5章
◆
「すみません、やっぱり俺、行って来ます」
「妙な奴だな」
ギュンターは顔も上げず、ふっと笑った。
「幽霊のくせに、出たり消えたりをいちいち断る奴がいるか」
森崎は答えようがなくて、もじもじしている。ギュンターはちらっとそちらを見てからケ
ースを閉じた。
「あれっ、ギュンター、どうしたんだ?」
そこへ入ってきたルディが、すれ違いざまにギターケースを押しつけられて目を丸くす
る。
「出かけてくる。後は頼むな」
「え、おい、待てよ! 出かけるって、まだあとワンセットあるんだぞ!」
通常のライブと違って、こういうクラブでは一晩に同じプログラムを2回ないし3回程度
演奏して客の回転に合わせる。ギュンターのトリオはこの夜、3セットまでやることになっ
ていたのだ。
「今日は早じまいだ。いい子は早く帰って寝ないとな」
「そんな無茶な! 契約違反になるぞ、どうする気だ!」
ルディの叫びを閉めたドアの向こうに残し、ギュンターは森崎と並んで外へ出た。
「え、と、そんな、悪いですよ。俺、一人で行けますから…」
「気にするな。俺もグスタフに話しておきたいことがある」
「――あのう、俺も一緒に連れてってください」
追いかけて来たのは勢至だ。森崎はびくっと足を止めて振り返ったが、勢至はその横を通
り抜けてギュンターに追いついた。やはり見えてはいないようだ。
「ああ、構わないが。君は運転できるか?」
できるなんてもんじゃないですよ。もっとも平和な夜の道を、しかも過激な相棒抜きで走
るのにたいした腕は要らないが。
「どうも嫌な予感がするんです。剛のやつ、何か変に張り切ってたから…」
ワゴン車のハンドルを切りながら勢至がつぶやいた。意欲的になればなるほどはた迷惑の
嵐を巻き起こす男を長年フォローしてきたのだ。予感にも重みがある。
「オペラハウスで、何かあったんでしょうか」
並んで座っているギュンターを森崎は不安そうに見上げた。フランクフルトにいるはずの
しづさんがこのような遠い場所に来ていて、若林と剛があわてて飛んで行った…と聞かされ
ては勢至ならずとも気が気ではない。勢至には聞こえないことを前提に森崎はその不安を口
にした。
「何か、あったんだろう」
「あ、あのー」
気休めを言って慰めるという気はまったくないらしい。
「はい?」
勢至があわてて問い返した。「二人」の会話のうちギュンターの分しか彼には聞こえない
のだ。不審に思うのは無理もない。そんな勢至には気の毒だが、こちらはこちらで会話は続
く。
「――俺、わかんないんです」
しばらく考え込んだ後、森崎は大きなため息をついた。
「しづさんは美人だし頭もいいし、なんでわざわざ俺なんかと結婚するのか…」
「シヅ…?」
ギュンターは怪訝そうに繰り返した。さっき聞いたばかりの名前だ。
「ゴーの姉、のか? 今、この町に来てる」
「はい」
「そうですけど」
森崎と勢至の答えが重なる。なんてややこしい。
「あの人はとても真剣な人だから――嘘をついたりだましたりする人じゃないから、俺のこ
ともきっと何か間違えてるだけなんです。きっといつかがっかりさせてしまうと思うんで
す。あんな、真剣に思ってくれてるのに、それが気の毒で…」
「ふーん」
ギュンターは髪をぐいとかき上げた。
「オマエが自分でそう思うならそうなんだろうな」
「えっ、何がですか?」
気の毒に、勢至は会話から完全に外されている。
「だがな、それほど真剣なら信じてやるしかないんじゃないか。勘違いがいつでも不幸とは
限らないぞ」
「そ、そうでしょうか…」
「ひょっとしたら、だが」
あくまで甘やかし過ぎないギュンター・ヘフナーである。
「まあ、がんばるんだな。不安になるってのはそいつに惚れてる証拠だ」
ひゃー! そこまで考えていなかった森崎は真っ赤になる。ついでに勢至も赤くなる。
「な、何の話ですか、ギュンター」
何の話だと思ったのだろう。
「おい、前を見ろ」
今度こそ勢至に話しかけた言葉だった。が、もう少し緊迫した言い方でないといけなかっ
たのだ。勢至のリアクションもその分だけ遅れてしまった。
「う、わあああああ!」
ヘッドライトはすぐ目の前に迫っていた。ハンドルに突っ伏すようにして大きく切る。ほ
とんど肩と肩が触れ合うくらいのキワドサだった。
「――し、しづさんが!!」
悲鳴を上げたのは森崎である。窓にしがみつくようにして、すれ違った車に視線を投げ
る。勢至が一瞬虚を突かれたようにきょろきょろした。
なあに、空耳というやつだよ、勢至くん。
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