悪徳シリーズ特別版
BEAT THE STREET 2002 WORLD CUP編


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--- 2002年早春





 日韓共催W杯も間近となったある日のこと。雨上がりの道を一人行く人影があった。少々猫背 ではあるが、妙に確信ありげにどしどし歩を進めていく。しかし、実は、彼は道に迷っていたのだ。  日本代表を率いるフランス人監督T氏は、ここ静岡県の某所に内定している合宿所の下見にや ってきたのだが、案内役の日本サッカー協会の担当者と静岡県の担当者の会話が長々と続くの に退屈してちょっと車を離れてしまったのが間違いだった。
 アシスタント兼通訳のD君がたまたまその場を離れていたのも不運な偶然だったかもしれな い。とにかくD君を捜すつもりが見つからず、戻るべき車も見失い、いつのまにか一人で見知らぬ 道を歩くはめに陥っていたのである。
 フランス人にはありがちなことなのだが、自分は確固とした信念の元に常に行動しているのだ、 という自信満々なポーズをとっているうちに自分でもそう思い込んでしまう…そんな傾向がこの人 にもあった。だから、かなり絶望的とも言えるこの迷子状態にあってもためらうことなくとにかく前 へ前へ進んでいるのだった。
 水田と茶畑が連なる緑の風景を抜けて行くうちに、T氏は前方に街並みを発見した。そこそこま とまった町のようである。これでなんとか助かるぞ…と口の中でつぶやいて、彼は足をさらに早め た。
 住宅が道沿いに密度を増してきたあたりで川が目の前に現われた。橋を渡った向こう側がどう やら町の中心らしく、ビルが目につく。いわゆる商店街に入ったようで、歩行者優先道路を行き交 う通行人が次第に増えてきた。
「なぜ誰も私に気づかないのだろう?」
 フランス人らしく疑問にはきちんと疑問符をつけながらT氏は周囲に目を配った。代表監督に就 任して4年目、いい意味でも悪い意味でもニュースをふんだんに提供してきた中で顔も名前も知 れ渡っているはず。そう彼は信じていたのだが、さっきからすれちがう人々はどうも反応が薄い。 たまにこちらに目を止めても、あ、外人だ、程度の驚きを見せてまた無関心に通り過ぎて行く。
 別に取り囲まれてサインをねだられたいわけではないが、今はとにかく助けが必要なわけで、 有名人であることを今こそ最大限に利用できると期待もしていたのだ。
 少々面食らいながら、彼の足はそこではたと止まった。商店街のいちばん端にあたるそこに暖 簾の下がった店舗があり、しばらくじっと見つめた後ほとんど反射的に中に入ってしまったT氏だ った。「そば処フランボワーズ」というその看板の文字はもちろん読めなかったが、彼にはそれが 何の店かすぐに判ったとみえる。
「いらっしゃいませー!」
 のれんをくぐると、女性の元気のいい声が掛かる。そう、彼の推察通り、やはりそこはそば屋だ ったのだ。
「モリをイチマイ」
 シルブプレ…と心の中だけで追加してからT氏は店内を見渡した。
 テーブルは6台、あとカウンター席が少し、という小さい店で昼食時を過ぎているせいか彼以外 に客はない。これだけは日本語で言える注文をしてしばらく待つと、おかみさんとおぼしきさっき の年配の女性が盛りそばを乗せた盆を運んで来た。
「イタダキマス」
 儀式のように割りばしを割って、T氏はわずかな間を置いた。延々と歩き続けた後で空腹なのも 事実だったが、それよりも先に胸が高鳴るのを押さえ切れなかった。あまり知られていないが彼 は大のそば好きで、プライベートで日本各地のそばを食べるのを何よりの楽しみにしているので ある。
『お味はいかがでしたか?』
 T氏ははっと我に返る。なんと、気づくとせいろはすっかり空になっていた。
『こちら蕎麦湯です、よろしかったらどうぞ』
『…あ?』
 前に朱塗りの湯桶が置かれ、T氏は顔を上げた。白い上っ張りを着た若い男がテーブル脇に立 って穏やかな笑顔を見せている。質問は英語だった。T氏も英語に切り替える。
『申し訳ない。どうやら味わう余裕もなく食べ切ってしまったようだ。思った以上に疲れていたらし い』
『舌でなく胃で味わっていただけたんですね。どちらにしても出す側には幸せなことです』
 本当に心から嬉しそうな笑顔に、T氏は自分まで和む思いだった。
『この店のご主人ですか? お若いようだが』
『いいえ、父の店を手伝っているだけです。父が留守の時の助っ人ってわけです。パートタイマー そば屋ですよ』
『それにしては本職の腕のようだが…』
 そうつぶやきながらT氏はテーブルの上の湯桶に目を止めた。
『この「蕎麦湯」、そば屋さんはなぜこれを最後に出すんですか? しかもこれはそばを茹でた残 りの湯なんでしょう?』
 そば屋と直接話ができる機会だ、と思ったらしく、さっそくT監督は長年の質問を持ち出した。そ ば屋はちょっと目を見張ったが、また笑顔になる。
『ずいぶんお詳しいんですね。確かにこれは茹でた後の湯の再利用ですが、これにはそばの蛋 白質が溶け出していて大変栄養価の高いものなんです。このまま飲んでいただければ食後の口 の中もさっぱりしますし、消化の助けにもなります。残ったそばつゆで割ればこちらも最後まで味 わっていただけますし。お茶をお出ししない代わり、ということにもなります』
『ああ、そう言えば日本の飲食店ではまずお茶か水が出されますね。なのに確かにそば屋では 出すところは少ない…。なぜです?』
『それは、そばの味を茶が殺すことのないようにです。食べる前に別の風味がつくのを避けてい るんですね』
『なるほど』
 T氏は改めてその湯桶と空になったせいろを交互に見た。
『私が日本でこの食べ物に出会って一番驚いたのは、母国でも普通に馴染んでいる食品がまっ たく別の料理になって、しかもある種の芸術性さえも持っていたことです。フランス人にとってそ ばというのはやせた土地でも育つ、小麦に劣る穀物というイメージでしかないので』
『芸術性ですか』
 そば屋はわずかに苦笑した。
『我々にとってはどうも面映い評価ですね。基本的にはそばというのはごく庶民的で手軽な食べ 物ですから。西洋で言うファーストフードの感覚だと思いますが』
『それは謙遜でしょう』
 T氏の声に熱がこもる。
『職人というのは洋の東西を問わず、本当に似ていますな。自分の技に対するたゆまぬ向上心、 そして愛情と誇り…また頑固さ。それが、あなたのおっしゃる「庶民的で手軽な」食べ物となって いることをこそ私は評価したいのです。私がそばを愛好するのはまさにそこなんです。しかもおい しい』
「ありがとうございます」
 若いそば屋は頭を下げた。感謝は、あえて日本語で伝える。
『どんな言葉よりもそうおっしゃっていただけるのが一番嬉しいです。どうか日本にいらっしゃる間 に心ゆくまで召し上がってください、T監督』
 にっこり笑うその顔を、監督はぽかんと見つめた。一瞬の沈黙が流れる。
『静岡県はサッカー王国と言われる土地ですよ。そうでなくても監督は十分に有名人でいらっしゃ いますけれど』
『あ、ああ、そう言えば…』
 忘れていたということ自体を思い出すこととなる。自分が誰で、何をしていて、そして今どういう 状態なのか。
 そば屋は監督の説明を聞いてうなづいた。
『それは大変な目に遭われましたね。静岡のサッカー協会本部でよければ調べて電話を入れて おきましょうか』
『助かります、よろしく』
 軽く息を吐いて、T氏は奥へ入っていく若いそば屋の背中を見た。そして急いで立ち上がる。
『あ、もう一つお願いしたいことが…出前のことで』
『はい?』
 ちょうど縄暖簾のところで振り返り、森崎有三は不思議そうにT監督を見たのだった。




【2へつづく…】




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悪徳弁護士シリーズとして書いたものですが、いつもの井沢× 反町の話とはちょっと、いえかなり方向性が違っていますので ご注意ください。
サッカーを引退後にさまざまな方向に第二のスタートを切った 「他の」メンバーたちが一気に登場しています。それぞれに悪 徳な生活を送っていますが、W杯という大イベントに彼らが集 結してしまったのはやはりしかたのないところかも。
おなじみのメンバーたち以外に、どこかで見たことのあるような 人達もこれからぞろぞろ出てきますが、あくまでイメージですの で深くは追及しないでくださいませ。(笑)