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Fスタジオには異様な空気が流れていた。
いつもとはまったく種類の違う緊張感――浮き足立ったような、テンションの高い緊張感
が、出演者たちにもスタッフにもじわじわとにじむのが見て取れる。もっとも収録に何らか
の支障が出るような類いのものではなく、逆にその緊張のあまり収録がいつもより一時間近
くも早く終わってしまったくらいだった。
エンディングコールがかかり、リアーライトが落ちる。わずかな間隔をおいて、調整室か
らディレクターの声がかかった。
「はい、OKです! お疲れさまでした!」
トーク&クイズのバラエティ番組「ジャスト・サタデイ」、収録終了である。スタジオに
ざわめきが戻る瞬間だ。が、この日ばかりは違っていた。
「――ねえ、あそこよ。ほら」
セットの席についたままで、着物姿のベテラン女優が隣の席の音楽評論家に囁く。この業
界に長い彼らでさえ、目の色が違っていた。彼らばかりではない。この場の誰もが、息を詰
めてその人物に視線を集中させていたのだ。そしてその全員の緊張感を一身に受けた形で、
局プロデューサーの下羽田がゆっくりと調整室からスタジオへと降りて来た。
長身の人物が、手を差し出してその下羽田を待ち受け、握手した。が、こちら側からは表
情が隠れて見えない。
「やっぱり下羽田さんの関係で来てたんだ。昔、映画の仕事で知り合ったって話だったが」
「す、すごい――」
レポーター役だった若手お笑いコンビが、マネージャーにそう耳打ちされて目を丸くして
いる。
「初めて見るよ、俺。噂には聞いたことあんだけど」
「日本にはたまにしか帰らないんだろ」
「あの下羽田さんがカチコチじゃん。すげぇ…」
誰もなかなかスタジオを離れない。タレントたちもスタッフも、セットの中でフリーズ状
態だった。
ADが一人、ケーブルを片付けようとセットにそーっと入って来たが、そんな周囲の雰囲
気に遠慮してか物音を立てないように動いている。その彼の腕をつかんで声を掛けたのが、
MCの一人、フリーアナウンサーの真島かおりである。
「どうしたの、まさか彼、今からここで何か始めるの?」
「は?」
「彼よ、ほら――若島津さんでしょ」
真島は目でちらりとスタジオの奥を指して見せた。下羽田プロデューサーと若島津は、何
やらしきりに話し込んでいる様子だ。もっとも話しているのはもっぱら下羽田ばかりのよう
だったが。
「ハリウッドの企画を何か持ち込むらしいって、私、聞いてるわよ。その関係?」
「さ、さあ…。僕はよくわかんないですけど。セットを片付けろって言われただけで」
「なあんだ」
ちょっと肩を落としかけたものの、真島はすぐに気を取り直して問題の人物を振り返っ
た。
「――そうだ、ぼーっとしてる場合じゃないわ」
真島の目がきらりと光ったように見えた。
「メイクさーん、ちょっとお願い!」
「おやおや」
まわりのタレントたちを押しのけるようにして楽屋に走って行った真島を見送って、もう
一人のMCである局アナの草津克己が一人苦笑した。
「彼女もそりゃ必死になりますよ。映画出演なんかを昔から狙ってましたからね」
フロアディレクターがカメラを移動させながらにやにやと声を掛けてきた。草津が振り返
る。
「だとしたって、いきなりハリウッドは無理だよ。まさかあの歳でシンデレラガールもない
だろ」
「そうは言ってもね。チャンスをつかもうって必死になってる女優は多いですよ」
「日本人で、そのぅ、抜擢されたって例、あるんですか、あの人の映画に」
この日のゲストとして出ていたアイドルタレントの相馬将人が二人の話におずおずと割り
込んだ。場の緊張感に当てられたのか、事情がわからないまま不安そうな顔になっている。
「あるよ。それも男でね。こっちじゃあまり知られてない話だけど、関西のお笑い系から、
なんかアクション映画に声がかかった若手が一人いたらしい」
「へええ…」
相馬の顔がこころなしか紅潮した。
「どうしたの、相馬くん」
その隣にぴょこんと顔を出したのは同じ事務所の後輩にあたる、おおみね咲だった。デビ
ューしてまだ1年にならない新人タレントであるが、この春から一応この番組のレギュラー
として初々しくも頼りないレポーターを務めている。
「あそこに来てる人だよ映画プロデューサーの若島津さん。ハリウッドでは日本人初だって
んですごい話題になってるだろ」
「えー、知らないな。でもスタイルいーい。日本人?」
「だからぁ、日本人だって言ってるだろ。すごいんだから。去年アカデミー賞のドキュメン
タリー部門でオスカー取ったんだ」
「ふーん…」
わかったのかわかっていないのか、首をひねっている。その周囲の緊張感とはまったく別
次元にいるのんきな発言に冷汗をかきつつ、咲のマネージャーは周囲をきょろきょろと窺っ
ていた。新人としては、大物先輩たちの機嫌を損ねるようなことは絶対に避けなければなら
ない。
「あ、おい、咲ちゃん!」
が、そんなマネージャーの配慮をまったく考えず、おおみね咲はすたすたと一人セットを
出て行く。相馬があわてて止めようとしたが遅かったようだ。
「あちゃー、サイン頼んでるよ、あいつ…」
「まあ、あの子紹介もされてないのに図々しいんじゃない、ちょっと」
さっそく周囲から上がるブーイングにマネージャーは青くなったが、言い訳をしようとし
た時にはその他の女性陣、いや、男連中も含めて我も我もとその後に続いてしまった。サイ
ンならぬ、握手会に移行していたようだが。
「ほら、いいでしょ」
咲はそんな人垣からいち早く抜け出して来て、意気揚々とサインを見せびらかした。
「おまえはなあ…」
「で、どうだった? 何か話したかい?」
呆れるマネージャーと興味津々の草津アナを前に、咲はしかしけろりとしたものだった。
「ううん、何も。おとなしい感じの人ね。ほとんどしゃべらないの。それとも日本語わから
ないのかな」
「咲ちゃん――」
草津はがくっと肩を落とした。年齢のギャップもさることながら、この空洞状態の感性に
はもはや脱力するしかない。
「あの人はね、すごい人なんだ。ほんとにほんとにすごい人なんだよ…」
アナウンサーとも思えぬ空虚な表現に思わず陥ってしまう草津であった。が、騒ぎがひと
段落ついたところで彼も自分なりのアピールに乗り出した。
他の出演者たちが楽屋に引き上げ始めた頃合を見て、まずは下羽田プロデューサーに歩み
寄る。
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