「あれ…、病院?」
 意識が薄れたのは一瞬だったと思ったのだが、若林が目を開けると、そこは全 然別の所だった。自分は診察台の上に寝かされている。診療器具や薬品棚に囲ま れた白い室内は、どう見ても病院だった。
 と、カチャカチャという金属音が耳に届く。首をそちらに向けると、カーテン の向こうのシンクで器具を洗っているらしい大きな男の背中が見えた。白衣を着 てはいるが、その体型は見間違えようがない。
「…ヘフナー?」
「ワカバヤシ、おまえよほど力を全開にしちまったんだな」
 洗う手は止めないまま、ヘフナーは答えた。
「いつもなら手加減するくせに、おまえがパニックになるなんて、らしくない」
「大きなお世話だ」
 若林は思わず苦笑する。確かにヘフナーに介抱されるというのはらしくないと 言うべきだろう。
「――ひどい事故だったんだ」
「だろうな、その様子じゃ」
 また仰向けに天井を見上げて、若林はその事故を最初から思い出そうと記憶を たどった。歩いていたマリー。トレーラーの陰に隠れて、その後はわからない。 暴走に巻き込まれてしまったのか、それとも別の事態が起きたのか。
「そら」
「うわ!」
 いきなり冷たいタオルを顔に掛けられて若林は一気に現実に戻った。手で払い のけながら抗議しようとして、そして目を丸くする。
「もう大丈夫か?」
 真上から無表情に覗き込んでいる顔は、ヘフナーはヘフナーでも…。
「ギュンター !? 」
 急に跳ね起きたので、相手も後ろにのけぞらせてしまった。その顔が見る見る 不愉快そうになる。
「失敬な」
「え――」
 診察台の上に起き上がった格好で、若林は唖然とした。
 目の前に立っている白衣の医者。どう見てもギュンター・ヘフナーの顔をした この男…。
「ヘフナー、どうしたんだ! おまえ、年とって!」
「あのな…」
 顔はともかく口調はいつもと同じのまま、ヘフナーは呆れたように目を細め た。
「俺はいつも通りだ。おまえが若返ったんじゃないか」
「う、そ――」
 相手の鼻先に指を突き付けたまま、今度こそ固まってしまった若林であった。








「いきなりそこにごろりと転がってたんだからな。しかもそんな姿で。人に見ら れてたら大変だぞ」
「――で、今何年なんだ」
「199×年」
 ヘフナーは自分の椅子に座って無愛想に答える。
「うえ、世紀末」
「10年分飛び越えてきたのか、まったく非常識な奴め」
 無表情のゆえでなく、本当に驚いていないのかもしれない。非常識はお互いさ ま、と言うのが正しいのだろう。
「電話でもなんか声がガキだな、とは思ったんだ」
「ああ、あの電話」
 若林は頭を抱える。
「あの時点で十分変だったんだ。繋がるはずがない電話だったのに、俺がつい出 ちまったから…」
「つい、じゃないとしたら?」
「えっ?」
 ヘフナーは手にしたボールペンをくるりと1回転させると顔を上げた若林にそ れを突き出した。
「まず最初に広告を見てインスピレーションがあったんだろうが。事故をじゃな くてマリーに何か起こるっていう予知だったかもしれん」
「マリーに…」
 若林は前日のことを思い出す。何かひどく機嫌を損ねた様子だったマリー。そ の理由さえまだわからないのに。
「力を使ってるところを見られた? マリーは何か言ったのか?」
「いや、実際見られたかどうかも確認できなかったんだ。ただ、昨日の今日でま た俺が力を使うのを見て、それでますます怒っちまったんだったら…?」
「それはどうかな。1回やそこら見たくらいでそういう力を信じられる奴はいな いと思うが」
 でもマリー・シュナイダーですから。
 二人はそれぞれにそう思ったらしく、わずかな沈黙が流れてしまった。
「電話がカギだ、ってことか?」
「可能性は高い」
「でも、なんでなんだ。なんで10年後に繋がる」
「それもおまえが必要としたからだ、たぶんな」
 ヘフナーは大人の余裕でにやりとした。
「10年前の俺じゃなく、今の俺に助けを求めたってことなんだろう」
「どういう意味だ、ヘフナー」
 若林が身を乗り出した時、部屋の外から声がした。
「ヘフナー先生、そろそろお願いします。ハーゲンベックから迎えが着きまし た」
「わかった、下りるよ」
 ヘフナーは看護婦に返事をすると立ち上がった。側の棚から大きなカバンを下 ろし、デスクの上の手帳とファイルを入れ始める。
「悪いな、ワカバヤシ。仕事中だと言っただろう。これから出張オペなんでな」
「待てよ、ヘフナー。俺はどうなる。それにマリーのことだって…」
「マリーは大丈夫だ。現に今もぴんぴんしてる。俺はその事故のことは知らなか ったが、少なくともその10年前に致命的なことは何も起きていないってことだ」
「――そういう問題か?」
 大股で出て行くヘフナーを追って若林も廊下に飛び出した。通りかかった看護 婦が怪訝な顔でそんな二人を振り返っている。
「いいんだよ。おまえが心配するのはわかるが結果はもう出てるんだ。とっとと 帰れ」
「結果って――くそ、未来人ぶりやがって」
 若林は舌打ちしてから足を早めた。ヘフナーに追いついてその前に立ちはだか り、そして突然目を見開く。
「ちょっと待て、さっきハーゲンベックって言ってなかったか。じゃあここはハ ンブルクなのか?」
「そうだが」
 ヘフナーは落ち着いて若林を見下ろし、そしてまた歩き始める。ちなみにハー ゲンベックとはハンブルクにある世界でも有数の動物園である。
「おまえ、いつハンブルクに来たんだ。それにここ――こんなデカい病院で、や っぱり獣医になっちまったんだな。サッカーはどうした。結局やめたままになっ てるのか?」
「質問だらけだな」
 ヘフナーは口の端で薄く笑った。若林は余計にカチンと来たようだ。
「好奇心で言ってるんじゃないぞ、俺は。この事態を何とかしないと、帰れった って帰れるもんか」
「自分のことは気にならないのか。自分の未来だぞ。何が起きて今どうなってる か」
「う――」
 若林は一瞬不意を突かれたらしく息を止めた。が、すぐに気を取り直す。ヘフ ナーのはぐらかしには昔から慣れていると言わんばかりに。
「だから俺が知りたいのは何で10年後のおまえに助けを求めることになったの か、ってことなんだ。おまえ、理由がわかってんだろう」
「さあ」
 ヘフナーはとぼけたままエレベーターに乗り込んだ。もちろん若林も後を追 う。
「おい、ヘフナー!」
 年長の医者に向かって偉そうに怒鳴りつけている若者を周囲が変な目で見送っ ている中、二人は玄関ロビーまで来た。正面に停まっているのはハーゲンベック 動物園の文字が入ったワゴン車だ。ヘフナーは後部ドアから自分のカバンを押し 込んだ。
「あのな、ワカバヤシ。おまえが俺に助けを求めたのはこれが2回目なんだ。1 回目の時、おまえはこれきりだと約束した。俺からその約束を破るわけにはいか んだろう。こっちの時間のおまえのためにもな」
「……」
 若林は黙り込んだ。車のエンジンがかかる。ヘフナーは助手席の窓を開いて顔 を出した。
「一つだけ教えてやろう。俺の今の名前はさっきおまえが間違えて呼んだ名前 だ。本名に戻しただけだがな」
「待てって、マリーはどこに行ったんだ、それだけ教えろ!」
「俺は知らん。本当だ。おまえが自分で探すしかないな」
「ヘフナー!」
 ワゴン車はそのまま発車した。動物総合病院の前に若林を残したまま。
「どなたですか、今の」
 動物園の職員がギアを入れながらヘフナーを見た。
「古い知り合いだ。いや、ライバルってとこか」
 ヘフナーはにんまりと笑ってシートに深くもたれる。
「女を口説くのにライバルに許可を求めに来るような間抜けな奴をライバルと言 えるならだが」
「はあ…」
 どうも話が見えないらしく、ドライバーは話題を変えた。
「そう言えば来週の往診はお休みだって聞きましたけど、何かあるんですか、先 生」
「結婚式に招かれててね。ちょっとした旅行だな。何かあったら代わりを頼んで おくから心配ない」
 愛想のないのだけは、いつでもどこでも変わらないヘフナーであった。
















「なんて奴だ、10年経っても…」
 走り去るワゴン車を、若林は憮然として見送った。
「第一、どうやってここに来たかわからんのに、帰り方がわかるわけないだろ」
 手掛かりは他にないのだ。ヘフナーが意味ありげにほのめかしていたものが何 なのか、それを知る以外に何ができるというのか。
 取り残された若林は不機嫌な顔でロビーに戻り、ソファーにどっしりと腰を下 ろした。
 朝の動物病院はそれでもなかなか賑やかに人が行き交っている。もちろん付き 添われているペットたちも一緒に。
「そうか、これって未来だったな」
 そう気づいた若林はそれなりの興味を持って周りを見回した。
 人々の服装はそう大きな変化はなさそうだ。もっともファッションにもともと 興味のない若林の感想は当てにならないが。
「あ? なんだ、あの地図は…」
 受付の奥の壁にあるポスターにドイツの地図が描かれていた。若林は首をひね る。デザイン化してあるにしても、形が変だったのだ。
「まさか――まさかと思うけど」
 東ドイツが、西ドイツと一緒に塗られている…ように見える。しかも、首都を 示す赤丸が右上のほうへずれていないだろうか。若林は隣のソファーで受付の順 番待ちをしている人におそるおそる質問してみた。
「ええ、首都はベルリンよ」
 膝にテリアを抱いたオバさんは呆れたように若林の顔を見返したが、外国人と 見てしかたないと思ったらしく肩をすくめただけだった。
「そのぉ、そこに書いてあるユーロっていうのは、何でしょうか」
「EUの統一通貨じゃないの。今年から流通することになったんだけど、もうま だしばらくは併用ね」
「うーん」
 ドイツが統一されていたとは。さらにヨーロッパも統合されつつあるらしい。 若林はつかの間感動に浸った。未来というのは予測がつかないからこそ未来なの だ、きっと。
「ヘフナーも、なあ」
 あいつがあんなふうな大人になるんだな…という感慨は実は半分しかなかっ た。そっくり瓜二つな、しかも名前まで同じ父親が常に15年先のモデルを見せて くれているとなると、ヘフナーには同情せざるを得ない。職業が違うだけまだま しかもしれないが。
 しかしのんきに感動に浸っている余裕はなかった。息を大きく吐き出してから 立ち上がる。エレベーターで上がって、「G・ヘフナー」の札のある部屋の前に 立つと、ちょうどさっきの看護婦さんが通りかかった。
「中で待っていらしたら? 先生、お帰りはお昼になると思いますけど」
「はあ…」
 ただ待つのはごめんだ。そう言いたかったがしかたない。ドアの代わりのカー テンをくぐる。と、中からいきなり電話のベルが聞こえてきた。
「あら、いやだ、まただわ。あの電話」
「何ですか?」
 看護婦さんは眉をひそめた。
「かかってきてもいないのに呼び出し音だけ鳴るんですよ。今朝も鳴ってたし。 修理に出そうと思って業者に連絡はしたんですけど。なんだか昔の電話みたいな 変な音でしょう、あれ」
 看護婦さんは肩をすくめると廊下を歩いて行ってしまう。
 若林は部屋に入って電話に近づいた。ヘフナーのデスクの上に置かれた電話 が、不規則に弱々しく鳴り続けている。昔の電話のような――それは若林の時代 の電話の音だ。
「まさか――」
 今朝の電話というのは自分と話したあの時なのか。若林は迷い、そして電話を 取った。
「もしもし?」
 回線の向こうに、何か響く音がある。いや、声だ。
『――私、怒ってるんだから』
 途切れ途切れに聞こえてきたのは間違いなくマリーの声だった。
『こんなのって、許せないわ!』
「マリーだな? 今どこにいるんだ。無事なのか?」
 若林は受話器をぎゅっと握り締めた。が、応答はない。マリーの声が淡々と続 くばかりだ。
『追いかけるばかりなんて、もううんざり。いいわ、そのうち私を追いかけさせ てみせるんだから』
「マリー! 聞こえないのか、俺だよ! 返事してくれ!」
『助けなんていらないもん。私は自分でやれるんだから。ここからだって出てみ せる』
 出る? 若林はその言葉にびくっと反応した。
「どこにいるかだけでも答えてくれ! 一体どこなんだ、そこは!」
 ヘフナーとは話せたのに、肝心の時には通じない。マリーの言葉は誰かに向け てのものではなく、独り言なのだろう。声はただ一方的に流れ続けていた。
 若林は受話器をまじまじと見つめ直し、それからまた耳に押し当てた。こちら からの言葉が届かないなら、せめてマリーの言葉から何か探ることだ。
『ゲンゾーのバカ! 大嫌い!』
 と思ったらいきなり罵られてしまった。若林は口をパクパクさせるしかない。  『後回しとか、もののついでとか、そんなに信用できないわけ、私が。子供だ と思って馬鹿にしてるのかしら…。なーんにも打ち明けてくれないんだから』
「うーん、そういうわけじゃないんだが」
 こっちも独り言になってしまった。
 マリーが何に対して怒っているかがよく飲み込めないが、自分がその原因だと いうことだけは納得する。自分ではなんとも思っていなかったことが知らず相手 を傷つけるというのは、なるほど確かにあるかもしれない。
「俺がこんな『力』を持ってるのが嫌なんじゃなくて、それをきちんと話してお かなかったのが悪いってことか」
 どちらかと言えば我慢することの多い子供時代を送ってきたに違いないマリー は、側で見ていても何かと気丈に振る舞おうとするところがある。兄のシュナイ ダーにも似たことが言えるのだが、それはおそらく他人に向けてのプライドでは なく、自分自身を常に緊張させるプライドなのだろうと若林は思っている。それ は自身を高める糧にはなるはずだが、一方でたまには緩めては…という気にもさ せる。余計な気を使わせたくないとか、心配の種を増やしたくない、という考え に流れるのはそのせいもあるのだ。
「子供扱いしてる気はないんだ、ほんとだって」
 しかしこればかりは直接謝らないとどうしようもない。
「でも助けてほしくないと言われても、今どうなってるんだかせめてわからない と、どうしようもないな」
『――そうよね』
 まるで聞こえていたかのようなタイミングでマリーがぽつんとつぶやいたの で、若林ははっと耳を澄ます。
『カールも、父さんもそうなんだもの、ゲンゾーだって同じなのよね』
「え、何が…?」
『つまり今さら自己反省しても無理だってことさ』
 突然割り込んできた声に、若林は目を丸くした。そう、この電話ではない。頭 の中に、直接…。
「ヘフナーか !? なんだおまえ、一体!」
『まだそんなとこにぐずぐずしてるようだから出てきてやったんだ。いいか、マ リーはおまえを呼んでるんだ、ああやってな。だから早く帰れって言ったのに』
「なら最初からそう説明しろよ」
 若林は一人でぶつぶつと文句を言った。
「ついでに呪文も教えろ。元に戻れる呪文を」
『それはおまえじゃないとわからんさ』
 ヘフナーの声は笑いを含んでいた。どうもこの10年後のヘフナーは今に輪をか けて気に入らん、と若林は心の中で再確認する。変に余裕がある分、いまいまし いことこの上ない。
『その電話はこれでお役御免だ。もうすぐ修理屋が着くしな。急げよ、ワカバヤ シ』
「ちっ」
 気配は消えた。マリーの声ももう聞こえない。
 なら、あとはやってみるまでだ。
 若林はもう一度受話器を握り締めると、それを耳に当てたまま目を閉じた。
 闇の音。そんな底無しの奥行きが伝わってくる。
 マリー。
 1回だけ、そうゆっくりと呼んだ。







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