「絶対、絶対バレない変装って」
電話の向こうの翼の声が軽い笑いに揺れた。
「そんなの、ある?」
「…まあ、やってみねえとな」
日向の返答も、おそらくいつになく明るかった。
ダンスステップのように
変装などしてもしなくても、バレる時はバレるのだった。
これはもう避けることのできない運命とあきらめるしかなく、日本でも海外でもそれ
ほどに彼らは有名人でしかない。
以前なら何の問題もなくできていたようなこと、つまり、普通に街に出て普通に歩く
だけのことさえも、少々不自由することが増えてきてしまった。
しかし、その一方であっさり見過ごされることも少なくなく、そうなると結論は、
「絶対なんて、ない」
日向がそう口にする前に翼が先回りして言った言葉の通りなのだ。
「それにチャレンジするわけ? 珍しい〜」
日向のほうがそんなに積極的になるとは、翼の期待はいやがうえにも高まる。
「俺もがんばらないとね。負けないよ?」
「ああ。じゃあ、後でな」
待ち合わせの時間までまだ数時間ある。移動の分を差し引いても、仕掛けにはたっぷ
りと余裕がありそうだった。
電話を切ると日向は一人ニヤリとし、その場から消えた。
さて、今夜の空気は―。
歩を進めながらさりげなく周囲に目をやる。
賑やかで華やかで、そして何よりも雑然としたエネルギーに満ちた駅前の喧騒が彼の
目の前に広がっていた。まだやや時間が早いせいか、人出はおそらくこれからがピーク
となるだろう。
目的の場所の手前で、街頭の仕掛け時計を見上げる。
約束の時間は少々過ぎてしまっていた。が、これくらいは許容範囲だろうと日向はゆ
っくりと人波を分けて進んでいく。
「あ、失礼」
すれ違いざまに肩が触れて、自分より頭一つ低い男性がよろめいたのを見て日向は丁
寧に頭を下げた。
「ああ、いや大丈夫だ。どうも」
ちらりとこちらを見上げた30代くらいの男は女性連れだった。日向の態度に釣られ
てか同じように丁寧に会釈するとそのまま去って行く。
すぐ間近に顔を合わせたにもかかわらず男が、そして連れの女性が特に反応しなかっ
たことに日向は気を良くする。
さらに、自分とほぼ同じ歩調で同じ方向に向かう人の動きも、これと言った乱れはな
く、これまた問題はなさそうだった。
待ち合わせ場所が近づくと、日向はその長身で人垣の上から少し伸び上がるように見
渡した。きっともう来ているはずだ。時間をきっちりと守るのはいつも翼のほうだった
から。
「よう」
背後から声を掛けると、翼は弾かれたように振り返った。
「待たせたな…」
「あ」
翼は目をまん丸にし、日向を見上げる。一瞬だけ間があったが、すぐに嬉しそうな笑
顔が弾けた。
エクステで一部分だけ高くポニーテールに結んだルーズカーリーの髪を肩に流した女
子高生が夏の制服のミニも勇ましく、仁王立ちになっている。ケータイを握り締める指
先にはキラキラしたネイルまで施されていた。
「――おまえ、それ…犯罪にならないのか?」
「人のこと、言えなくない?」
さっそく並んで歩き出しながら翼は口を尖らせたが、日向を見つめる表情は輝いてい
て、ちょっと頬が上気しているようにさえ見える。
「俺は、年齢も性別も偽ってねえぞ」
明るいグレーのスーツは細身に仕立てられ、長身がさらに際立っているその服装に加
えて、髪は自前のままオールバックにされてチタンフレームの眼鏡を掛けたその顔はエ
リート然としていつもの野性味など完全に消え去っている。
「何のつもり、それ」
「わからねえか、普通に、サラリーマンだ」
「普通なのが変装だなんて、さすがは日向くん」
お互いに健闘を讃え合っているが、さっき日向が言ったのとは別の意味でこの2人は
犯罪になりかけていた。
どちらも気づいていないようだが、1人で待っていた翼にそれとなく注目していた周
囲のいくつかの視線が、日向の登場でさらに動揺を見せたのだ。
「じゃ、メシでも行くか?」
「よーし、おごってもらおうっと!」
日向の腕にしがみついて翼が声を上げると、その人ごみの中でも視線がちらちらと集
まる。
「調子良すぎるぞ。おまえのほうが稼いでるだろうが」
「いいからいいから。誘ったほうが払うもんだよ」
ちょっとハスキーな声に小気味のいい男言葉が、なんちゃって女子高生に余計なリア
ルさを加えてしまっている。
「それ、短すぎだろ」
「大丈夫」
翼はミニの裾をちらりと指でつまんで見せた。
「下にはいてるんだ、練習用のユニフォーム」
これこれ。そういう問題では。
中身が見えたわけでもないのに、すれ違いながらふらりと足元を乱したお兄さんたち
おじさんたちが数人いたような。
「バレてないからいいけどな、逆にチームの連中なんかには見せるなよ」
一般人にはよくても、翼だとわかって見られるのは許せないらしい。
「へへ」
独占欲が逆に嬉しいのか、少しかがんで耳元でそう囁いた日向の声に、翼は首をすく
めて笑う。
「日向くんこそ、あまりその格好でうろつかないほうがいいよ。危険だから」
「どういう意味だ、そりゃ」
「さあね?」
翼は逆にぐいぐいと日向を引っ張って手近なゲーセンに入って行った。
「このカッコだと思い切り遊べると思わない?」
「まあ好きにしろ」
同じ歳のはずなのだが、この組み合わせではおそらく信じてはもらえないだろう。ま
ずは証拠に残さないとという翼の提案でプリクラを撮り、続いてゲーム機に順にトライ
していく。
「あ、コイン足りなくなった。両替してくるね」
レーシングゲームの座席に日向を残して翼は壁際の両替機に駆けて行った。
「おいおい、さっそくかよ」
振り返った日向は苦笑する。おそらく最初から目をつけていたのかもしれない少年達
が2、3人翼の前に立ちはだかってなにやら話しかけている。翼は両替をすませると簡
単に手を振って振り切ろうとしたようだが、逆に相手の人数が倍くらいに増えてしまっ
た。決して小柄ではない翼がその人垣に囲まれて見えなくなるに及んで、日向はゆっく
りと立ち上がった。
「連れなんて気にしなくていいからさ、行こうぜ、もっと面白いトコ。俺達のほうがこ
のへんは詳しいんだ」
「あ…!」
困った顔をしていた翼がぱっと顔を輝かせた。少年達をかき分けて、近づいてきた日
向に駆け寄る。
「…え、カレシってこれ?」
はい、ただのサラリーマンです。自称だが。
「さ、あまり時間を無駄にできないからな、続きをとっとと済まそうぜ」
「うん、今度こそオレが勝つからね!」
「?」
少年達は2人の会話にぽかんとする。
「何しゃべってんの、こいつら。日本語じゃねえじゃん!」
「あ、待てって」
しぶとく翼に手を伸ばそうとした1人が、去り際にちらっと振り返った眼鏡越しの眼
光に固まる。それを見て、日向は黙ったまま薄く笑ってまた背を向けた。
「こ、こわかった…。なんだ、あいつら」
見た目の通りのただのサラリーマンと女子高生ならいくらでも手は出せたはずだっ
た。しかし…。
「あー、面白かったね」
「満足したか、やっと」
相変わらず周囲の好奇の目やなぜか恐怖の色を浮かべる顔などには見向きもせず、遊
ぶだけ遊んだ二人連れはゲーセンを楽しげに出て行った。
「それにしても女子高生ってけっこうスリルある生活してんだねえ、知らなかったよ」
「そいつはおまえだからだ、女子高生に失礼だぞ」
スカートをひらひらさせながら歩道を行く翼は、その自覚のなさが何よりも問題だと
思われた。まあ、その点は実は日向も大差なかったのだが。
「…あれ?」
翼のケータイが鳴る。画面の発信者名を確認して翼は目を見開いた。
『無用心すぎるよ、翼くん』
「岬くん!」
その名を聞いて隣の日向も納得した。この衣装のスタイリストが誰なのか、予想通り
だったのだ。
『せっかく絶対にバレない変装にしたんだからもっと大人しくしてないと』
「どこ? 近くに来てるの?」
さらに、日向の携帯にも着信があった。
『呆れたね、君達がいくら会話をスペイン語とイタリア語で通していても、限度っても
のがあるんだよ』
こちらも厳しいチェックである。
『一般人の中に大人しく埋没していられないようなら、制限時間は切り上げてこちらか
ら迎えに行くよ、いいのかい?』
「それには及ばねえ」
日向はあっさりとその申し出を断る。彼の衣装の提供者は制限時間まで設定していた
らしいが。
「まだまだ楽しまねえとな。メシも食って、それから…」
『それから、何する気っ!?』
隣の通話に岬が反応したので翼は驚いて日向を振り返った。
「そりゃまあ、いろいろとな」
『そういうことなら、ますます勝手にさせるわけにはいかないね』
『いい、翼くん、そこ動かないでいるんだよ!』
「え、えっ?」
ぐいっと引っ張られて、翼は急いで通話を切った。日向はとっくに携帯を切って早足
に歩き始めている。
「やつらの邪魔が入るのは予想してたさ。行くぞ」
「うん!」
耳慣れない言葉での会話に不思議そうに振り返る通行人には構わず、勢いよく進んで
いく。
「夫婦だけでやってる小じんまりしたメシ屋があるんだ。その後はどこかデカイ居酒屋
あたりに紛れ込んで飲むのもいいな。それから…」
「いろいろとだろ?」
大きな通りから路地に入り複雑な裏道に潜り込むようにどんどん進んで行く。
「そう、いろいろとな」
2人で顔を見合わせて笑いながらその姿はやがてどこへともなく消えていた。
「んー、もう!」
「やられてしまったようだね、まんまと」
あせりよりも疲労が勝った声で、言葉が交わされる。
「このへんにこんなに詳しいなんて、聞いてないよ」
あのニセエリートサラリーマン!
「と言うより、まんまと彼のホームグラウンドにおびき寄せられていたらしい。迂闊だ
ったよ」
「めったに使わない悪知恵をこういう時だけ発揮するんだから…」
「まったくだ」
大きなため息、そして沈黙。
夜の繁華街はますます賑わいを増し、そんな彼らの前を多くの足が行き交う。
楽しげな話し声、少々乱暴なやりとりまでも、きらめく夜の照明と混じり合う音楽のよ
うに彼らの頭上で渦巻いている。
ネオンの点滅が斜めに差すビルの壁を背に、路上にそのまま座り込んでいる2つの人
影があった。
1人はラスタカラーの帽子をドレッドヘアーに深くかぶせたレゲエなラスタマン。が
っくりとうなだれて歩道を見つめている。
その隣に同じく座り込んでいるのはヒップホップスタイルのラッパー風のお兄さん
だ。こちらはキャップをかぶった頭を背後の壁にもたれさせて、同じく脱力した表情を
空に向けていた。
「だいたいさ、君があんな変装させたのがいけないんだ」
「心外だな。君こそあれはやり過ぎだと思うよ、絶対」
それぞれにそれぞれの依頼者に密かに頼まれて手伝ったために2人の変装の組み合わ
せがどうなるかを知らなかったのが失敗の始まりだったかもしれない。
「しかも、あの悪目立ちで自分達は全然気にしてないんだから、あきれるよ」
「相乗効果というわけだね。せめてどちらかに自制心があればなんとかなったかもしれ
ないが」
そんなもの、あるわけがない。
認めたくないが、2人はそれぞれ心の中でそう突っ込んだ。
「さて、どうする、岬くん」
「こうなったらどうしようもないと思うけど?」
じろりと目だけで三杉を睨んだものの、自分の言葉に自分でがっくりする岬だった。
「あの2人が消えてった方向、ホテル街のエリアだよ? 見つけられっこない
ってば」
「そうだね…」
三杉も力なく同意するとようやく壁から起き上がった。
「こうなったら僕たちも吹っ切るとしようか」
「はあ?」
ぱっと顔を上げた岬に、三杉は笑顔を返した。切れるところまで切れてむしろ清々し
い顔になっているような。
「な、何を吹っ切るって?」
「僕たちは僕たちで楽しもうってことだよ。さあ、行こう」
「あのねーっ、吹っ切り過ぎだって、三杉くん!」
実はこちらも念のために会話はフランス語と英語で行なっているので周囲の通行人も
この2人の正体には気づいていない。
ダンスステップを踏むように。
東京の繁華街に消えた謎の2人組はこうしてもう一組。
【 END 】
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