COUNTDOWN O'CLOCK






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 山本はまったく単独での海外出張はこれが初めてだった。京子の付き添い と言うか、お目付け役でなら経験があるのだが、一人となるとなんだか身が 軽すぎて逆に落ち着かない。それだけ京子に目を配り気を配りする状況が身 に染み付いているとも言えるが。
「貧乏性の一種かな、これって」
 成田からわずか2時間半。あまりのあっけなさに感覚のほうも暇になって いたからかもしれない。普段なら見落として当然のような小さな「異変」が 感知されてしまった。
「――あれ?」
 空港のざわめきの中に日本語が混じっていた――そんな気配に山本は振り 向く。
「何だろう、あの女の子」
 ソウルの金浦国際空港第1ターミナル。大韓航空以外の各社の便が到着す るここは、今日もオリンピックを目指して世界の各地から訪れる人々でごっ た返していた。韓国語はもとより、それこそさまざまな言語が飛び交う場だ が、そんな中から山本の耳がその声を拾ったのは、それが日本語だからとい うよりも、その切迫した響きのせいだったかもしれない。
 到着ロビーからそのまま外に出るゲートがいくつかあるのだが、そのゲー トの一つを若い女性が走り抜けていくのが目に入った。
「待ちなさいっ!」
 そう叫んだのを最後に、女性の姿はターミナルの外に消えた。山本が呆気 に取られながらふと見ると、ロビーの真ん中でへたりこんでいるおばさんが 目に入った。その人のものらしきスーツケースやバッグが床に転がってい る。
「あの、大丈夫ですか?」
 胸に付けているツアーバッジの文字から見当をつけて、山本は日本語でそ のおばさんに声をかけた。
「あっ、あ…、大丈夫です…けど」
 まだ動転しているのか、おばさんはなかなか言葉が出て来ない。しかし、 日本語で呼び掛けられたことで少しは我に返ったのか、山本の手を借りてよ うやく立ち上がった。
「何があったんですか?」
「ひったくり、なんです」
 震え声でおばさんは答える。
「入国スタンプをもらってそのままパスポートを手に持って出て来たら、そ の出て来たところで誰かにぶつかって来られて…」
「パスポートだけひったくって行ったんですか?」
「…ええ」
 おばさんの声が沈む。
「ツアーで着いて、私だけ手間取って遅れて出て来たんです。みんなに追い つこうと、そっちに気を取られてて」
「じゃあ、さっき追いかけてった若い女の子は? ツアーのお連れなんです か?」
「いえ、たまたま通りかかった人だと思います。私が、パスポート盗られた って叫んだから」
「どっち行ったかな…」
 そこへ一目でツアーのグループだとわかる日本語の一団があたふたと近づ いて来たので、山本は後を任せて出口のほうへ急いだ。
「すごい勢いだったけど、あの子。どうしただろう」
 建物の外に出て、リムジンバスなどの行き来するバスターミナルまで来て みたが、やはりさっきの女の子の姿はない。
「まずいことになってたりしないよな」
 山本が思ったのは、スリやひったくりを深追いするのは逆に危険だという ことだった。単独犯でもそうだが、集団でこのような犯罪を繰り返している ような連中だと、下手に追うことで反撃されることもあり得る。学生の頃に 外国を放浪旅して回った経験のある山本はそれに似た話を嫌というほど聞い ていたし、何よりもさっきの若い女性がその威勢のよさとは裏腹にごく小柄 で細身の体格だったことを思うと、不安が増す。
「パスポートだけ狙うってのはプロの可能性大、だな」
 山本も噂には聞いたことがあった。犯罪がらみの不法出入国など、裏社会 で使われる偽造パスポートは本物のパスポートを加工して作られることがほ とんどなので、それを商売のネタにしている犯罪グループにとっては今回の ような国際的一大イベントはまさに格好の稼ぎ時ということになる。需要の 多い先進国のパスポートほど商品価値も高いとの話だから、空港にしろ繁華 街にしろ油断は禁物というわけなのだった。
 山本は反射的に自分のスーツの内ポケットあたりを押さえた。荷物はデイ パック一つだから、守るべきものはパスポートとクレジットカードくらいだ ったが、そういう危険な連中が現に出没しているとなると用心せずにはいら れない。
『――○○航空601便でご到着の○○ツアーの○○さま…」
 その時、ロビーの案内アナウンスが響いて山元ははっとした。彼が乗って きた便名である。さらに日本語でアナウンスされているということは、さっ きの女性では。山本は中へと取って返す。
 到着ゲート正面の総合案内所のカウンターに、案の定さっきの中年女性の 姿がある。ツアーグループの人たちと一緒に、笑顔で係員にお辞儀を繰り返 していた。
「見つかったんですね?」
「えっ、ああ、先ほどはどうもありがとうございました。おかげさまで」
 添乗員が山本を振り返って嬉しそうに頭を下げた。
「どなたかが見つけて届けてくださったようなんです。係員の話だと若い日 本人だったらしいんですが」
「女の子ですか?」
「あれっ、高校生くらいの男の子だったって言ってましたけど」
「…男の子?」
 山本は首をひねった。あの女の子に連れがいたのだろうか。何か釈然とし ないものを感じながら、再び外に出る。そしてタクシー乗り場まで来て列に 並ぶと、そこからもう一度ターミナルを振り返った。
「――うっ!?」
 目を疑うというのはこのことだった。山本はショックで凍りついた。
 ターミナルの2階に通じる大きな外部階段の途中に一人の少年の姿があ る。しきりに周囲を見渡しているその顔に、思い切り見覚えがあったのだ。 「み、岬…!」
 呆然としている間に、その背後の通路のドアが開いて、のろのろともう一 人が顔を覗かせた。岬はそちらに何か呼び掛けて、それからドアに向かって 階段を駆け上がって行く。
 岬に連れられるようにして出てきたのは女性だった。さっきの勇敢な追跡 者に間違いない。二人は階段の上まで来て足を止めた。
 二人の視線はターミナルの出口の一つに向けられていた。が、すぐに向き を変えると通路を反対側に走り出した。その姿はすぐに建物の陰に見えなく なる。
 と、二人が降りようとしていた階段の下にも人影があった。こちらは男た ちが数人いて、何か大声でもめている様子だ。
「――お客さん、乗らないんですか?」
「えっ?」
 声を掛けられて山本が気づくと、タクシーの運転手が窓から不思議そうに こちらを見ている。いつの間にか順番が来ていたらしい。背後に並ぶ人たち の迷惑そうな視線に、あわてて山本はタクシーに乗り込んだ。そのまま走り 出したタクシーの窓から振り返ってみたが、岬の姿も、怪しげな男たちの集 団ももう見えない。
 諦めて山本は深くシートに身を沈めた。思わずため息が漏れる。
「見なかったことに、しよう」
 それで済むはずのないことはわかっていても、そう願わずにいられない東 邦学園非常勤講師山本和久(28)であった。











 ソウル市を流れる漢江南岸に広がるこのオリンピックエリアは、もともと あった遺跡公園を中核として新たに開発された地域である。地下鉄の路線延 長や新しい橋の建設などを含めて交通機関は便宜が図られていたが、やはり これだけの規模で一点集中すると当初の青写真通りには運ばないことも出て きてしまうようだ。
 中でも切実だったのが、連日の極端な交通渋滞だった。
 特に朝夕のラッシュ時にはハイウェイまでが車の列に埋め尽くされて、こ とい報道関係者の間ではすこぶる評判が悪かった。
 現実問題として、選手村に隣接するプレスセンター兼宿舎に缶詰め状態を 強いられることが少なくなく、常にイライラと歯がゆさの中で仕事する羽目 になったからだ。
「電話とテレックスだけで取材ができるなら苦労はないんだよ!」
 東都新聞社の笠元は渋い顔で椅子の背にもたれ、天井を睨み上げていた。 待ちかねている情報は一体どこで滞っているのやら、何の音沙汰もない。
 と、そこへ携帯電話の音が響いた。笠元はすごい勢いでそれに飛びつく。 「田島っ!?」
 相手の声を確認する前に大きな声を上げた笠元だったが、明るくなりかけ ていた表情がすぐにがっくりと沈んだ。
「岡か。どうだ、そっちは」
 開会式も間近に迫り、JOC役員など関係者たちもさみだれ式に次々とソ ウル入りしてくる。その入国ラッシュの空港で張り番をしている岡記者から の定時報告だったのだ。
「さっき日本から着いたNHKのクルーに顔見知りがいたんですけど、何か 今日の壮行会が延期になるかもしれないって、そんな話をしてましたよ。そ っちで何か入ってますか?」
「ん〜?」
 笠元は頭をかき混ぜながら手元のメモに目を落とした。
「長老が急死したからって、こっちにそこまで波及するかな。ちょっとその へんはまだ確認が取れてないんだ。でも時間的に見てももう結論が出てても おかしくないよな。こっちでも誰かつかまえてみるよ」
 電話が切れた後も、笠元はしばらくじっと動かなかった。
 断片的な情報が彼の目の前でアメーバのように増殖、分裂を繰り返してい く。
 日体協とJOC、そして今回のオリンピックの最大スポンサー企業は、そ れぞれ与党内の別勢力がバックにあるため、過去に例を見ないほどの複雑な 力関係が渦巻いていた。長老の死去に伴う勢力争いが絡むとなれば余計にで ある。
「こりゃあ、思ったより話がややこしくなってきたな…」
 そのややこしい状況をさらにややこしくしているのが、田島が持ち込んだ 情報だったのだ。
『国際政治で確実に切り札を握っている、いや、切り札のありかを握ってい る奴なんですよ!』
 それがこの大会の出場選手の一人だと、田島は大真面目な顔で何度も力説 していた。が、その言葉をどこまで信じていいやら。
「ちょっと誇大妄想入ってないか、田島の奴」
 まさに鉄砲玉と化してそれきり戻って来ない同僚に、笠元はまたため息を ついたが、これに関してだけは田島記者の認識のほうが真実を突いていたこ とになる。まさに、身を持って知りえた事実だった。









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