COUNTDOWN O'CLOCK










「おや、延井さん」
 扉を開いたそこに、予想しなかった顔があったので要谷氏は驚いたようだ った。
「昨夜はどこにいらしたんですか。連絡が取れなくて心配していたんです よ」
「ああ、すまなかった。迷惑をかけたね」
 延井栄一郎氏は口元を歪めた。そのどこか重苦しい表情に、直属の部下で ある要谷氏は内心首を傾げる。いつもの横柄なまでの活力が弱まっているの だ。
「とにかくお入りください。まもなく始まりますから」
「ああ。…あ」
 その背後にいた警備の軍人が横に動いて、何やら口ごもっている延井氏の 陰にいたもう一人に道をあけた。
「僕もご一緒してよろしいですか」
「あ!」
 要谷氏は声を上げる。そう、昨夜遅くに現われたあの訪問者だったのだ。 「延井さんとはロイヤル・ルネサンス・ホテルのパーティでご挨拶させてい ただんですが、昨夜あなたとお会いした後でもう一度訪ねて一緒にお話しを していたんです。色々と勉強になるお話を聞かせていただいて、つい時間を 過ごしてしまったんです」
「そ、れは…」
 疑問をあふれさせつつも、そのそつのない言葉遣いに要谷氏は拒否する隙 さえ失ってしまった。
 ここはスタジアムのメインスタンド上にあるロイヤルボックスの一つで、 大きなガラスをはめ込んだ見晴らしのいいブースになっている。
 ここに、日本選手団からの代表として延井栄一郎氏とその側近にあたる数 人が同席していたのである。
「自己紹介が遅れました。僕はサッカー代表チームの三杉といいます。今日 は延井さんや皆さんにお願いがあってうかがったんです。お邪魔かとは思い ますが、ご一緒させていただきます」
「――選手、だって?」
「あ、ああ。まあ君、そちらにでも掛けたまえ」
 眉をひそめる要谷氏をさえぎるように、延井氏が半円形に並んだソファー の片側を指した。やはりどこかいつもと態度が違う。特に、その若い選手と さっきからまったく目をあわせようとしていないのが不自然だ。要谷以外の 2人もそれを感じたのか、不安そうに顔を見合わせている。
 眼下のグラウンドでは、華やかに、壮大に、開会式のためのダンスや演技 が繰り広げられていた。音楽と色彩と、そしてこの国の人々の熱気が波のよ うにその場いっぱいにうねっている。
「恐ろしいくらいの気迫だね」
 しばらく沈黙の中でその光景を見つめていた一同だったが、最初に要谷氏 が口を開いた。
「まさに圧倒されますねえ」
 その隣の一人――香柳閣で要谷氏と廊下にいた人物である――も感に堪え ないようにうなづく。
「民族的自負心、という言葉がよく出てきますが、打倒日本、と同じ意味に 聞こえることがありますよ」
「無理もないですがね、歴史的経緯から考えても」
「つまり、我々日本人からすると、このオリンピックは何かと複雑な気分を 味わえるってわけだな」
 プログラムの進行と共に交わされる会話は、特に盛り上がるでもなく、雨 だれのようにただ退屈に続く。
 その間、三杉はずっと沈黙したままだった。感情を表わすこともなく静か にリハーサルを見つめている。役員たちも次第にその存在を忘れ始めるほど だった。
 だが、一人だけ、忘れるわけにいかない人物がいた。
「あー、それでだがね、三杉くん。君の用は一体どういうことなのかな。お 願いが、と言っていたけれど」
 出演者の入れ替えで演技が中断したそのタイミングで、要谷氏がさりげな いふうに口火を切った。三杉も静かに顔を上げて、その要谷氏をじっと見返 す。
「スポーツ選手にとって厳しい現状を変えていただきたい、あるいは無くし ていただきたいのです。政治的な、経済的な側面から…、ということです ね」
「どうも抽象的ですな。詳しく伺えますか」
 要谷氏が身を乗り出した。三杉もうなづく。
「ではもっと具体的に話しましょう。僕のチームの一員である大空翼くん が、世界的資本であるスポーツ企業と直結するエージェントによって大変無 理のある移籍交渉を受け続けています。その企業はもちろんこのソウルオリ ンピックにも莫大な投資をしていて韓国の四大財閥グループを完全にカバー できる資本パイプラインを構築しています。これによってこの国に流れ込む 国際資本は一気に跳ね上がり、その経済効果は計り知れないほどです。結 果、このようなチャンスの場には利権を狙うさまざまな存在が当然のごとく 群がります。日本の大企業の多くが金融部門での参与を図る中、今回の政府 与党内の不測の勢力交替の流れがより確実な方向で迅速な結果を求める動き となりました。つまり――」
 突然とうとうと講義のような解説が始まって、役員たちは思わず居住まい を正しそうになった。自分が話を向けたことの責任を、というわけではない が、要谷氏は相槌を打つタイミングを必死に待っていたのだ。
「つまり?」
 と、さらに身を乗り出す。三杉はちらっとその顔を見た。
「――つまり、いい加減うざいんです」
「は?」
 他の者たちも思わず硬直した。
「翼くんのことは放っておいてほしいんです。昨日も彼を呼び出してスポン サーを紹介したり、さらに他の選手へ干渉を広げるなどと言って圧力を掛け たりということが残念なことに我が選手団の内部で行なわれています。翼く んはあなたがたの金づるじゃないしゲームの駒でもない。僕らスポーツ選手 はただスポーツをしたいんです。援助のような保護のようなふりをして干渉 されるのはまっぴらなんです」
「君、いったいそれはどういう…」
 専門家のような顔で講義したかと思うと高校生に戻り、素朴に率直にスポ ーツバカの語り口になる。
「この説明でもわかってもらえませんか? ではもっと詳しく最初から話し ましょう。国際資本の流れと各国政府の金融外交が――」
「い、いや、それはもういい」
 あわてて止めたその気持ちは他の役員も同じだったらしい。三杉が話しや めたので、一斉にほっとした顔になる。
「私が言いたいのは、君たち選手の立場を第一に考えるべきでは、というこ となんだ」
 要谷氏は軽く咳払いをして話し始めた。
「君たちは未来ある若者だ。こういうことは我々大人に任せておけばいい。 そのために我々がいるのだからね。従ってさえいれば未来が開けるんだよ。 何も逆らうことではなかろうに」
 三杉はわずかに眉を動かしただけで黙っていた。その沈黙が、こちらで別 の効果をもたらしたようだ。ずっと何の発言もせずにいた延井が、ここで言 葉を挟んだのだ。
「いや、要谷くん、聞いてくれ。確かに私と君は昨夜のあのパーティで韓国 の要人たちと内密で話をさせてもらってきた。――ああ、いいんだ、この三 杉くんもあそこに来ていたんだから。南龍グループの後継者は、ハ代表の息 子ではなく私の関与している別のグループから送り込む計画はどうやら無理 ということがわかった。彼の示したいくつかの資料を考慮して、断念せざる を得ないことがわかったんだ。君にも協力をしてもらってきたのに、申し訳 が立たない。すまん、要谷くん」
「この選手の、持ち込んだ資料が…? そんな馬鹿な」
 延井が取り出した資料ファイルを急いで拡げる要谷だった。
「どこからどこへ、とはここでは言いません。不正蓄財の温床になっている 企業がどこに繋がっているのかという事実を、昨夜延井さんとじっくり話し 合ったんですよ、あなたの名前がそこに関わってくるのでは、という点を」 「事実無根だ、まったく馬鹿馬鹿しい。これでは証拠にもなりはしない。こ んな小ざかしいデータで私たちを追い詰められると思ったら大間違いだよ、 君」
 要谷はできうる限り冷静を装おうとした。事実、示されたデータは完全な ものではなかった。こういう時のためにいくつか抜け道も用意してある。最 終的に証拠不十分と判断されればいいのだから。
「そうでしょうか」
 しかし三杉はそれ以上に冷静だった。静かに要谷を見返している。挑戦的 な態度はどこにもない。なのに威圧感がじわじわと襲ってくるのはなぜなの だろう。
「この件からはもう手を引きなさい。君自身のためにも、大空くんのために もそのほうがいいと思うがね」
「それはある種の脅しとも取れますが」
「脅しなら君のほうじゃないか。こんな、あることないこと持ち出してきた りして!」
「ないことは含んでいません。あることと、ありそうなことです」
 三杉は延井氏を目で指した。
「延井さんは政府の方でつまり国家公務員でいらっしゃるので民間人である あなたとは対応する法律も違ってきます。僕がまず彼のほうから調べさせて いただいたのはそういう理由からでした。しかし実際に今回の件で主導権を お持ちなのは要谷さん、あなたのほうだ。僕はあなたに直接お願いする必要 があるんです」
「まったく、言い掛かりにも程がある」
 要谷はまだ強気だった。彼から見れば三杉は高校生で未成年、そして一選 手に過ぎない。ここで退くにはあたらない、と読んだようだ。
「そういう話ならもう帰ってもらおう。君も本来の仕事があるだろう。メダ ルとまでは言わないから、一つでも多く勝利をあげられるようにさっさとボ ールを蹴りに行くんだな」
 三杉はため息をついた。
「そこまでおっしゃるなら僕も考え直すしかないですね」
「そうとも――」
 勝ち誇ったように要谷が声を上げようとしたその時、三杉が腕を伸ばして ブースの彼方にまっすぐ見えている電光掲示板のオーロラビジョンを指し た。
「僕も本当に不本意ですが、一番助けてほしくない人に助けてもらうことに します」
「…? 何だって?」
 三杉が指している画面には、その場面ごとに使われる音楽に合わせて、美 しい色彩パタンや国内の自然をテーマにした映像が間断なく映し出されてい た。その映像画面と並んでさらに文字メッセージがテロップ面に流れてい る。
 その場の誰一人気づいていなかったことではあったが、ハングル文字と英 文の両方で、淡々と数字データが示され続けていたのである。
「お読みいただけますか?」
「う! まさか…」
 他の役員を押しのけてガラス窓に張り付いた要谷氏は、双眼鏡をぐっと目 に押し付けた。沈黙が流れ、やがてその双眼鏡が細かく震え始める。
「ど、どうやってあんなものを、あんな所に流せるんだ! そんな真似がで きるわけがない!」
「でも現に流れていますよ。ちなみにこの最終リハーサルは一部生中継され ることになっていますよね。本番だけに残した極秘演出など放映できない場 面では、音声だけにしておいてあのオーロラビジョンの映像がそのまま中継 画面に差し替えられるんです。もちろん、あの文字も」
 どすん、と大きな音がして、要谷氏がソファーに腰を落とした。こちらの 隅では、延井氏がずっと頭を抱えてソファーに沈んでいる。
「大丈夫ですか?」
 三杉が、優しく微笑んだ。









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