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「なんて奴だ、10年経っても…」
走り去るワゴン車を、若林は憮然として見送った。
「第一、どうやってここに来たかわからんのに、帰り方がわかるわけないだろ」
手掛かりは他にないのだ。ヘフナーが意味ありげにほのめかしていたものが何
なのか、それを知る以外に何ができるというのか。
取り残された若林は不機嫌な顔でロビーに戻り、ソファーにどっしりと腰を下
ろした。
朝の動物病院はそれでもなかなか賑やかに人が行き交っている。もちろん付き
添われているペットたちも一緒に。
「そうか、これって未来だったな」
そう気づいた若林はそれなりの興味を持って周りを見回した。
人々の服装はそう大きな変化はなさそうだ。もっともファッションにもともと
興味のない若林の感想は当てにならないが。
「あ? なんだ、あの地図は…」
受付の奥の壁にあるポスターにドイツの地図が描かれていた。若林は首をひね
る。デザイン化してあるにしても、形が変だったのだ。
「まさか――まさかと思うけど」
東ドイツが、西ドイツと一緒に塗られている…ように見える。しかも、首都を
示す赤丸が右上のほうへずれていないだろうか。若林は隣のソファーで受付の順
番待ちをしている人におそるおそる質問してみた。
「ええ、首都はベルリンよ」
膝にテリアを抱いたオバさんは呆れたように若林の顔を見返したが、外国人と
見てしかたないと思ったらしく肩をすくめただけだった。
「そのぉ、そこに書いてあるユーロっていうのは、何でしょうか」
「EUの統一通貨じゃないの。今年から流通することになったんだけど、もうま
だしばらくは併用ね」
「うーん」
ドイツが統一されていたとは。さらにヨーロッパも統合されつつあるらしい。
若林はつかの間感動に浸った。未来というのは予測がつかないからこそ未来なの
だ、きっと。
「ヘフナーも、なあ」
あいつがあんなふうな大人になるんだな…という感慨は実は半分しかなかっ
た。そっくり瓜二つな、しかも名前まで同じ父親が常に15年先のモデルを見せて
くれているとなると、ヘフナーには同情せざるを得ない。職業が違うだけまだま
しかもしれないが。
しかしのんきに感動に浸っている余裕はなかった。息を大きく吐き出してから
立ち上がる。エレベーターで上がって、「G・ヘフナー」の札のある部屋の前に
立つと、ちょうどさっきの看護婦さんが通りかかった。
「中で待っていらしたら? 先生、お帰りはお昼になると思いますけど」
「はあ…」
ただ待つのはごめんだ。そう言いたかったがしかたない。ドアの代わりのカー
テンをくぐる。と、中からいきなり電話のベルが聞こえてきた。
「あら、いやだ、まただわ。あの電話」
「何ですか?」
看護婦さんは眉をひそめた。
「かかってきてもいないのに呼び出し音だけ鳴るんですよ。今朝も鳴ってたし。
修理に出そうと思って業者に連絡はしたんですけど。なんだか昔の電話みたいな
変な音でしょう、あれ」
看護婦さんは肩をすくめると廊下を歩いて行ってしまう。
若林は部屋に入って電話に近づいた。ヘフナーのデスクの上に置かれた電話
が、不規則に弱々しく鳴り続けている。昔の電話のような――それは若林の時代
の電話の音だ。
「まさか――」
今朝の電話というのは自分と話したあの時なのか。若林は迷い、そして電話を
取った。
「もしもし?」
回線の向こうに、何か響く音がある。いや、声だ。
『――私、怒ってるんだから』
途切れ途切れに聞こえてきたのは間違いなくマリーの声だった。
『こんなのって、許せないわ!』
「マリーだな? 今どこにいるんだ。無事なのか?」
若林は受話器をぎゅっと握り締めた。が、応答はない。マリーの声が淡々と続
くばかりだ。
『追いかけるばかりなんて、もううんざり。いいわ、そのうち私を追いかけさせ
てみせるんだから』
「マリー! 聞こえないのか、俺だよ! 返事してくれ!」
『助けなんていらないもん。私は自分でやれるんだから。ここからだって出てみ
せる』
出る? 若林はその言葉にびくっと反応した。
「どこにいるかだけでも答えてくれ! 一体どこなんだ、そこは!」
ヘフナーとは話せたのに、肝心の時には通じない。マリーの言葉は誰かに向け
てのものではなく、独り言なのだろう。声はただ一方的に流れ続けていた。
若林は受話器をまじまじと見つめ直し、それからまた耳に押し当てた。こちら
からの言葉が届かないなら、せめてマリーの言葉から何か探ることだ。
『ゲンゾーのバカ! 大嫌い!』
と思ったらいきなり罵られてしまった。若林は口をパクパクさせるしかない。
『後回しとか、もののついでとか、そんなに信用できないわけ、私が。子供だ
と思って馬鹿にしてるのかしら…。なーんにも打ち明けてくれないんだから』
「うーん、そういうわけじゃないんだが」
こっちも独り言になってしまった。
マリーが何に対して怒っているかがよく飲み込めないが、自分がその原因だと
いうことだけは納得する。自分ではなんとも思っていなかったことが知らず相手
を傷つけるというのは、なるほど確かにあるかもしれない。
「俺がこんな『力』を持ってるのが嫌なんじゃなくて、それをきちんと話してお
かなかったのが悪いってことか」
どちらかと言えば我慢することの多い子供時代を送ってきたに違いないマリー
は、側で見ていても何かと気丈に振る舞おうとするところがある。兄のシュナイ
ダーにも似たことが言えるのだが、それはおそらく他人に向けてのプライドでは
なく、自分自身を常に緊張させるプライドなのだろうと若林は思っている。それ
は自身を高める糧にはなるはずだが、一方でたまには緩めては…という気にもさ
せる。余計な気を使わせたくないとか、心配の種を増やしたくない、という考え
に流れるのはそのせいもあるのだ。
「子供扱いしてる気はないんだ、ほんとだって」
しかしこればかりは直接謝らないとどうしようもない。
「でも助けてほしくないと言われても、今どうなってるんだかせめてわからない
と、どうしようもないな」
『――そうよね』
まるで聞こえていたかのようなタイミングでマリーがぽつんとつぶやいたの
で、若林ははっと耳を澄ます。
『カールも、父さんもそうなんだもの、ゲンゾーだって同じなのよね』
「え、何が…?」
『つまり今さら自己反省しても無理だってことさ』
突然割り込んできた声に、若林は目を丸くした。そう、この電話ではない。頭
の中に、直接…。
「ヘフナーか !? なんだおまえ、一体!」
『まだそんなとこにぐずぐずしてるようだから出てきてやったんだ。いいか、マ
リーはおまえを呼んでるんだ、ああやってな。だから早く帰れって言ったのに』
「なら最初からそう説明しろよ」
若林は一人でぶつぶつと文句を言った。
「ついでに呪文も教えろ。元に戻れる呪文を」
『それはおまえじゃないとわからんさ』
ヘフナーの声は笑いを含んでいた。どうもこの10年後のヘフナーは今に輪をか
けて気に入らん、と若林は心の中で再確認する。変に余裕がある分、いまいまし
いことこの上ない。
『その電話はこれでお役御免だ。もうすぐ修理屋が着くしな。急げよ、ワカバヤ
シ』
「ちっ」
気配は消えた。マリーの声ももう聞こえない。
なら、あとはやってみるまでだ。
若林はもう一度受話器を握り締めると、それを耳に当てたまま目を閉じた。
闇の音。そんな底無しの奥行きが伝わってくる。
マリー。
1回だけ、そうゆっくりと呼んだ。
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