夏の風は湖から吹いてくる。人造湖ではあるが、大都会の真ん中に広がるその 静かな異空間は、文字通り爽やかな空気の供給源となっていた。
 日本のあの殺人的な暑さから遠ざかってもう何年が経っただろうか。その風を ユニフォームに受けながら、若林は珍しくそんなことを考えていた。
 緯度の高いハンブルクのこと、練習が終わる時間となっても夕暮れという言葉 とは無縁である。太陽はどこかに低く隠れてはいるが、空の明るさは真昼と変わ らない。
「おいおい、だからってなあ…」
 コーチの合図からものの数分もたたないうちにチームメイト達はめいめいに姿 を消してしまっていた。心はもう一足先に市内のビアホールに飛んで行ってい て、体を急いでそこへ追い付かせようというわけなのだ。
 若林もいつもならその中に混じっているのだが、今日はコーチに一人呼び止め られたせいでまんまと後れをとってしまった。そうして彼に残されたのは、空の ボールケージである。
「ちぇっ」
 文句を言う相手もいないのでボール集めをしぶしぶ始める。グラブをジャージ の尻ポケットに突っ込んでおいて、まずはゴール付近から1個1個拾い始めた若 林であった。
 幸いフィールドの向こう半分については先に片づけが終わっていたのでケージ が一杯になるのにそう時間はかからず、若林はほっと息をつけたのだったが、今 度はその不安定なケージをクラブハウスまで押して行くのが一苦労だった。こぼ れそうになるボールの山を押さえようとしたのだが、その手をくぐるようにして 1個が脇にころころと転がって行ってしまった。
「そら、来いって」
 手を離せない体勢で若林はちょっと迷ったようだったが、そのまま片手を伸ば してボールを指差す。
 芝の上のボールが、その瞬間ゆらりと揺れた。
 5メートルほど先から、ゆっくりと若林に向かって転がって来る。見えない足 に軽く蹴られたかのように。
「よしよし」
 足元まで来たボールを今度は本物の足で蹴り上げて、若林は片手に受け止め る。そうしてそれをケージに戻そうとしたその時、背後から大きな声が彼の名を 呼んだ。
「ゲンゾー !! 」
 誰もいないと思っていた若林はぎくりと振り向く。
 クラブハウスの入口のフェンスの前に、金髪の少女が立っていた。
「――や、やあ、マリー」
 若林はあわてて笑顔を作り手を振ったが、シュナイダーの妹、マリーは、しか しこちらをまっすぐ睨みつけたまま動かない。
「えーと…?」
 どうもいつもと調子が違うその態度に若林は必死に頭を巡らせた。何か機嫌を 損ねるような真似をしたのだろうか。ゆっくりとケージを押し続けながら、もう 一度横目で表情を窺う若林であった。
 シュナイダーがこのハンブルガーSVに在籍していた頃から顔パスが効くマリ ーであるが、練習の場にまで現われることはあまりない。彼女曰く、よほどの用 事がない限り…ということだが、その「よほどの用事」というのは大抵、オフの はずの日曜まで自主トレをしたがる若林の邪魔をすること、であった。どうやら それが自分の使命だと固く信じているらしいマリーは、渋る若林をそのたびに強 引に町へ連れ出すのが常だったが、今回はどうにも雰囲気がガラリと違ってい る。
「……」
 若林がようやく用具庫のシャッターを閉めてクラブハウス前まで走って来た時 も、待ち受けていたその表情は険しいままだった。
「どういうことなの、ゲンゾー」
「えっ?」
 いきなり問いを突き付けられて若林は面食らった。マリーは明らかに腹を立て ている。二人の間にあるフェンスのネットをおそらく無意識にだろうが強く握り 締めて、指先が白くなっているのが見えていた。
「どうして私に話してくれなかったの、もっと前に。私はね――」
 怒りを押し殺したようなマリーの低い声は、しかし途中で遮られてしまった。
「おーっ、いたいた! ワカバヤシ!」
 今度は甲高い多数の声が押し寄せる。二人が顔を上げると、クラブハウスから カメラやマイクを手にした一団が駆け寄ってくるところだった。マリーは反射的 にネットから離れ、その騒ぎからいちはやく逃れる。二重の不意打ちに反応の遅 れた若林だけが、そのまま渦に飲み込まれた。
「移籍、やっぱり決まりなんですね!」
「交渉は既にまとまっているそうじゃないですか」
「ハンブルクのフロントと衝突があったというのは事実ですか?」
 地元の新聞、スポーツ誌、さらにはテレビ局までが大集合していた。若林は顔 をしかめ、視線だけでマリーを探す。
「だからー、どういうことって何がなんだよ」
 と、聞こうとしたのに、ここで話を打ち切られてはたまらない。若林は詰め寄 る記者達の頭越しにマリーに合図を送ろうとしたが、マリーはますます不機嫌な 顔のままこちらに視線を返し、そして背を向けて歩み去ってしまった。
「もー、だから先週も言ったでしょう。打診は確かにありましたけど、こっちは 一切その気はないんです。交渉どころか正式なオファーだってどこからももらっ てないんですから」
「でもねえ、こっちも有力な情報が入って来てるんですよ。両方の話を合わせな いと信じられませんからね」
 顔見知りの記者が小さく付け加えた。ハンブルクのローカル情報誌のスポーツ 担当者である。
「有力な…?」
「おたくの上層部のほうから、ですよ」
「まさか」
 ひとしきり質疑応答――というほど秩序だったものではなかったが――が続い た後、ようやく若林は解放された。
「ちくしょー、あいつら…」
 さんざんもみくちゃにしていった報道関係者のことではなく、練習後に彼を一 人見捨てていった同僚達に対して悪態をつきながら、若林はゆっくりとクラブハ ウスに入る。着替える前に受付に寄ってみたのだが、やはりマリーは帰ってしま ったことを教えられただけだった。
 がらんとしたロッカールームの真ん中で棒立ちになり、若林は誰かがそのまま にしていったらしいボールにふと目をとめた。
「あれ、待てよ…」
 ちょうどマリーが現われた時に自分がやっていたことにやっと思い至った若林 であった。
「まさか、俺の『アレ』、気付かれちまったとか――じゃないよなあ」
 しかし、それを確認しようにも、手遅れなのだった。











 




 翌朝の新聞はさすがに気になった。
「やあ、賑やかなもんだな」
 いつも新聞を買う近くの路地のスタンドの親父が、若林の顔を見上げてにやり と笑った。新聞と釣りを受け取りながら若林も苦笑を返す。
「スポーツをやってるのはマスコミのほうじゃないのかい」
「まったく」
 会話はそれだけで終わる。世間のことはここに座っている方がよほどよくわか る、というのが口癖の親父さんだけに、今度の騒ぎがまさに空騒ぎでしかないこ となどとっくにわかっている、という顔だった。
 日本語では運動競技だけを意味する「スポーツ」だが、本来はもっと広く娯楽 活動全般を含む言葉である。肉や毛皮を採る獲物を得るための狩りと違って、王 侯貴族などが行なっていた娯楽としての狩りはまさにそのスポーツの一つなの だ。多くの猟犬を連れて馬を駆り、角笛など吹き鳴らしながら野山を抜けて獲物 を追っていくその様子を親父さんは連想したのだろう。とすれば自分はキツネか ウサギか。若林は歩きながらため息をつく。
 シーズンオフのたびにこの手の話題がマスコミを賑わすのは年中行事のような ものだが、自分がそれに巻き込まれるとなると話は違ってくる。若林自身まった く初めてというわけでもなかったのだが、今年はいつもに輪をかけてひどい。
「監督が代わる、ってのが大きいんだ、まったく」
 長くこのハンブルガーSVの監督を務めてきたヴォルフ・シュッツ氏が健康上 の理由から辞意を表明して以来、その後の監督人事はもちろん、一新されるであ ろうサポートスタッフ陣からそして選手に至るまで、ここぞとばかりに取り沙汰 されているのだ。
 だが噂は新たな噂を呼ぶ。ごくたまには現実さえも。
 若林の移籍先として大きく取り上げられているチームは、非公式に条件を提示 してきてはいたものの、それ以上の具体的な接触はない。しかしその報道をきっ かけに他のチームが動き出して来て、若林の移籍をめぐる噂は妙に現実味を帯び てきてしまったのだ。
 ハンブルガー側は当然いい顔をしない。こじれる、というほどではないが、 2、3小さな火種がくすぶっているのも事実だ。
「厄介ってのは加速度つくもんだな」
 などと考えてしまう若林だったが、その頭を占めているのはその移籍騒ぎのほ うではなく、昨日のマリーのことだった。何しろ心当たりがない。恨まれるよう なことも後ろめたいようなこともないはずだ、と若林は考える。そう、唯一の隠 し事である「力」のことを除いては。
 とはいえ一人であれこれ考え込むたちでない若林は、直接確かめようとマリー のいる寄宿学校に向かうことにした。クラブへ行くのとは路線が逆方向になる が、もちろんそんなことは構っていられない。
 Sバーンに乗り込んで窓からぼんやりと通りを眺めていると、ふと看板が目に とまった。歩道沿いに立っている大きな広告看板だ。保険会社か銀行かそんなと ころだったが、問題はそれではなく、看板に描かれた電話のほうだった。受話器 がなぜかコードでぶらんと宙吊りになっている写真だったが、それを目にしたと たん、若林の脳裏に強烈なイメージが閃いたのだ。
「すいません、降ります!」
 目的の駅の一つ手前だったが、若林は急いで車両から降りた。不吉な予感が視 界一杯に押し寄せてくる。ぐるりと見渡して、そしてその焦点がぴたりと止まっ た。
 交差点の一角に立つ公衆電話ブース。
 頭上の信号が赤から青に変わった。
 動き出す車の列。そこへ甲高いクラクションが狂ったように響いて、急ブレー キの摩擦音が重なった。
 若林の目にはその瞬間がまるでスローモーションのように光に包まれた。
 コントロールを失って横から滑り込んで来た大きなトレーラーのシルエット。 悲鳴と怒号が湧き上がる中、若林ははっと立ちすくんだ。ちょうど彼の正面、ゆ るい下り坂になっている通りの先に小さくマリーの姿が目に入る。学校の仲間数 人と一緒にこの場に来合わせたのか。驚きに緊張した青白い顔が若林にも見え た。
「だめだ! 来るなーっ!」
 が、次の一瞬にその姿は轟音の向こうにかき消される。
 トレーラーが道路標識のポールをなぎ倒して角の建物に激しくぶつかり、今度 は車道側に跳ね返るようにその大きな車体を横倒しにした。
「くそっ!」
 若林は交差点に走り込みながら、すべてのパワーを振り絞って意識を集中し た。横断中の通行人たちが逃げようとする上へ倒れてきたトレーラーが、ぐいっ と方向を転じる。交差点の真ん中へと横滑りして、そのままゆるゆると動きを止 めた。へし折られた街路樹はやはりゆっくりと向きを変え、建物の壁に静かに支 えられた。
 歩道に乗り上げた乗用車、路上にへたり込む何人か。半分に折り畳まれたよう に押し潰された自転車も転がっている。
 若林は大きく息をついた。さすがに力を一気に解放するのは消耗も大きい。
 怪我人を助け起こしにかかる人々が目の前を駆け回り、パトカーのサイレンが 飛び交う中、しかし若林は気を取り直すと、ややおぼつかない足取りでゆっくり と歩を踏み出した。
 少女たちが真っ青な顔で抱き合っているその場所へ。
「マリーは…?」
 若林の声に、一人が震えながら顔を振り向けた。
「いないの、見当たらないの、マリーだけ――」
「確かに、一緒にいたのに…。私、隣にいたのに、気がついたら…」
 すすり泣く声が高くなる。見る限り彼女たちに怪我はないようだが、ショック のほうが大きかったのだろう。
 若林は周囲を見渡した。こちら側はトレーラーの直撃は受けていない。建物も ちょうどシャッターの下りた倉庫か何かになっていて、そこらに逃げ込んだとも 考えられない。若林は向きを変えるとまた交差点の中央に出た。
「マリー! どこだぁ! 返事しろよー!」
 救急隊員によって、トレーラーの運転席からドライバーが救出されようとして いる。怪我人が乗せられた救急車も確認するが、開いた後部ドアから見えたのは 座って応急処置を受けている中年男性一人だけでマリーの姿はない。
「――あ」
 どこかでかすかに電話の呼び出しベルが響いた気がして若林は向き直った。一 番最初に見えたあの電話ブースが、その銀色のフレームごとぐしゃぐしゃになっ た姿でそれでも同じ場所に立っている。若林がぎょっとしたのは、だらりと宙吊 りになっている受話器の、その見覚えのある姿だった。
 若林は視線をそのまま離さずにゆっくりと歩み寄った。呼び出しベルは、間違 いなくその電話から響いているのだ。無残にへし曲がった一本足のポールには破 壊された電話機が内部を半分むき出しにしたままかろうじて残っている状態だっ た。この状態で機能しているはずはなかった。若林が側に立つと、呼び出し音は 安心したようにぱたりと止む。
 若林は用心深く手を伸ばして、受話器を耳に当てた。
「――もしもし?」
『ワカバヤシか』
 低いゆっくりとした声が聞こえてきた。
『珍しいな、おまえが電話とは』
「ヘフナー !? 」
 若林は思わず声を上げてしまった。思考が混乱する。
「なんでおまえ…。それに、この電話、繋がってるぞ!」
『みたいだな』
 ヘフナーは笑っているらしかった。もっともその表情が動いていないのは間違 いないところだが。
『自分でかけておいて、何だ、驚いたりして』
「待てよ、かけたのはおまえのほうじゃないのか。俺は電話が鳴ったから…」
 若林は改めて握っていた受話器を見つめ直した。本来使えるわけのない電話で ある。通じた相手が同じテレパシー能力のあるヘフナーとはいえ、これはテレパ シーではない。声が聞こえているのだから。
『それより一体どうしたんだ。こっちは仕事中だってのに』
「仕事…?」
 若林はその言葉に一瞬引っかかったが、それよりも今の状況のほうが先だっ た。
「今こっちで大きい交通事故があって、マリーが巻き込まれたんだ。いや、たぶ んそうじゃないかと思うんだが」
『何を言ってるんだ。マリーが何だって?』
 消えてしまった。事故現場で行方不明。説明しようとして若林は混乱する。
「わからないんだ。俺は止めようとしたのに、マリーだけが――」
『ワカバヤシ? 大丈夫か、おまえ…』
 受話器がゆっくりと手から滑り落ちる。ヘフナーの声がそのまま遠くなってい った。






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