいな。あなた空手の有段者 でしょう」
 剛は大丈夫ではなかった。口では誰にも負けないはずが、この小柄ながらパワフルな教授 には圧倒されっぱなしなのだ。
「そんなぁ、俺、いくらなんでも車相手には技は通用しませんよ」
 と言いつつ相手の車を振り返った剛は、いきなりガクッとのけぞった。いちいちリアクシ ョンの大きい男である。
「姉ちゃんだ! しづ姉が乗ってた…!?」
「なんだって?」
 剛は急いで駆け寄ろうとするが、ブルンと身震いのようにエンジンをふかしたBMWは、 少しバックして急発進した。
 ワゴン車から降りたところで森崎もその声に目を見張った。
「え、しづさん――!?」
 こちらは不意を突かれるとすくんでしまうタイプだった。
「ど、どうしよう…」
「バカ、幽霊なら飛んでって追いかけろ!」
 ギュンターに怒鳴られ、森崎は頭を抱える。
「えーっ、そ、そんなぁ…!」
 とにかく後を追おうと一歩走り出した――つもりが、視界がビュッと背後に流れて肝をつ ぶす。あっと思うと剛のすぐ上を飛び越して行き…。
「くそっ、邪魔ばかり入りやがる…。早く行け!」
「何をするの、放しなさい! 劇場に戻るんです!」
「ちきしょう、うるさい女だ…!!」
 森崎は目を丸くした。きょろきょろっと見回す。そこは車の中だった。森崎は空いた助手 席に反対向きにちょこんと正座しているのだ。彼が向き合っている後部座席には振り袖姿の しづさんをはさんで2人の男が怒鳴り合っている。
「あ、しづさんっ――!!」
 森崎は思わず叫んだが、もちろん誰の耳にも届かない。
「どうしたんだ、クスリが効いてないじゃないか!」
 運転席の男が大きな声を出す。
「そうなんだ、あの量なら1分もたたずに昏倒しちまうはずなんだが…。くそ、こら、暴れ るなと言うのに…」
「クスリだって? おい、しづさんに何をしたんだよ!」
 森崎は顔色を変えた。運転席の男につかみかかろうとするが、これは空しく手が突き抜け ただけだった。森崎は呆然と自分の手を見下ろす。
「やめないか、こら! あのクスリが効かないなんて、どうかしてるんじゃないのか、この 女」
「なんだとっ!」
 森崎が腹を立ててもしかたがないのであった。
「よーし、縛り上げちまえ。おい、そっち押さえろ」
「無礼者!」
 出た、また無礼者攻撃である。今度は狭い空間だったため、右側の男はぐえ、とかなんと か声を上げるとすぐにがっくり崩れてしまった。
「無礼な真似は許さないと言ったでしょう。私に触れていいのは有三さんだけです!」
 うっわ〜!! 森崎はシートのこちら側にひっくり返ってしまった。なんてことをなんてこ とを人前でっ! ――あ、この人たちは日本語がわからないんだったっけ。
「きさま、何しやがる! 抵抗すると――」
 日本語からはダメージを受けなかったものの、左側の男の意識はそこできっぱりと途切れ てしまった。いかなる時も平常心、私怨は決して交えないしづさんのおっとりした表情はい ささかも動くことはなかったが、突きの威力にはやはりなにがしかのプラスアルファがある ようだ。
「おい、おまえ、やめろ! やめないか!!」
 運転席の男の声は完全にうわずっている。しづさんは走る車のドアを開けて、両側の気を 失った二人を車の外へ放り出そうとしているのだ。
「大丈夫です。無抵抗の体は怪我をしません」
 そういう問題ではないのでは…。
「うわぁ、やめろ! た、助けてくれ…!」
 ドアの閉まる音の後、今度は自分にその視線が向けられたのに気づき、目にクマの残る運 転席の男が悲鳴を上げた。が、それも次の瞬間には静かになる。
 しづさんは手を伸ばしてハンドルを押さえると、片手で前のドアを開け、気絶した男をぽ いと捨ててしまった。
「しづさん…?」
 おろおろとしながらその一部始終を見ていた森崎が、はっと覗き込んだ。しづ姉の体がふ らっと揺れたのだ。
「大丈夫ですか?」
「ちょっとお行儀が悪いけれど…」
 森崎の問いにはもちろん気づかず、しづさんは一人でつぶやいてからシートの間をするり と抜けて前の席に移ってしまった。運転席にしっかりと座り、ハンドルを握り直す。
「さあ、戻りましょう」
 ちょうど広場のロータリーにさしかかり、ゆっくりとハンドルを切る。切りながら…。
「しづさんっ! 前っ!!」
 そのままこくっと首が落ちかけたが、ぱっと目を開ける。危うく標識灯にぶつかるところ だったが、寸前に車線に戻った。
「しっかりしてください! 駄目です、眠っちゃ駄目ですよ!」
 森崎は必死に叫ぶが、しづさんの意識は急速に薄くなり始めた。男たちに注射された麻酔 薬が、今頃になって効いてきたらしい。本人に自覚はないが、実のところ薬全般の効き方が 異様に鈍い体質なのだった。
「起きてください! しづさんっ! 早く起きて、車を停めてくださいってばー!!」
 しかし森崎の声は届かない。車はまっすぐ走り続けていた。スピードは上がったままだ。 ことん、としづさんの頭が横に倒れた。ハンドルからするりと手が落ちる。
「うわー、駄目ですぅ! 起きないと、起きないと…、しづさーんっ!!」
 パニックになったその時、しづさんの着物の懐から何かが覗いているのが目に止まった。 見覚えがある。
「それ、俺の…?」
 そう、それは森崎が渡した腕時計だったのである。










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