COUNTDOWN O'CLOCK










 選手村第15エリアにある新館。サッカー日本代表チームの宿舎である。 夕食の時間もとっくに過ぎ、明日から開始されるグラウンドでの練習に備え て各人思い思いに体を休めている消灯直前の時間帯だった。
 1階のロビーに隣接したラウンジには部屋のよりもはるかに大きい衛星テ レビがあって、その前で何人かの選手がわいわいと集まっていた。
「あれっ、反町だー!」
 その中の誰かが声を上げる。開いたドア越しに、ロビーをそーっと通り抜 けようとしていた反町を目ざとく見つけたのだ。
「しーっ!」
 さらに話しかけようとするのを両手を振り回して必死に止め、こそこそと 階段までやって来る。
「ほおおぉ、お早いお帰りで。今夜のうちに帰って来るとは予想を裏切った な、反町」
「うわ、健ちゃん、なんだよいきなり、びっくりするじゃん!」
 階段に一歩を掛けた瞬間に上から降ってきた声で反町が飛び上がる。天井 の照明の逆光で顔がよく見えない若島津がそこに立っていた。
「で、岬は捕まえられたのか? 消えちまった女子選手ってのは戻って来た んだろうな。どうなんだ」
「そんないっぺんに解決できたらすごいよね、ははは」
 若島津は無言で反町を見下ろした。あまりに身動きしないので、反町は再 びそろそろと登りはじめる。そう、横目で若島津を確認しながら。
「全部が無理なら」
「ひっ!」
 反町がなんとか若島津をやり過ごしたタイミングに再び声が掛かる。
「一つでもいい。こいつだけは解決しろ。でないとおまえも生き延びられな いからな」
「なっ、何脅してんの、もう。冗談きついんだからー。で、その一つって、 念のために、何?」
「日向さんが――」
 若島津はあさってのほうを向いたまま答えた。
「部屋で待ってる。おまえをじゃないがな。ただ、今誰も声を掛けられな い。この難問を解決するんだ。いいな」
「えええっ」
 今思い出したが、反町の部屋はすなわち日向の部屋でもあった。つまり日 向を回避することはできないのだ、今どんなに危険な状態であったとして も。
「た、助けてくれるよね、いざとなったら」
「さあな」
 無慈悲な言葉を励みにして、反町は一人のろのろと部屋のドアを押した。 「た、ただいま…」
 部屋は暗いままだった。カーテンは開けっ放しである。反町は、ドアのす ぐ内側で足を止めて気配を探った。
「おう」
 と、いきなり返事があって、ぴくん!と背筋を伸ばす。
「あの、電気、つけていいですか。真っ暗だし」
 見えない相手に呼び掛けるが今度は返事がない。駄目だとも言われていな いということでとりあえずスイッチに手を伸ばした。
 ぱっと部屋が照らされて一瞬目がくらむ。と、2つのうち窓側のベッドで カバーを掛けたままの上に日向が仰向けに寝転がっている姿が飛び込んでき た。
「なんだ、うたたねですかー。風邪ひきますよ、なんて」
「――いや、寝てねえ。ずっと起きてた」
「そ、そう?」
 反町はデイバッグをもう一つのベッドの脇に置いて、日向のほうは見ない ようにしながらパソコンを引っ張り出す。
「他のやつらも帰って来たのか?」
 やはり天井を向いたまま日向が声を掛けてきた。
「あ、ええと。淳は一緒に帰って来てちょっと選手団本部に寄ってます。光 はまだ外出中で、岬は…」
「会えたのか?」
 ぎろりと鋭い視線が反町に向けられる。反町はぐっと息を飲んでからうな づいた。
「いや。あ、でも、すぐ近くにいるはずなんです。少なくともこのソウルに は来てるから」
「おまえらな――」
 ゆっくりと起き上がって、今度はまっすぐ反町と向き合った日向だった。 「一度聞きたいと思ってたんだが、なんでサッカーをやってんだ? 何かの ためか? ただ好きでやってるのか?」
「えっ…」
 まさに唐突な問いかけだった。何か裏に真意があるのか、単純にそういう 質問なのかと一瞬迷ったが、どちらにせよ正直に答えるしかなかった。
「俺はそりゃ好きだからですよ。目的とか、特にあるわけじゃないし」
「だよな」
 何か妙にあっさりと日向がうなづいたので、反町は安心のあまり涙ぐみそ うになる。
「俺だってそうだ。好きでもなけりゃこんなとこまで来やしねえ。誰かに義 理立てするようなもんもないしな」
 少し間を置いて、日向はさらに続ける。
「あの命知らずの三杉だって無鉄砲な松山だってどうせそうだろうよ。岬も ここまで来りゃ同じだ」
「そう、ですよね」
「つまり、俺たちの中で一番不真面目で勝手な真似ばかりしてやがるおまえ ら4人でさえ、好きだからサッカーをやってる。そうだな」
「はあ」
 ずいぶんな言われようだが、今日の行動だけ考えても申し開きはできない 立場なので素直にうなづく。
「なのに、翼は…あいつは何なんだ。なんでサッカーをやってるんだ。あん なに夢中になってプレイして、夢だの何だの言いやがって、何をおいても優 先しておきながら、あいつは――なんであんなに辛そうなんだ!」
「日向さん、おっ、落ち着いて…ううう」
 首を締め上げられて必死に手をばたつかせる。
「あんな顔して岬を待ち続けて…。あいつがほんとに待ってるのは岬自身よ りも何か答えなんじゃねえのか? あいつが必要な答えを岬が持ってくるの をああやって待ってるんだ!」
「でも、誰も答えを持ってたりしないですよね。自分の欲しい答えは自分だ けが持ってるんですから」
「あああ、健ちゃーん、助かったぁ」
 無表情に日向の手から反町を取り上げて、若島津はゆっくりと日向の前に 立った。
「あんたは、翼に何もしてやれないって自分に腹を立ててますけど、今はそ のほうがあいつのためだって思いませんか。もしかしたら、答えを持って来 てくれそうな岬よりも、何も持っていないあんたのほうがあいつの救いにな る、ってね」
「う、うるせえ…!」
 日向は声を上げかけて急に口を閉ざした。力が抜けたようにまたベッドの 上にどすんと腰を下ろす。
「誰だっていいんだ。別に岬でも俺でも、他の誰でもな」
「救い出せさえするなら?」
 会話が止まったところで、別の声が上がった。
「あのー、重いところ悪いんだけど…」
 今命拾いばかりの反町が、床にぺたんと座ってパソコン画面を覗き込んで いた。その目がきらきら輝いている。切り替えの早い男である。
「岬だよ、岬がつかまった! あいつ、連絡してきてたんだ!」
「なんだって?」
 なぜ床なのかはさておいて、その背後に2人を立たせたまま反町は届いた メールを読み上げた。
「そりまちくん、こんにちは。ぼくはげんきです。いまそうるにきていま す。もうすぐあえるのをたのしみにしています」
「なんだ、それは!」
 じれて叫ぶ日向である。
「変だなあ、自動翻訳ソフトが調子悪いみたいだ。こんな日本語に訳しちゃ って」
「――なぜ翻訳なんだ」
 時々疑わしいものの、岬も反町もどちらも日本語を使う日本人のはずであ る。
「そりゃ、日本語で書くと何かとまずいことがあるからでしょ。監視とか盗 聴とか。時々フランス語で来るから、翻訳ソフトが対応するようにしてある んだ」
「いつどこで出したものか、わかるのか?」
「待って。――ええと、発信時間は今日の午後5時50分。場所…って言っ てもとりあえずソウル市内のアクセスポイントを使ってるってことしかわか んないな」
「あいつが今日の便でソウルに来たことなんかもうわかってるんだ。そんな に喜ぶことか?」
「あのね、健ちゃん。これは、あいつが自分から連絡しようって意思でもっ て自分の手で送ってきたものなわけ。しかもこんな前向きな内容! すごい よ、絶対」
「……」
 価値観の差、と言うよりも、こういう通信手段に常日頃から依存している ような人種との差を感じずにはいられない2人だった。
「なんともう1通来てるじゃん! おお、こっちは日本語だ」
 発信時間はほんの小一時間前。反町はそう告げてまた読み上げた。
「反町くん、こんにちは。ボクは元気です…いてっ!」
「そんなことは書いてねえだろ、ちゃんと読め、反町」
 いきなり頭に強力デコピンを見舞ったのは若島津、命令しているのは日向 だった。
「『やっと連絡ができるようになったよ。今夜はそっちに行けないけど、明 日、蚕室総合運動場で会えるはずです。翼くんは怒ってないかな。では明 日。――岬』…だって!」
「なんとまともな連絡だ。本物か?」
 若島津が覗き込んでくる。
「ね、その翼はどこにいるわけ? 教えてやんないと」
「夕食後は若林とボールを蹴ってたが。さて?」
「もうこんな時間だよ? まだやってたりしないだろ」
 そのはずだった。まさか蹴っているうちに我を忘れて熱血しているなんて ことはないと思うが。
「若林が一緒なら大丈夫なんじゃない?」
「俺がどうかしたか?」
 開いたままのドアの前に、その若林が立っていた。
「うわ、びっくりした! 翼と一緒だったって話してたんだよー」
「え、俺は知らんぞ。練習はこれくらいにして休めって切り上げて、とっく に部屋に帰したが」
「じゃあ、一体?」
 反町がそう口にするより先に誰かがすごい勢いで飛び出して行った。まさ に瞬間湯沸かし機の進化型であった。
「まあ、これも解決のうちか。少なくとも閉じ篭ったままよりはいい」
 若島津はちらりと反町を見下ろした。
「夕方からずっと考え込んでたからな。これ以上頭を使うと壊れかねないと ころだった。助かったぜ、反町」
「い、いやぁ、それほどでも、健ちゃん」
「ここまでお膳立てしたんだから、後は日向さん次第ってことだ。どう転ぶ かは知らんが、日向さんに任せて俺は寝るとするか」
「あの…、健ちゃん? まさかと思うけど…」
「翼に呼び出しをかけといたんだ。あとは若い方同士にしてあげましょう。 ね?」
 にっこり笑顔を見せる若島津に、反町の背が凍った。
「健ちゃん、怖いから。それやめて! お願いだからっ!!」
「やれやれ。進歩のない連中だ」
 肩をすくめながら若林が去った後は、選手村の夜がしんしんと更けていく ばかりだった。









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