夏の正餐
   − 黒い森のおとぎばなし 2 −
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 珍しく陽射しの強い日だった。フリーダはようやく小屋に着いて、大きなバッグをよ いしょと下におろした。
「デュー!」
 弟の1週間分の食料である。はっきり言って並みの量ではない。
 毎週末彼女は勤め先である町の病院から故郷の山に戻り、一人で暮らす弟の食事を作 りだめしておくのだ。
「帰ったわよ! いないの?」
 フリーダは首をかしげた。何か嫌な予感がして小屋に走り込む。中の暗さに目が慣れ るまで数秒の差があったが、耳をそばだてたフリーダはその気配を職業的カンで察知し た。
「デュー、具合が悪いの!?」
「……」
 声にならない返事が部屋の隅のベッドから上がった。
「どうしたの、いったい?」
 フリーダの弟、デューターは2メートルに達する巨体をぐったりとベッドに投げ出し ていた。駆け寄ったフリーダに気づいて顔をもたげ、やっとのことで声を出す。
「はら…へった」
 まるで砂漠の行き倒れであった。ただしここは自分の家の中である。フリーダは憤然 として弟を見下ろした。
「丸2日食べてなかったって、どういうことよ!」
「……」
 デューターは皿ごと食べてしまいそうな勢いで料理にかじりついていた。とりあえず 応急手当代わりの食事をフリーダに作ってもらったのだ。
「余裕を持って1週間分用意しておいたはずよ。まさか熊か何かにやっちゃったって言 うんじゃないでしょうね」
 ここでデューターはチラリとすまなそうな視線を姉に向けた。口に運びかけたスプー ンがふと止まる。
「そうなんだ」
「何ですって!?」
「い、いや…」
 びくっとして急いでスプーンを口に運び、デューターはもぐもぐと言い訳をした。
「熊じゃない。人間で、ええと…」
 毎週の訪問者のことを、こうしてデューターはとうとう姉に告白することになったの である。
「カールハインツ・シュナイダー? 嘘でしょ」
 フリーダだってそれが誰の名前かは知っている。ただそのブンデスリーガのスタープ レーヤーがなぜこの山で熊の真似をすることになるのか、そこがわからないのである。 「ミュンヘンからここまで何時間かかると思ってるの。どんな用事があるにしても」
 どんな用事もないみたいだ、と答えたかったがデューターは言えなかった。彼にもシ ュナイダーのことはよく理解できないのだ。熊のほうがまだましだった。
「ただ来てぶらぶらして食事だけして帰るですって? こんな何もない山の中にわざわ ざ…? 変ねえ」
 ともあれ余分に小麦粉を仕入れて来たのを幸い、フリーダは謎の客人の分も見越して パンをどっさり焼くことになったのだった。







「なあ、シュナイダー、あんまり周りに心配かけるもんじゃないぜ」
 まさに開口一番、カルツはしみじみと言ったものである。
 明日対戦するチームのエースプレーヤーにご親切に忠告してやるなんぞそうできるも のではないな、と自嘲しながら。
「何が…?」
 語尾に「…」をつける話し方は相変わらずの元同僚をカルツは無表情に眺め直した。 こういう場合考えられるのは3つだ。
 1・自覚していない
 2・しらばっくれている
 3・何も考えていない
 そしてシュナイダーはすべての場合においてまず例外なく(3)が該当するのだ。
 シュナイダーが生まれ故郷のハンブルクを出てバイエルンに移籍した時には、同僚の 若林と共に「かわいい子には旅をさせろ」の心境で送り出したものだったが、この分で はその甲斐もなかったのだろうか。
「マーガスの奴、自分の責任みたいに頭抱えてるぜ。あの赤毛が白髪になっちまったら かわいそうだろが」
 かつてジュニアユース代表でチームメイトだったブレーメン出身のマーガスはこのと ころ長距離電話だけを心の支えにしている節があった。そこまで律儀に悩んでやるほど のもんじゃないんだが…と思いつつも、シュナイダーの奇行についての電話相談に時々 付き合っているカルツである。
『うん、毎週なんだ』
 つい先日、マーガスは打ち明けた。
『週に一度の休みなのに、あいつ欠かさず飛んでくんだ。何時間も列車を乗り継いで』 『気が合うってんならそれでいいんじゃないのか?』
 来シーズンからプロ入りが決まっているデューター・ミューラーの住む山がその行き 先だと聞いた時、カルツにさしたる驚きはなかった。変わり者同士気が合うというのは よくあることだ。カルツは楽観主義者でもあった。
『シュヴァルツヴァルトはいいとこだぜよ。森林浴は健康にもいいしな』
 マーガスの肩の荷を少しでも減らしてやろうとそう答えたのではあったが、カルツは そのことを少し反省し始めていた。
 そう、シュナイダーは確かに「変」だったのだ。
「カルツ…」
 コーヒーをかき混ぜながらシュナイダーは無表情にカルツを見た。いきなりの質問で あった。
「結婚って、どうすればできるんだ?」
 コーヒーハウスの一角で大きな音が響いた。
 テーブルの下にずり落ちてしまったヘルマン・カルツ。お気の毒さまであった。








 かつてドイツ語に「春」という単語は存在しなかった。長く厳しい冬が終われば生命 と光にあふれた世界が再生される。そのすべてが「夏」であった。雪に覆われていた下 から新しい緑が芽ぐんだ時、人々はその喜びの季節をすべてまとめて「夏」と呼んだ。 そしてここシュヴァルツヴァルトでは今その夏真っ盛りであった。
「あ…」
 シュナイダーが手を止めて足元を見た。
「小鳥…」
「……」
 デューターも見る。そして手にしていたパンの一片をそのまま小さく砕いて草の上に 撒いてやる。これくらいならフリーダ姉に叱られることもないだろう。また新しい3羽 ほどがパンくずの上に舞い降りてきた。
 ちらりと見やるとシュナイダーはスプーンを持ったまま熱心にヒワを見つめていた。 何度教えてやっても鳥の名前を覚えようとしない。シュナイダーにとってはすべてが 「小鳥」であり、それ以上の興味はないようだった。そのくせこうして鳥や動物を間近 にすると、まるで初めて見るかのように夢中になり、我を忘れて見入るのだ。
「ああ…」
「…ん」
 促されてシュナイダーは食事に戻った。フリーダの得意なシチューであった。たくさ んあるので今週は気をもまずにすみそうだ。デューターは目を上げて向かいのシュナイ ダーを眺めた。
 今度こそシュナイダーに「理由」を尋ねようとデューターは思っているのだ。なのに どうもうまく会話が成立してくれない。デューター自身にももちろんその責任の一端が あったのだが。
「……」
 シュナイダーは無言で食べ続けていた。夏の陽射しがその明るい金髪の上で反射して いる。デューターはふと1年前の夏を思い出した。彼が初めて山を下り、ドイツ代表と してチームに加わった時のことを。
 写真でしか見たことのなかった若き皇帝。それがいきなり自分と同じ空間を共有し、 その有無を言わせない圧倒的なエネルギーで場に力を与えそして切り裂いた、その鮮烈 なまでのショックは今なお彼の中にある。
 「痛みに似ている」――デューターは時々そう思う。あの国際大会の後、複数のプロ チームから声を掛けられた彼は当惑もし、決心は二度三度揺れ動いた。それが結局来シ ーズンからの契約にまで繋がったのは、こうして――理由はまだわからないが――彼の 日常に強引に、それでいてごく自然に入り込んできたシュナイダーのせいかもしれなか った。
「ミューラー……」
 突然目の前に皿が突き出され、デューターの思考の中のシュナイダーは一転ただの食 欲魔に姿を変えた。
「ああ」
 受け取って小屋に入り、大なべからシチューのお代わりを入れる。また外のテーブル に戻ってくると、シュナイダーはぼんやり木のこずえを見上げていた。
「シュナイダー」
 呼びかけて皿を置く。シュナイダーはゆっくりと視線を皿に戻し、しばらく動かなか った。
「――来週は来られない…」
「…?」
 腰を下ろしかけたデューターも一瞬きょとんとする。
「監督に言われた。来週は休みがない…」
 それはそうだろう。来週はいよいよシーズンの決着をつける首位決戦だ。バイエルン もV奪回を懸けて緊迫感が高まっているはずである。そのチームの主力選手がのんきに 森林浴などしていられるわけがない。
 デューターは自分のスプーンを取り上げた。
「俺もあとひと月でここを出る。チームに合流するようにって…」
 ガチャン!と大きな音がした。デューターの言葉は途中で切れる。シュナイダーがス プーンを皿に落としたのだ。目を大きく見開いてデューターを凝視している。追い詰め られた動物の目だ、と彼は何の脈絡もなくそう思った。
「ここを、出るのか…?」
 そう勧めたのはそもそも君じゃなかったか?
「じゃ、この家は…」
「空き家になるな。姉ちゃんももう来る必要がなくなるし」
「嘘だ!!」
 ものすごい剣幕であった。シュナイダーもこんなに激することがあるのか、と思うほ どだった。
「嘘だ! そんな…、駄目だ!」
 駄目と言われても困るのだ。胃袋で恋をする男、カールハインツ・シュナイダー。そ の熱心な山詣での謎は深まるばかりであった。