COUNTDOWN O'CLOCK






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 小泉京子は選手の所属先の学校関係者というだけの存在ではなかった。ひ ょっとするとオリンピック選手団の役員幹部に相当するレベルにあったかも しれない。つまりその政治的影響力の大きさを物語っているわけだが、しか し今回彼女はその立場ゆえに、諸般の事情に縛られてソウル入りが遅れるこ ととなった。
「ああ、お待ちしていました。ご苦労さまです。どうぞそのままいらしてく ださい。セキュリティにはすぐに手配します」
 などという丁重な扱いをいきなり受けるほどに、京子の代理という名前は ここでも大いに力を発揮した。水戸のご老公の印籠並に。
 選手村までタクシーで着いた山本和久は、日本選手団本部と連絡を取るや 否やID発行をしてもらえる手筈となった。これで胸を張って選手村の住人 を名乗れるわけだ。
「おや、そこにいるのは…」
「あ、山本さん!」
 ゲートの一つを抜けた所で、山本は顔見知りを見つけた。呼び止められて 振り返った田島は、カメラバッグを下げた格好であたふたと駆け寄って来 る。
「来たんですね。あ、やっぱり一人で?」
「そういうことです」
 山本氏が小泉京子の付属品のように見られがちなのは今に始まったことで はないが、今回は事情が少し違う。彼女は来たくても来られない状況にある のだ。やっぱり、と応じるからには、田島も日本選手団本部と同じく事情は ちゃんと把握しているのだろう。山本はうなづいた。
「さすがに今度ばかりは動かせないですよ。いくら京子さんでも。政局を左 右する一大事ですからね」
 そう、与党長老の急死は永田町に大激震を引き起こした。その揺れの真っ 只中で奔走している一人に、京子も今加わっているわけだ。
「開会式に間に合わないって、すっかり落ち込んでましたよ。――ん、田島 さん、どうかしたんですか?」
「い、いや、ちょっとね」
 ゲートのほうをしきりに窺っている田島を、先に歩き出そうとした山本が 不思議そうに振り返った。田島は大きくため息をついて口を開く。
「着いたばかりでこんな話を聞かせるのは忍びないですが、あの連中、また 動いてるんです」
「連中…」
 眉を寄せ、途端に警戒する顔になった山本を、田島は共感を込めて見つめ た。これだけで何のことを言っているかがわかってしまうあたり、悲しい同 類というわけである。
「今日選手村入りした直後に、あいつら宿舎を抜け出してそれっきりなんで す。それに体操女子の選手も一人、その前から行方不明で…」
「なんだそれは――」
 山本は棒立ちになった。
「体操の、選手ですって?」
「そう。それに聞いてくださいよ。その選手、ああ佐倉選手って名前です が、岬くんのファンだっていうんです。もう僕もそれだけで嫌な予感がして …」
「――それ予感じゃないですよ、田島さん」
 山本は我に返って、田島に向き直った。
「は?」
「俺が見たのがきっとそうなんだ。その体操の選手って背は小さめで髪の長 い子じゃないですか?」
「え、ええ。そういう感じ…だけど…」
 田島がゆっくりと目を見開いていく。
「空港で見たんです、岬を。同じくらいの年頃の女の子と一緒に。日本人観 光客がスリに遭ったのを追いかけてってトラブルになったみたいで…」
「おいおい…」
「佐倉さん、ほんとに岬くんと一緒だったのか! 嘘だって思いたかったけ ど…」
 2人は俄然早足になった。向かうのはまず日本選手団の本部である。
「そんな大事な選手をなんで岬くんの手に渡したりしたんです、無事に済む わけないでしょうに」
「いや、渡すもなにも…」
 知らずに聞いていたら変な方に解釈されそうな表現だが、事実はもっと凶 悪な方向に向いている。
「自分から会いに行っちまったみたいで、もう。彼女もファンなんて生易し いこと言ってられない立場なのに、ほんと」
「岬くんの正体を知らないだけでしょうけどね」
 山本はむっつりしたまま低くうなる。さらに問題なのは、岬太郎が分身の 術を使って各地で同時発生しかねないということだった。その相乗効果たる や、世界規模ではた迷惑を波及させていくのに十分すぎるくらいなのだ。
「あ、あれ!」
 田島が突然叫んで足を止めた。
 宿舎棟に向かう手前にあるレストランモールの一角に、王朝風の様式を模 した豪華な建物がある。宮廷料理をメインにした、最高級のレストランだ。 周りは多国籍な料理を用意した巨大カフェテリアを中心にごく庶民的なファ ーストフード系の店ばかりであるから、そこだけが次元の違う空気をまとっ ていると言える。
 この大会では一部の国の有名選手が選手村入りを拒否して市内の高級ホテ ルに滞在するなどの「格差」が話題になったくらいだから、これもその一つ の表われと言えなくはない。もちろん選手村と言っても選手だけではなく各 国のVIPレベルの訪問者が多く訪れるわけだから、このような配慮もされ たのだろうが。
「何ですか?」
 山本もすぐに止まってその指差す方を見やる。田島は反射的にカメラバッ グに手を動かしながら、大きな目をさらに大きくしてそちらを凝視してい た。
「今、翼くんが――あのレストランに入ってったんです!」
「えっ、まさか? …あっ!?」
 最後は二人の声が重なってしまった。
「日向!」
「なんか、もめてるぞ」
 その翼の後を追うように現われた日向が、その高級レストランに入ろうと したその入り口付近で、スーツ姿のスタッフ数人にさえぎられて何やら押し 問答になっている様子だ。が、すぐに中から出て来た年長のスタッフがそこ に声をかけて騒ぎは静まり、日向は中へ案内されて行った。
 その一部始終をこちらから見守って、それから2人は顔を見合わせる。
「何が、どうしたっていうんだ?」
「さあ…?」
 沈黙が流れ、そして2人ははっと我に返るとまたそそくさと宿舎に向かっ て歩き始める。
 どうしてこうも、うちのチームは次々と…。
 声に出さなくても、山本と田島の思いは同じだった。











「なあ、ひーやん、この人、運転手さんの知り合いなん?」
「さ、さあ…」
 聞かれても大江も返事に困る。信号で止まっている間に突然タクシーの助 手席に乗り込んできた中年の男性は、今も運転手に向かって何かを話しかけ ていた。何が起きたのか、さっぱりわからない。
「それより、今、橋を渡ったやろ。三杉くんらのタクシーと離れてもた気が すんのやけど」
「えっ、あ、ホンマや! マズイんちゃう、なあ」
 運転手さんが英語さえもほとんど解さないのは、乗ってすぐにわかってい た。増して日本語などまったくである。
「あの〜、ボクら、go to the airport …やねんけど。OK?」
 関西弁交じりの英語で大江が声を掛けても、運転手さんはにこにことうな づくばかりで、車はどんどん賑やかな方へと向かっていく。
「松山くん、どうしますぅ?」
「って言ってもなあ、勝手に飛び下りるわけにもいかねえし、乗ってるしか ないだろ」
「売り飛ばされたり、せえへんよな」
「いつの時代のことや、真文。そんなんあるわけないって」
「マスコミに売り飛ばされたりしてな」
「うっわ〜、松山くん、それ笑えへん」
 妙なノリになってきた3人の会話が、その時ぴたりと一時停止した。い や、停止したのはタクシーのほうだったのだが。
「あ、降りるぜ、このおやじさん」
「メーター見て払ろてはる。やっぱり客やったんか」
 後部座席からの3人分の目がじっと集中する中、助手席にいた男性はタク シーを降りて繁華街に消えて行った。
「コンハンカジ」
 発車しながらいきなりそう言って、運転手が3人に笑顔を向ける。
「えっ、な、何ですかー?」
 身を乗り出しても言葉はやはり通じない。愛想はいいのだが、指を差して 何か説明しているその内容がわからないのではどうしようもなかった。
「今の客で時間は食ったけど、かえってこっちのほうが近道だ…って言って る」
「え、松山くん、わかるのん、韓国語?」
「――ような気がする」
 松山はにやっと笑った。直感こそが彼の味方なのだ。
「まあ、このおっさん、人が良さそうだし、ちょっと寄り道はしちまったけ ど空港へはちゃんと行けると思うぜ」
 樫と大江は顔を見合わせた。楽天家なのか、思考を投げてるのか。
 やはりこれは彼らの知らない世界、別次元の感覚だった。
「いろいろ勉強になんなぁ」
「うん、世の中広い言うか」
 タクシーはソウルの官庁街を抜けて再び漢江を渡るべく西へと走り続けて いた。









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