COUNTDOWN O'CLOCK










「ん? なんだ、この動きは…」
 ロンドンの証券取引所と直結した画面が、刻々と数字の動きを映し出して いた。常に彼の思惑通りの流れが一つのリズムを作って心地よく見ていられ るはずのその数字たちが、今奇妙な不協和音を響かせ始めたのだ。
 側の受話器を上げて、シティにいる担当者を呼び出す。
「いえ、それが我々にも読めない何かの介入がなされているようなんです。 ええ、ここ数時間のことです。ニューヨーク市場もさっき開いたばかりです が、こちらも同じ事態が起きていますね。連絡取りますか?」
「いや、自分でやる。ありがとう」
 不穏な匂いだ。
 彼はそう考えた。自然、偶然という言葉をも自分の手で自由に作り上げて きた自負が、根元からぐらつく感じさえした。
「ここ数時間だって?」
 彼はふと思いつく。
 数時間前、ソウルの最高級ホテルの最上階で、財界のキーパーソンたちが 顔を合わせていたのだ。規模の違いはあるにせよ、それは財界だけでなく政 治の表舞台さえも動かし得る場であったはずだ。
「誰かが裏切った、とでも?」
 あの中の誰が…。
 そう思った目の前で、パチン、と何かが弾けたように数字が一つ消えた。 「なんだ!?」
 急いで検索すると、資産停止中、の表示が出てそれ以下は空白になる。
 ついさっき会合で笑っていたあの男の会社がなぜこんなに突然…?
 ふと気になって会合で隣にいた金融大手の優良企業も検索したが、やはり 同じ表示が出て、こちらは株式市場での取引中止と告げていた。
「そんなはずは…」
 何が起こっているかさえつかめずに、背筋が冷たくなっていく。
 そんな思いを、今度は内線のベルが断ち切った。
「こんな時間に? どういうことですか」
 彼はかすれた声でまずそう答えた。
『至急面会したいと、そうおっしゃっているので…』
 電話の向こうでフロントのスタッフの英語が静かに響いて、イエス以外の 返事は認めないという空気を作り出していた。
 選手村第14エリアに建つ南館に、深夜の訪問者が来ていると言う。そう 聞かされて、彼はやむなく立ち上がった。クローゼットからガウンを出して 羽織る。
 エレベーターで1階に降りる。ロビーは既に照明が落とされ、フロントの ところに一列白色灯がついている以外は淡い間接照明が点々とあるばかりだ った。
 日本選手団の要谷理事は、そのロビーに歩を進め、そこに一人の人影があ るのを見た。
「面会っていうのは――」
「あ、今晩は」
 声を掛けながら近寄ると、その人物が振り返った。まだ若い、おそらく未 成年と思われる、そしてどこかで見覚えのある顔がにこっと微笑んで彼に挨 拶を返した。
 フロントを見やると、カウンターには誰もいず、音さえしない。要谷氏は 不審げに周囲を見回すが、フロント奥のオフィスもしんと静まっている。
「いったいこれは…」
「先ほど取り次いだのは僕ですよ、要谷さん。こちら誰もいなかったので、 自分でお部屋を調べて掛けさせてもらいました」
「え、フロントは24時間態勢のはずだが。電話も英語だったし」
 ロビーに立つ訪問者、三杉は黙って軽く会釈した。それ以上の説明は必要 なし、という意思表示に見えた。
「突然、しかもこんな時間に申し訳ありません。今すぐでないと手遅れにな る可能性があったものですから」
「一体何なんですか」
 要谷氏は三杉にロビーのソファーを勧めて自分も腰掛けた。
「選手団の上司でもいらっしゃる延井さんをご存知ですよね。今日も『香柳 閣』で揃って接待をなさってましたし」
「さて、いろいろ予定が混んでいたから一つ一つは記憶していませんが。そ の延井さんがどうかしたのですか?」
 あくまでポーカーフェイスを崩さない要谷氏に対し、こちらは穏やかな笑 顔を保ち続ける。
「あの方がご執心の南龍グループですが、近く背任で告発される事態に発展 しそうなんです。後継者問題も棚上げにされたままですし…。と僕が申し上 げてもすべてご存知のことばかりのようですね」
「おっしゃる意味がわからないな」
 要谷がそう応じると、三杉はちょっと考えてこう提案した。
「ではおわかりになるように資料を揃えて出直しましょう。明日、もう一度 面会をお願いします。どうですか?」
「うーん、明日はなにしろ開会式リハーサルに立ち会うことになっている し、時間が取れないと思いますね、残念だが」
「いいえ、会ってくださることになります。必ず。ではその時によろしく」  態度こそ丁寧だが、やたらに強引な会話に持ち込んでくる。必ず、とまで 言い切って出て行く三杉を要谷は不愉快そうに見送った。ロビーにまた静寂 が戻る。
「まさか!」
 もう消えて行ってしまったその背中を、ぱっと顔を上げて目で追った。
 さっき自室で見ていた不穏な株式の動き。見えない所からの悪意ある介入 は今の訪問者の言葉と連動していないか。
 今日の接待、そしてホテルでの会合を持ち出したことがそれを裏付けてい る…と彼は合点した。
「明日、何を持ち出してくる気なんだ…」
 得体の知れない不安だった。
 長年の経験に培われてきた確かな自信がじわじわと揺らぐ。
「いや、大丈夫」
 ひやりとしたものを残しつつ彼はつぶやいた。薄く笑みを浮かべてようや く立ち上がる。一体、何者が彼の基盤を崩すことができるだろう。曖昧な不 確定要素など、はねかえすだけの力がこちらにはある。
 しかし、死角は思わぬところにこそ潜んでいることを、彼の経験はもっと 警告すべきだったのだ。













「おい!」
 闇に向かって日向が呼び掛ける。
「おい、いつまでやってんだ。帰るぞ!」
 返事はない。が、その代わりのようにボールがころころっと日向の足元に 転がってきた。それを不機嫌そうに見下ろす。
「こんなボールじゃ、俺はゴールを決められねえだろうが。すねてねえで、 とっとと寝ちまえ、もう」
「――すねてないもん」
 白い姿が闇の中から近づいて来た。まっすぐに日向の前に来て、じろっと 睨み上げる。
「俺はサッカーがしたいだけなんだ。なのにさせてくれない日向くんなんか キライだよ」
「ああ、嫌いで結構。サッカーは罰ゲームじゃねえ。苦しいならしなきゃい い。苦しいことが義務だなんて思うことねえんだ」
 翼はむっと口を結んだ。不本意な言葉だったのだろう。
「なんだよ、それ! 俺はサッカーが楽しいよ! 楽しいからやってるんだ よ、苦しいのを我慢してなんか――」
「いねえって?」
 日向はボールを足で浮かせると、片手に受け止めた。
「なあ、翼。今日、あそこでおまえ何を聞かされた?」
「何って、あの時話した通りだよ」
 まだふくれっつらのまま、翼は目だけを上げる。
「それだけじゃねえだろう」
「――知らないってば」
 そっぽを向く翼を、日向は困った顔で眺めた。
「交換条件じゃねえのか、岬をどうとかの」
「違うよ」
「俺なんかのアタマじゃ、岬が考えてることなんぞわかるわけはねえけど、 おまえを見るとなんか、幸せになるために不幸な手段を選んでるみたいで よ。なんかこう、じれったくなる時があるんだ」
「日向くん?」
「――岬はそれを望んでるのか? いやしねえだろ。絶対そんなことは望ん でねえ。おまえが一人で決めつけてんだ」
 翼は完全に黙り込んでしまった。日向には背を向けて、闇をじっと見つめ 続ける。その向こうにあるものをなんとか見ようとしているかのように。
 どれくらい経ったのか、植え込みのブロックに腰を下ろしていた日向が気 配に顔を上げると、翼がそこに立っていた。
「――誰かに話しても無理だと思ってたんだ。だったら黙ってようって」
 何を、とは尋ねずに、日向は立ち上がる。
「おまえはおまえの分だけ抱えてればいいさ。他人の分まで、抱え込むこた ねえ」
「うん」
 こくん、と小さくうなづく。
「日向くんてさ、俺のそういうとこ、いつも見抜いちゃうんだよね。なんで だろ」
「俺がじゃなくて、おまえが見せてんだぞ。俺にわかるようにしてんじゃね えか」
「えっ、そうなの?」
 自覚はないわけか。
「ま、同類だからってだけかもしれねえけどな」
「いいな、それ」
 やっと笑った。
「見抜かれるのも悪くないよ。ちょっと、楽…かも」
「こんなことで楽になれるなら世話ねえな」
 2人はゆっくりと歩き始める。ボールは翼の足元で軽い音を立てていた。 「三杉くんに相談するよ。俺のアタマも、岬くんにはついてけないから」
「ああ、あいつらはあいつらで同類だからな」
 笑おうとして、日向の足がぎくりと止まった。
「おい、そんなことをあいつが聞いたらただじゃすまねえぞ」
「――松山くん?」
 振り返った翼が叫んだ。
「頼むのはいい考えだと俺も思うけどな」
「無事だったんだ! 人質にされてたんでしょ? 痛いこととかされなかっ た?」
「大丈夫だって。よく見ろよ、俺を」
 いや、ちょっとぼろぼろになってる気もします。
「な、門限には間に合っただろ、翼」
「抜かせ! おまえらはほんとに毎回毎回…」
 翼には力いっぱい抱き締められ、日向には頭から怒鳴られ、それでも松山 は嬉しそうに笑っていた。
「佐倉さんもちゃんと戻って来たぜ。ああ、あの体操コンビも、みんな無事 だから。心配かけちまったみたいだな、悪かった」
「岬くんは? そこにはいなかった?」
 翼の表情に浮かぶ微かな不安を見てとって、松山は首を振って笑ってみせ た。
「おまえ、岬が犯人グループの仲間になってる、なんて心配してたんだろ。 あいつな、佐倉さんを無事に返してくれって言って自分は代わりに残ってる んだ。犯人たちも、岬をフランス語の代筆とかに重宝がったりして」
「そうなの? なんだ、そうだったの?」
 見るからにほっとした顔になって、翼は何度も念を押す。余程気になって いたのだろう。
「てめえはほんとに鉄砲玉だな。どこまで飛んで行くか、わかったもんじゃ ねえ」
「しかも散弾銃ときてるからな」
 松山はからからと笑った。
「で、その淳は?」
「三杉くん、そう言えば…」
 翼が口ごもった。
「まだ帰ってない」
「選手村には戻ったはずだが。反町がそう言ってたし」
 3人は、それぞれに顔を見合わせることとなった。









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