Scene 4 ___







 司令官は耳を疑った。
「何だと? もう一度落ち着いて報告しろ!」
「はっ、はい、申し上げます。女が一人、我々の部隊の進路を妨害しております。 現在応戦中です!」
「女が一人ィ !?  何だそいつは。武装ゲリラか!」
「いえ…、それがどうも民間人のようであります。幼児を一人連れております」
 面食らいながら司令官は壁の地図に目をやった。その一帯は道路も集落もな い地域であった。いや、村が一つあったのだが、ここの基地に近く、ゲリラ軍に拠 点として利用される危険があったため2日前に攻撃を加えて壊滅させたはずだ。
「民間人の、武装もしとらん女一人に『応戦』とはどういうことだ。ちゃんとわかる ように説明せんか!」
 前もって受けていた報告では、部隊はカルタヘナ渓谷の南にあたる高原地帯 を東進し、間もなくこの第一指令本部に達するところである。どう考えても民間人 に行き合うはずのない状況であった。武装していないと言ってはいるが鵜呑み にするわけにはいかない。司令官はふと嫌な予感にとらわれた。








「困ったわねえ」
 さて、奥様は本格的に困っていた。昨日トラックをヒッチハイクしてやってきた街 道は確かにこちらの方角だったのだが。
「これじゃ通れないわ」
 現状把握に少々問題があるようだった。幼い「孫」を連れた彼女の前に重々し く立ち塞がっているのは戦車の小隊である。しかも既に十発近い砲弾が彼女た ちに向けて発射されたはずであった。
 レースのハンカチを口に当ててコホコホ、と咳をする。進もうとしたそこは片側 が険しい岩山、もう片方が枯れかけた小さな川、という場所だった。だがそれを 戦車隊はあくまで阻もうとしているのだ。砲弾によって砕かれてしまった岩肌が 赤い地の色をあらわにして生々しい。
「怒らせるつもりじゃなかったのに…」
 そう、彼女はただ道を尋ねようとしただけだったのだ。しかしその相手が政府軍 の戦車であったのがこの騒動の元となった。走行中にいきなりごつん、と岩の直 撃を受けた乗員は驚きこそすれ別に怒ったわけではない。まして砲塔のハッチを 開いてその乱暴なノックの主と顔を合わせた一人目の兵士が不幸にも車外に転 げ落ちたのもやはり不運な偶然であったのだし。
「な、何者だ、きさまっ !? 」
「あの、日本に帰る道なのですけれど…」
 言葉の壁もスレ違いの要因の一つだっただろう。この異国の女性に悪意だけ はひとかけらもないという点が伝わっていない以上、その行為の結果だけが問 題にされて「軍に危害を加えようとしている人物」と見なされてもやむをえなかっ たのだ。
「あずきちゃん、大丈夫?」
 岩の破片が足元でごろごろする中、あずきは相変わらずの無感動な態度のま ま立っていた。母上に尋ねられてくいっと顔だけを上げるが、特に返事をする必 要性は感じていないらしい。かわりに手を上げて指をさした。日の沈む方角、つま り二人が向かおうとしている方である。母上はそちらを振り向いて、そしてあっと 声を上げた。
「まあ、幸さんだわ!」
 両手をぱちぱちと合わせて心底嬉しそうな顔になる。やはり事態の深刻さが飲 み込めていない様子だ。しかしそれを言うなら新たに現われたこちらの女性も同 類項である。
「幸さぁーん! こっちよー!」
 隊列の端にいた数台の砲塔が揃ってぐるりと自分に向けられるのは無視し、母 上の声に向かって手を軽く振り返す。片手に抱えているのは小紋の風呂敷包み のようだ。
「あら…!」
 が、次の瞬間、幸さんの姿はもうもうと上がる土煙に隠された。風呂敷の中身 が対戦車砲だとでも思ったのだろうか。
「幸さーん!」 
 土煙がおさまった後には派手にえぐられた地面が見えるばかりで、人影はな かった。母上はゆったりとあたりを見渡した後、かがんであずきに対する。
「あずきちゃん、しばらくここにいてくれない? 私が戻るまで、ここでじっとしてる の。いいわね?」
 言い置いて母上は岩の斜面を斜めに降り始める。振り返るとあずきと目が合っ た。それを合図のようにててててと駆け寄って来る。
「駄目よ、あずきちゃん。きっと戻るから、ここにいてね」
 自分と、さっきいた岩の窪地とを順に指さすと、あずきは足を止め、じっと見返し た。今度はわかったようである。
「いい子ね、待っててちょうだいね!」
 が、その「しばらく」の間に事態はいよいよ最悪段階に近づいて行くのであっ た。
「だ、駄目だ、自走砲がまたやられたっ!」
「どうなってるんだ、やつらは…」
 奇妙な服装をした二人の女性は、この機甲部隊にとってまさに動く悪夢となっ た。攻撃し、追走しているはずが、逆にこちらのダメージばかりがどんどん大きく なるのだ。既に1台の戦車が放棄され、自走砲が2台動けなくなっていた。接近 戦では戦車隊は分が悪い。下手に砲撃すると味方を撃ち抜きかねないのだ。
「ええい、いっそ踏み潰してしまえ!」
 ノミを潰すように行くならここまで苛立つことはない。第一、相手の位置がほと んど把握できない状態では文字通り右往左往するばかりで決め手すらないでは ないか。
「本部は…、司令官は何と…?」
 無線のあちらとこちらで、苦しい沈黙が流れた。







「あらっ?」
 母上は顔を上げる。周りにいた他の戦車が地響きを立てて後退を始めていた。
「幸さんはどこかしら。さっきちらっとスレ違ったような気がしたんだけど」
 が、やはり幸さんの姿はなかった。母上は次に岩山を振り返り、目を見開く。
「あら、大変! あずきちゃんが…」
 迷彩服の兵士が2、3人、岩山を駆け上ろうとしているのだ。母上はパラソルを 肩に乗せたまま背伸びをした。斜面の途中、ちょうど窪みになっている所にあず きの姿がぽつんと見える。
「迎えに行かなくちゃ…」
 岩棚に最初によじ登った男があずきに飛びかかった。あずきはいつもの無表 情な顔で男が来るのを見ていたが、その瞬間ひょいと後ろに飛びのく。
「さあ、おとなしくこっちに来い!」
 あずきは確かにおとなしかった。だが彼らの言葉に従う気だけはなかったよう だ。続いて両側から迫ってきた兵士たちをちらっと見上げ、その手が掛かる寸前 にまたさっとすり抜ける。足場の悪い岩の上で、その素早さは信じがたいほどだ った。大人たちのほうは文字通り四苦八苦してその後を追う。
 あずきもその身軽さなら兵士たちをほっぽって逃げてしまうのは簡単だろうと思 うのだが、最初に隠れていた地点から遠くなりすぎない範囲でぐるぐるとかわし 続ける。
「待てーっ! 待たんと撃つぞ!」
 こんな子供相手にあまりマジになるのはどうかと思うが、彼らの疲労といらだち ももう頂点に達しようとしていた。泣きたくなるほど型通りのセリフで脅しつけるあ たり、それがうかがえよう。
 あずきは動きを止めた。だがおびえている顔ではない。旧式の自動小銃を構 えている男をじっと見つめる。あずきの視線はその男の襟に付いている徽章バッ ジに止められていた。
「まあ」
 折りよく斜面の下に来ていた母上が声を上げる。あずきがいきなりジャンプした のだ。大人一人がやっと擦り抜けられるほどの狭い岩の裂け目を簡単に越え、 そのてっぺんの大きな岩場に立つ。が、その岩はあずきを乗せてぐらり、と傾い だ。
 悲鳴が上がった。もちろんあずきのものでも、下で見ていた母上のものでもな い。
「まあまあ、かわいそう」
 その母上は口元に手を当てて目を丸くしていた。彼女の見る限り、あずきが蹴 落とした岩にぶつかって一緒に転げ落ちて行った者2名。それを避けようとして 反対側の岩場に落ちてしまった者1名。いずれもあずきをつかまえる任務はそれ 以上果たせなくなったようだった。
「あずきちゃーん!」
 母上が元の岩場に登って来た時、あずきはちゃんと元通りそこに座っていた。 やっぱり表情を変えないまま顔を上げる。
「ここにいて、って言ったから、その通りにしたの?」
 あれだけ追い回されても、あずきは結局この場所から3メートルと離れないまま 兵士たちを追い払ったのだ。母上は今あずきの顔を見て、それが自分の言葉の せいだったことを知った。3才のこの小さな子は、彼女を信頼していたのだ。
「あずきちゃん、本当に、いい子ね…」
 母上は、大切そうにあずきを抱きしめた。
「さ、もう下へ降りましょう」
 手を握ってゆっくり岩を降りる。さっきの様子から考えても母上よりあずきのほ うがずっとこういう道に慣れているのは確かだったが、あずきは母上に合わせて 慎重に先導した。
「え、なあに? どうしたの?」
 ようやく平らなところまで下り立って母上は深呼吸をしたが、後ろであずきがじ っと地面を見つめているのに気づく。一緒に覗き込むと、軍の徽章バッジが落ち ているのだった。
「あずきちゃん?」
「嫌いだ」
 あずきは下を向いたまま小さな声で言った。
「え?」
「これ、嫌い…」
 もう一度繰り返してあずきはぱっと空を見、そして突然駆け出した。
「どうしたの?」
 つられて小走りに走り出した母上は、いきなり頭上で大きな音が弾けたのに首 をすくめる。また砲撃が始まったのだ。
「あずきちゃーん、どこへ行くの?」
 あずきは立ち止まった。川のそばに1本きりひょろりと立っている木の前だっ た。大人の背丈をわずかに越えるくらいの若い木である。それでも枝を重そうに たわめながら、2つ3つ小さな緑色の実をつけていた。
「まあ、レモン!」
 あずきの背後に立った母上が目を丸くした。
「よく1本だけ育ったわねえ…」
「あずきの…」
 くるりと振り仰いで、あずきが熱心に言った。
「え? あずきちゃんの、木、なの、これが」
「……」
 あずきは答えず、木の幹に両手を重ねた。
――さようならをしているつもりなのね。
 母上は目を細めた。
「さあ、どこか隠れましょう。これじゃ怪我をしそうだわ」
 あずきは視線でそれに答えた。砲撃を続ける戦車の一隊とは離れて、1台だけ 岩山の下に見捨てられている。
「そうね、他に隠れる所もなさそうだし…」
 そうして二人の意見が一致したのだった。
「ごめんなさーい、どなたかいらっしゃる?」
 だから日本語で言っても駄目だというのに。
「いらっしゃらないならお邪魔するわねー」
 母上は砲塔のハッチに身を乗り出して中を覗いているのであった。が、どうやら 居留守を使っている様子はない。
 長い内戦の続くこの国で軍隊はありとあらゆるゲリラ戦をくぐってきている。が、 ここまで悲惨な敗走の経験はなかっただろう。特にこのあたりはインディオ系の 少数民族がいくつか暮らしていて古い伝統文化を細々と守り続けている土地だ けに、兵士達が多少迷信的な気分にとらわれても無理はなかった。
「はい、あずきちゃん」
 抱き上げて先に中へ下ろす。またぱらぱらっ、と岩の破片が降ってきたのには 構わず、母上はちょっと周囲を見回した。それからハッチの中に声を掛ける。
「あずきちゃん、こっち見ないでね。少しの間ね」








「なんだか座り心地が悪いわ」
 それはそうだろう。戦車のシートにはファーストクラスもエグゼクティブクラスも
ないのだから。ちなみに母上がいるのは一番下の操縦手席であった。
「戦争をする人って相手の迷惑を考えないだけじゃなく自分の迷惑も考えないみ
たいね」
 着物の裾を直しながら母上が独り言を言っている間に、あずきはその上の照
準手席で目を見開いていた。ボタンやスイッチがとりどり並んでいかにも面白そう
なのだ。彼が嫌った破壊と人殺しの道具もこうなるとただのおもちゃだった。
「奥様」
 その時、突然声が響いた。
「失礼ながらそのお振る舞いはいささかはしたのう存じます」
「あら、幸さん、見てたの? 嫌だわ」
 染めた頬に手を添える母上の姿はいかにも若やいで見える。年齢不詳という
のは全くコワイものである。
「拝見してはおりませんでしたが、お話は皆聞こえておりました。無線がずっとオ
ープンになっておりましたようです」
「まあ」
 母上はびっくりして操縦パネルに目を落とす。もちろんそのオペレーションシス
テムは彼女には皆目わからない。乗員が緊急の連絡をしようとしていた時のま
ま、無線が入りっぱなしになっていたのだ。
「じゃあ、他の戦車にも?」
「おそらく部隊全部に流れたと存じます」
「あらあら、それなら悪口言ってたのも聞こえたかしら」
「大丈夫でございましょう。奥様が日本語でお話しになられます限りは」
 幸さんの声はあくまで落ち着き払っている。
「それより、あたりがこれ以上賑やかになります前に、日本に戻られるほうがよろ
しいかと」
「そうね」
 母上は素直にうなづいた。あずきはさっきから一人で戦車の内部を探検して回
っていたが、そろそろ疲れたのか、母上の側に降りて来てその膝の上でとうとう
ウトウトし始めた。
「でも、これ、どうやって動くのか、私わからないわ」
「ご心配は無用です。わたくしがこちらからお教えいたします通りなさっていただ
ければ」
「まあ、幸さん、あなた戦車の免許持っていたの?」
 のんきな会話も言葉の壁ゆえ誰にもわからずに済んでいるのが幸いだった。
ほとんどお茶会の世間話の感覚なのだ。理解できていたら軍関係者などは卒倒
ものである。
「こういうものは作りますのは難しゅうございましょうが、動かすには造作ないは
ずでございます」
 そして幸さんは淡々と指示を始めた。
 次々に先鋭の兵器を開発しては配備していく超大国からの中古品である。単
なるお古と言っても最新鋭のちょっとハズレ程度の装備はされているはずだっ
た。
「わたくしの乗っておりますのと奥様のと、おそらく同じ型だと存じますので、こち
らのものに従って申します」
 2台の戦車が本当に動き出した時、部隊長は本気で驚いた。民間人の、しかも
年配の外国女性が勝手にやれるようなことではないのだ。彼の頭に一つの疑念
が生じたのはその時だった。さっと手を伸ばして指揮官に無線をつなぐ。
「なにっ、この指令本部に向かっていると?」
「…はい、したがってこれはやはり重大な軍事行動の一部と判断します」
「しかしたった2台ごときで我が政府軍にダメージを与えられるなどと彼らが考え
るだろうか。これは罠かもしれんぞ」
 戦力的にはともかく、既に心理面に相当な混乱を与えていることだけは間違い
なかった。しかし戦争の専門家などというものは――既成の価値観に従うエキス
パートであるがゆえに――そういう単純な事実ほど気がつかないらしい。
「とにかく一刻も早くその交信の暗号を解くのだ。いいな!」
「はっ!」
 でも、まず無理だと思いますよ。






「まああ、ほんとに動いたわ!」
 拍手している場合ではない。
「お急ぎください、奥様。追っ手が前をふさごうとしているようでございます」
「えっと…、この右の丸いのかしら」
「あ! 奥様、それは…」
 幸さんの制止はわずかに間に合わなかった。砲塔がいきなりぐるりと180度回
転し、遠心力に振り落とされそうになった母上はあわててしがみつく。しがみつく
のはいいが、はずみで手近のスイッチ類に触ってしまったらしい。
「きゃっ !? 」
 耳をつんざく爆音と、戦車全体がびりびりと震えるような衝撃だった。
「あら、いけない」
「奥様、その方向はひともめございますよ」
 悪気はなかったのだ、もちろん。(だから余計にこじれているのかもしれない
が)
 母上が撃った砲弾は発射角度が小さかったため、包囲していた戦車隊のど真
ん中に飛び込んだ挙句に装甲の上を上滑りしてごんごんごんと見事に跳ねてい
く。小石で水切りをするあの要領である。それぞれの相手へのダメージは小さく
てすんだが、かわりにとんでもない飛距離を出してしまった。撃った当人はまるで
気づいていなかったが。
「今度はちゃんとやるわ。ええと、まず元の向きに直して――と」
 幸さんは砲弾のその後、について説明するのを断念した。逃げるが勝ち、であ
った。






「し、司令官殿っ!」
 副官の声が届くより早く、政府軍司令官は床に身を伏せた。いや、実は窓から
の爆風に吹き飛ばされて転がったというほうが正しかったか。
「ご無事ですかっ !? 」
 副官はあわてて駆け寄り、デスクの脇で本や書類の下敷きになっている司令
官に手を貸した。
「何ということだ、直接指令本部が標的にされるとは…」
「しかも自軍の戦車に、な」
 司令官はいまいましそうに肩章のあたりを払った。
「これではっきりした。これは挑発だ! あの二人の女は陽動作戦のオトリだっ
たのだ。ゲリラ軍め、それだけの切り札をつかんだというのか!」 
「やつらに何か決定的な変化があった―― !? 」
 視線を合わせた二人の表情がこわばった。と、なると「何か」の答えは一つしか
なかった。大国の影、である。
「緊急連絡だ! 将軍につなげ、早く !! 」
 話は果てしなく大きく――そして見当違いの方向へ――転がって行くのであっ
た。




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