TOO ADULT  -- 全日本シニア始末記 --


第一章
 1〜12回 
第二章
 13〜27回>> 
第三章
  28〜34回>>



1 

「そういう状況を一言で何と言うかご存知ですか」
 電話の向こうからくぐもった声が伝わってくる。大方、またくわえ煙 草でしゃべっているのだろう。
「『大人げない』…」
「解ってるんじゃないですか」
 ほとんどいじめっ子の口調である。
「ですが、まあ、あなたの気持ちも解らないじゃありません。せいぜ い協力しますよ」
「頼むよ。頭に血が上ってああ言ってしまったものの、私一人ではど うにもならんことだからな」
 早くも白いものの混じり始めた頭をしきりに撫で上げる。
「でもあなたのことだ。何らかの当てがあったからこそ、そういう挙 に出たわけでしょう」
「多少はな。しかしともかく面子が足らんのは確かだ。約束の日まで には何とかしないと…」
「いいでしょう。まずはロベルト本郷ですね」
「ああ、よろしく頼む」
「分かりました。…ああ、そうだ。面白い情報がちょっと耳に入った んですがね」
 サングラスの奥で見上の目が大きく見開かれた。ネクタイを緩め かけていた手を離し、受話器を握り直す。
「なにっ、誠が!? で、居所は判っているのか!」
「いえ…。でも調べればすぐにも判りますよ。アポイントメントは二日 後の朝でいいですね」
 電話を切った後も見上は受話器に手を置いたまま、窓の下に広 がるパリの夜景に目をやって考え込んでいた。あいつが来ている のなら、勝算我にあり、だ。
 思わず口元に笑みが浮かぶ。剥ぎ取るように外したネクタイをベ ッドの上に投げ捨てた彼は、内ポケットから黒い手帳を取り出し、再 び受話器を取り上げた。  



2 

第一章  11人要る!



 最初に異状に気付いたのは三杉だった。
「確かか?」
「ああ」
 ホテル・イントラーダのレストランで遅い朝食をとっていた全日本ジ ュニアユースのメンバー達は、窓側のテーブルに陣取っている翼・ 岬・若林・日向・若島津・松山のいわゆる幹部達が三杉の報告に眉 をひそめて聞き入っているのを、不安げに見つめた。
「…見上監督だけじゃない。住友コーチも、それに片桐さんもだ」
 確かに、長かったヨーロッパ遠征もその日程を終え、明日の帰国 を前に今日一日は自由行動日として彼らに与えられていた。が、し かし、いかに自主性に任せて余りある面々とは言え、だからと言っ て同行の大人連中が揃って姿を消すなんてことは常識では考えら れない。
「小泉理事のホテル、電話番号控えてあったよな」
「ええ」
 日向の問いに応えながら若島津は早くも立ち上がっていた。つら れたように他の5人もガタガタと席を立つ。
「まずはフロントで訊いてみんとな」
「僕が行くよ。松山、君はティーラウンジのほう見て来てくれない?」  若林の穏当な意見を受けて、岬が三杉とともに小走りにレストラン を出て行く。その後を追うように、日向・若島津・松山が姿を消した。 後に残った翼と若林は、他のメンバー達に心配しないように言い置 くとロビーに向かった。
「ん、どうした、翼」
「うん、そう言えばさ、片桐さん、ゆうべ遅くまで見上監督と話してた みたいだったから」
「何をだ」
「わかんないよ、そんなの」
 にっこり見上げる翼の笑顔に状況も忘れてつりこまれそうになる 若林だった。
「でも、片桐さん、何か大きな紙袋いくつも下げて、見上さんの部屋 に入ってった」
「……」
 考えてみれば翼の部屋は見上の部屋の真正面に位置していた。 それにしても。
「どうだった? 岬くん」
 二人に歩み寄ってくる岬の表情はどことなく曇っていた。



3 

「7時頃、見上さんと住友コーチが出かけたって。片桐さんはその少 し前に出てったらしい」
「7時ィ !? 」
 かつて長く同居していたことのある若林は、年に似合わず朝に弱 い見上がそんな時間から外出するなど通常ありえないことを知って いた。思わずおうむ返しにしてしまう。
「ボーイに訊いてみたんだけど、三人揃って、6時すぎに朝食とって たらしいぜ。どうなってんだぁ?」
 そこへぬっと現われた松山が、報告しつつ頭をかく。レストランは 7時からだから、24時間営業のティーラウンジへ回ったのだろう。
「あ、日向」
 ロビーにかたまっている一団は、手元の紙片に目を落としながら 近寄ってくる日向に一斉に視線を投げた。
「小泉さんはつかまった?」
「いや、あの人も早くにあっちのホテルを出たそうだ。で、俺宛てに メッセージがあったとかで、今、それを伝えてもらったんだが…」
「何だって?」
「『試合があるので行ってきます』…だと」
「それだけかい? 行き先は?」
 問う三杉に日向は紙片を渡した。
「知ってるか? こんなスタジアム」
 電話を通してスペルアウトしたらしい日向のフランス語の文字に目 を走らせて三杉は首をひねった。他の面々もめいめい覗き込む。
「これ、スタジアムじゃないよ」
 岬の断定口調に、全員がその顔を見つめた。
「C社の社内施設グラウンドだ。と言っても日本の公式スタジアムに ひけをとらない大きさのだけど」
 何人かはその名前に覚えがあった。フランスの大手企業グループ の一つで、スポーツ用品では国内シェアのかなりを占めており、確 か今回のジュニアユース大会の協賛スポンサーにもなっていたは ずだ。
「試合って…。何の試合があるってんだ、そんなとこで…」
 若林の独り言めいたつぶやきに答えられる者があるはずもなく、 ただ互いに顔見合すばかりの彼らだった。



4 



「一体何だと言うんだ、人をこんな所に呼び出して」
 グラウンドに現われた北詰誠はすこぶる機嫌が悪かった。
「言っておくが、今回私はまったくプライベートでこちらに来たんだ。 おまえに呼びつけられる筋合いはないはずだぞ」
「ああ、これがおまえのだ」
 見上はどこ吹く風で紙袋を渡す。年月は肉体を老いさせはした が、その精神の根底にあるものは何ら変わってはいない。北詰は2 0年前とまるで変わらぬ、つっつき甲斐のある反応を示しながら見 上の前に立っていた。
「なにぃ !? 」
 いぶかりつつ包みを開けた北詰は、出て来たスポーツウェアに絶 句する。
「見上、何なんだ、こいつは !? 」
「相手チームのご好意でね、系列の会社から融通してもらったん だ。おまえの背番号は9番だからな」
「おいっ…!」
「サイズはたぶん合うはずだ。おまえあの頃とスタイルは大して変 わっとらんようだし」
「ちょっと待てっ、辰!」
 思わず若い頃の呼び名で呼んでしまったことにも気付かず、北詰 は見上をはっしとにらみつける。見上はその懐かしい呼び名にゆっ くり首を巡らせて北詰と視線を合わせた。
「…今、相手チームと言ったな?」
「ああ」
「試合を…するのか?」
「そうだ」
「で、味方チームはどこなんだ」
「これから作る」
 北詰は口をキッと結んだ。この見上辰夫の性格もやはり20年前と は変わっていなかった。ここでいきり立って馬鹿を見るのはいつも 自分のほうだった。ひとまず大きく息をついて気を静める。が、見上 の次の言葉はそんな彼の努力をあっさり反故にしてしまった。
「おまえ、FWな、ツートップで」
「私は出んぞっ !!  お断りだっ !! 」
「どうして…?」
 いたってのんびりと訊き返す見上の温厚な表情に、北詰の肩から 力が抜ける。このペースに巻き込まれたら最後だというかつての記 憶が、徐々に蘇ってきたのだ。が、時既に遅かったようである。



5 

「私はもう10年プレーはしとらん」
「私もだが」
「右ひざが神経痛だ」
「私も五十肩と腰痛でね」
「この3年の監督業で、胃をやられて血圧も高いんだ!」
「…それを言ったら私はどうなる。私のチームには日向だけじゃな い、全国選りすぐりの悪ガキが顔を揃えてたんだよ」
「おまえは3年も付き合っとらんだろーが。こっちは朝から晩まで24 時間だぞ! 来る日も来る日も3年間、あのプレーを見続けて来た んだ!」
「それはまったく気の毒だったよ」
 見上は吹き出しそうになるのをこらえながら、もっともらしくうなづ いて見せた。
「実は私も今度の全日本チームで日向を見ていて、ずいぶん苦労し たんだ」
「思い出し笑いを我慢するのに、でしょう?」
 背後からかけられたトーンの高い声に、二人が会話を中止して振 り向くと、そこには長髪に黒サングラス、くわえタバコがトレードマー クの片桐が立っていた。例によって表情はまるで見えない。
「せっかくの同窓会漫才をお楽しみのところ申し訳ないんですが、ロ ベルト本郷が来たものですから」
「そうか! で、どこに?」
「今、ユニフォームに着替えてもらっています。まもなく来るでしょう」 「片桐くん! よくも私を欺いてくれたな」
 北詰が横やりを入れたので、そちらにゆっくり向き直り、片桐はタ バコを口から離した。
「欺くだなんて人聞きが悪いですね。私はただ、見上さんがあなた に是非にも会いたいとおっしゃってると伝えただけですよ。別に偽っ てはいません」
「その用件を承知していたくせに、わざとすっとぼけて呼び付けただ ろうが!」
 片桐はあくまで表情を変えなかった。そのまま見上に話しかける。 「北詰さん、なかなか燃えてるじゃありませんか」
「そうなんだ、これで我がチームもますます意気上がるというものだ よ」
「誰が焚きつけたんだ、誰が !? 」
「片桐さん、見上さん…!」
 その時ベンチの向こうからユニフォーム姿で駆け寄って来たの は、まぎれもなくロベルト本郷その人であった。



6 

「おお、ロベルトくん、ぴったりじゃないか! さすがに似合うね」
「はあ、どうも…。でもこれ、何なんです? 仮装パーティなら、俺、 10番をつけたいもんですがねえ」
 8番のユニフォームのえりぐりをしきりに気にしながらロベルトは見 上を見つめる。3年前よりニヒルに決めてはいるが、やはり生来の お祭り好きの血は隠すことはできないようだった。口調がやたら軽 い。何より、愛弟子と同じユニフォームを身につけていることで相当 浮かれているようである。
「すまんね、10番はもう決まっているもんだから。…ああ、紹介する よ、こっちは同じFWをやってもらう北詰誠。北詰、ロベルト本郷くん だ。名前は知っているだろう」
「ああ、ブラジル代表だった…、確か3年前に引退とか聞いたが…」 「その通りです。よろしく、北詰さん」
 ロベルトの屈託のなさについつられて手を出し、握手を交わしてし まった北詰は、ここではっと気を取り直し、見上を睨みつけた。
「訊くがな、一体どういう試合をやらかすつもりなんだ…」
「心配は要らんよ。気楽に、遊びのつもりでやってくれればいいんだ から」
「誰も心配なぞしとらんっ! 俺はな…」
 噛みつかんばかりの北詰の目の前に、見上は人差し指を一本立 てて見せた。
「だが、絶対勝たなくちゃいかん」
 北詰はポカンと口を開けて棒立ちになってしまった。その背後から ロベルトが入れかわりにのっそり一歩を踏み出して素朴な疑問を持 ち出してくる。
「でも、残りのメンバーはどこなんです? まさかFW2人だけで戦う ってんじゃ…」
「当然こいつも入るんだろ、DFで」
 ぐったりと北詰が指さした。指さされた見上は黙ったまま穏やかな 笑みを浮かべうなづいている。一応三年前南葛市で顔見知りだっ ただけに、今度はロベルトがあっけにとられる番だった。追い討ちを かけるべく、少し後ろで状況を見守っていた片桐が、手にしていたタ バコをつま先でもみ消して歩み寄って来た。
「私も加わることになっています。GKとして」
 木立ちに囲まれたグラウンドの上を爽やかな朝の風が吹き抜け て行く。そこには、この日の午後このフィールドで何が起ころうとし ているのか、それを予感させるような禍々しさはかけらも見られな かった。



7 




「どうだ?」
「もっとそっち寄れよ…」
 植え込みの間からガサゴソと頭が出てくる。
「おい、あれ!」
 松山が指したのは、数人かたまった中に一人、しっかり見覚えの ある白に青ラインのユニフォーム姿で立つ人物だった。
「俺たちのユニフォームじゃねえか」
「ロ、ロベルト !? 」
 日向の言葉をさえぎって、翼が声をひっくり返す。
「しーっ、ダメだろ、翼くん」
「だって、あれ…。どうしてロベルトが…?」
 岬にたしなめられていったん首をすくめたものの、まだ納得いかな いという顔で、そーっと伸び上がる翼だった。
「8番つけてるぜ」
「えーと、8番は井沢、でしたよね」
 同じく翼の横から覗いて、ひそひそやっているのは東邦コンビで ある。
「なんでロベルトが井沢のユニフォーム着なきゃなんないわけー?」 「…あれは井沢くんのじゃないよ、翼くん」
 視線は前方に向けたままキッパリと言い放つ岬を、翼はキョトンと して見つめた。
「井沢くんのだとしたらロベルトにはとても着られやしないよ。あれ はちゃんとロベルトのサイズに合わせてある」
「日向さん、あれって --- やっぱりあれですかね…」
「 --- あれ、だな…」
 ここに至っても二人だけの世界を作っている東邦コンビである。し かしそれはほのぼのした会話…にはなり得ず、日向は顎を突き出 すようにして、苦々しげに同意してみせる。
 そんなやりとりを耳にして、松山が横から口を出した。
「ひでえ言い方だな。仮にも自分ところの監督だった人だろーが」
 その松山の物言いにも多少の含みがあるのは、全国大会以降の 合宿や遠征においていろいろと当時の事情が耳に入る機会があっ たせいだろう。
「だからだ」
 若島津の木で鼻をくくるような返事に松山は肩をすくめてみせた。 この感情を表に出さないゴールキーパーを額面通りに受け取るの は大変な間違いだということくらい、彼とて肝に銘じているのだ。



8 

「こっちに来てるって知ってた?」
 岬のほうは最初から見切って、この場合穏当な日向に水を向け る。
「知るわけねえだろう。第一もう東邦からも引きあげちまってたんだ ぜ、俺たちが出発の時には」
「ふうん…」
「見上監督と親しそうだね」
 ポツンと横でつぶやいた翼の言葉に、その場の全員がハッとし て、フィールドの真ん中で何やらワイワイやっている大人たちに目 を向け直した。この距離で、何を根拠にそう断定できるというのか。 しかもその北詰は、声こそ聞こえないが先程からしきりに見上に食 ってかかっている様子なのだ。
「…どこが!」
「まあ、翼が言うんですから…」
 脱力する日向をなだめる役はもちろん若島津である。
 その時、フィールドのほうで何やら声が響いて、物陰の少年たち も一斉にそちらに視線を投げた。
「あっ!」
 翼が弾かれたように立ち上がった。
「お父さんっ!」



「キャプテン!」
 聞き覚えのある声にはっとそちらを振り向いたロベルトは、スタン ドの最前列にひょいと姿を現わした人物に向かって思わず大声で 叫んでいた。
「ど、どうして…?」
「やあ、ロベルトくん。久し振りだったね!」
 大空広大氏は、夏の太陽もかくやと思われるような明るい声で、 フィールドに立ちつくしているロベルトに呼びかけた。
 彼の言う通り、二人が顔を合わせるのは実に3年ぶりだったりす るのだが、その屈託のない気楽そのものの態度には相手の当惑 や疑問をあっさりと押しのけるに十分な威力があった。つまるとこ ろ、これは大空家に代々伝わる必殺技に違いない。
「おはようございます、大空さん。どうです、合いましたか?」
「ええ、上々ですよ。よく判りましたね」
 主語・目的語を完全にないがしろにした見上の質問に、大空氏は いともにこやかに応える。話題はどうやら彼の着用しているユニフォ ームのようだった。



9 

「見当だったんですが…いや、良かった」
「二着預かったんですが、こちらで良かったんでしょうな…。サイズ が合うほうを勝手に着させてもらったものですから」
 スタンドからひらりと降り立った大空氏は、見上のほうに背を回し て10番を示してみせた。
「そうそう。そちらです。…あ、それで11番のほうは…?」
「ああ、渡しました。今朝落ち合って、一緒に来たんですよ。今ロッカ ーで着替え中です」



「よお、翼。おまえの親父さんてサッカーやるのか?」
「ううん、全然」
 松山の問いに明るく答える翼の横では、岬太郎がどことなく浮か ぬ顔でフィールドを見やっている。
「お父さんのユニフォーム姿って初めて見たなあ。けっこう似合うん だ」
 当の本人がこれだけ他人事にしているのだから、他の者はこだわ る必要はないと言えばないのだが、そこまで人間が柔らかくできて いない日向などはすっかりめげているようだった。なにしろ彼がそ のユニフォームを着ることを認めた男は、この世にただ一人のはず だったのだから…。
「そういう問題かよ」
「あれ? 岬くん、どうかしたの?」
 松山の独り言は放っておいて、翼は隣の岬に声を掛けた。
「…なんか、ひどく嫌な予感がするんだ、ボク」
 岬の顔色は限りなく悪かった。



 次いで現われた人物は、大空氏と違っていささか面映そうに歩を 進めて来ると、一同のやや手前で立ち止まった。
「どうも…」
「やあ、よく来てくれました、岬さん!」
 見上の差し出す手を握り返しながら、岬一郎氏はもじもじと答え た。
「いやその…何ですな。ええと、慣れないもんですから…」
 視線で自分のユニフォームを示す。何より、直接風を受けている 脚が気になる様子で、しきりに重心を右足にかけたり左足に移した りしている。



10 

「岬さんっ!」
 突然後ろから背中を叩かれ、岬氏はつんのめった。
「これはすごい! ほら、あなたと私の番号、我々の息子たちとまっ たく同じですよ! 三年前の、ほら全国大会。思い出しますなあ」
 どうも大声が地らしい大空氏に、横からロベルトが声を掛けた。
「キャプテン、三年前どころか、今度の大会でも二人はこの背番号、 それにこれと同じユニフォームを着てたんですよ」
「ほぉ〜、そうだったのか。これは愉快だ。ねえ、岬さん。いやー、あ の子らにも見せてやりたいもんですな」



「……見たくない。気分が悪い…」
「どうしたの、岬くん。大丈夫?」
 頭を抱えてしゃがみ込んでしまった岬に、側にかがんで心配そう に声を掛ける翼だった。
「ほら、あれ君のお父さんじゃないか。あっ、11番だ! ほらっ、君 と同じ… !! 」
「つ、翼…」
 見ていられなくなって割り込んできたのは松山だった。少なくとも 彼にはまだ常識というものがあった。
「しかしよー、一体何を始める気なんだぁ?」
「仮装行列…ってわけでもなさそうですね」
「 ----- !! 」
 常識対非常識の戦いは見捨て、ぼそぼそ話し合っていた日向と 若島津は、その時、グラウンドに信じられないものを見出して、思わ ずベタフラを背負ってしまった。
「か、かんとくっ !? 」



「わしも仲間に入れてもらえるかな?」
 ヨーロッパに来てもなお、彼のゾウリは健在だった。ヒタヒタと音を たてて、グラウンドの7人に近寄る。
「先日はどうも世話をかけましたな」
 向かい側の北詰に軽く会釈をしてみせる。
「ああ、来ていただけないかと心配していたんですよ。お忙しいと聞 いていたもんですから」
「いや、事情はそちらの片桐さんとやらに聞きました。小次郎が世 話になったことじゃし、わしの用事なんぞどうとでもなりますからな」  急いで歩み寄ってきた見上を斜めに見上げながら、吉良はニヤリ と笑って見せた。



11 

「先輩に加わってもらえると百人力ですよ。なにしろ急ごしらえのチ ームですから」
「それに素人さんもいるようじゃしな…」
 ゆっくりと一同の顔を見渡して、吉良は顎をさすった。
「ええ、それで、先輩には済みませんがMFに入っていただきたいん です。こちらのMF二人は一応初心者ということで、ゲームメーカー が必要でね」
「ポジションは構わんが…。わしの見るところではその心配も要らん かもしれんぞ、見上くん」
「は?」
「まあ、経験者組にしたところで、プレイから離れていた者ばかりじ ゃ。要は実戦でどう動けるか、じゃな」
 見上の質問をそれとなくはぐらかすと、吉良は足元のボールをヒー ルキックでぽんと蹴った。ボールは素直にころころと転がって行き、 ちょうどそこへ歩を進めてきた和服姿の長身の男の所まで達した。 男は屈んでそれを拾い上げると、静かな眼差しを一同に投げた。
「遅くなって申し訳ない。見上さんとおっしゃるのはどなたかな」
「私です。若島津さんですね! わざわざお運びいただいて恐縮で す」
 見上は初対面のこの武道家に恐る恐る近寄って行った。コンタク トをとった片桐の弁によれば、どうも動の部分と静の部分の落差が 激しい人物らしい。一か月近く付き合ってきたその息子に同様の印 象を持っていた彼は、それゆえ無意識に身構えていたのだった。
「私ごときがお役に立てるとは思われませんが、これも何かの縁、 よろしく頼みます」
 片桐がどういう要請をしたのかは知らないが、「縁」の一言でこの ような状況を容れられるのだから、空手界の大立者は違う。見上は 自分よりさらに年長の、しかしさすがに鋭く研ぎ澄まされた空気を身 にまとっている人物をこわごわと見つめ直すのだった。
「どこへ行くんだね、住友くん」
 並んでロッカールームへと向かう二人を見送りながら、見上は背 後の気配に呼びかけた。
「い、いえっ、…そのっ」
 人々の注意があちらに向いているうちにこっそりその場を離れよ うとしていた住友が、ぎくりとすくみ上がった。彼は今朝、訳も解らな いまま叩き起こされてここまでやって来たのだったが、次第に話が 妙な方向へ向き始めたのを見て、そろそろ身の保全を考え始めた というわけだった。



12 

「君は私と同じDFだよ。現役時代のあの鋭いマークを期待している からな」
「げ、現役って…! 見上さん、私は9年前大学リーグでやって以 来、ゲームには一度だって… !! 」
 一人往生際の悪い住友を、北詰がじろりと眺める。
「ほう、たったの9年…」
「私は高校以来だから10年だ」
 煙の輪を一つ二つと上げながら、片桐が脇でつぶやく。
「…! 何が高校以来だ! 自分の大学のチームは鼻にもかけず、 全国の名門チームを神出鬼没の助っ人稼業で掻き回していたくせ に… !! 」
 当時、東邦学園大サッカー部コーチとして直接その被害をこうむっ た当事者だけに、北詰の憤りももっともだった。
「時効ですよ、時効。何事も…、ね」
 片桐が意味ありげに凝視すると、北詰は一瞬の間をおいて、…あ ろうことか赤面したのだった。




「 --- なあ、おい、若島津」
 返事はない。
「こりゃ、駄目だ。相当深くめりこんでら」
 当惑する日向をよそに、松山は所詮他人事である。
「そう言や、こいつの親父さん、ヨーロッパの空手選手権に毎夏来 るって言ってたな…」
「岬!」
 突然ガバッと若島津が身を起こした。覗き込んでいた日向と松山 はその勢いにはね飛ばされる。
「俺は今すぐ帰国する! おまえチケット手配してくれ」
「それは困るね、若島津」
 すったもんだしている5人の背後から、必要以上に落ち着き払っ た声が聞こえてきた。
「問題はあれがただの仮装ごっこではないということだよ」
「どういうことさ、三杉くん」
 一人情報を握っている優越感をその口調に隠そうとしない三杉淳 に、岬が殺気立った視線を向ける。
「何か判ったの?」
「ああ、翼くん。あの決勝戦の夜、関係者一同のパーティがあった だろう。あの場で見上さん、とんでもないこと請負ったらしいんだ」
「とんでもないこと…?」
「賭け、さ」
 三杉は皮肉っぽい笑みを口元に浮かべて、前髪にすっと手をやっ た。
「 --- 全日本シニアチームで、賭け試合をやるんだよ」

〔第一章 終〕