COUNTDOWN O'CLOCK










 ちょうど同じ頃、オリンピック大路と呼ばれる漢江南岸沿いの道路を、一 台のテレビ中継車が東に向けて走っていた。大きなパラボラアンテナの設置 されたルーフが何よりも目につくが、そのちょうど真下あたり、つまり機材 一式を装備した車内で、ひそひそと日本語の会話が交わされている。
「どう? 少しは気分良くなった?」
「大丈夫いうか、もうちょっというか…」
「もう、あんな無理するからだよ。熱があるならスリ追いかけたりしない。 いい?」
 薄暗がりの中、側で椅子にもたれている佐倉苑子さんを見下ろして、岬は 苦笑した。
「けどよかったんかしら、無断で乗ってしもて…」
「いいよ。ヒッチハイクみたいなもんだから」
 調整室としての機能を最低限揃えている中継車の内部は、今は照明も落ち て無人である。いや、無人ということになっている。この2人の侵入者を除 いて。
「どこまで行くか知らないけど、着いたところでお礼を言えばいいんだよ」 「そ、そうなん?」
「なにしろ緊急だったからしかたないよね」
 佐倉さんがどこまでも追いかけてくるものだから、下手に目立ちそうにな ってあせったスリグループの男たちは、わざと人気のないところに逃げ込ん でおいて逆に佐倉さんを捕まえようとしたのである。
 そこに割って入った岬が佐倉さんと一緒に逃げ回った挙げ句に、たまたま ドアの開いていたこの車に緊急避難したのであったが。
「けど、岬くんにあんなとこで出会うやなんて、すごい偶然やったね。ほん まに助かったけど」
「――君には恩があるからね」
「えっ?」
 佐倉さんが目を丸くするのは当然だろう。名前は前もってメールのやり取 りで知っていたとはいえ、岬が自分の顔まで知っているとは思っていなかっ たのだ。なのに、男たちに囲まれている時にいきなり名前を呼びかけられ て、少なからず驚いたのだ、彼女は。
 自分のバッグを乗せていた空港のカートをためらわず男たちに突っ込ま せ、そこに佐倉さんを引っ張り上げてその勢いのままスロープを爆走したば かりか、そのどさくさに盗難パスポートまでしっかりと取り返したのだか ら、見かけによらない凶暴さとはこのことだった。
「いや、こっちの話」
「そうやわ、岬くんのあの荷物、あそこで落としたきり…」
「ああ、あれなら大丈夫」
 岬は当然といった顔でうなづいた。突っ込んだ時にカートから放り出され た彼のバッグは逃げる時にその場に放置されたのだったが。
「選手村行き、って届け先のタグが付けてあるからそのうち届けてもらえる よ。遺失物として」
「まあ、ちゃっかりしてはる」
 佐倉さんは苦笑してからまた椅子に体を預けた。口調はそうでもないが、 やはり辛そうである。
「昨日からどうもちょっとマズイかな…て思ってたら、朝、もう熱が出かけ てたみたいで」
「なら、無理して空港まで来ることなかったのに」
「けど、岬くんがチームと一緒に着くかもしれへんて思ってじっとしてられ んかって」
「一緒じゃないって報道されてたはずだけど」
「でも来はったやん、ちゃんと。同じ日に」
 佐倉さんはにこにこしている。岬はため息を落とした。
「知らないよ、監督やチームに黙って迎えに来たりして」
「平気平気」」
 佐倉さんはひらひらと手を振った。
「岬くんとこんなして直接会えて、それだけでも夢がかなった言うか、監督 に怒られても全然かまへんて言うか」
「こんな目に遭っちゃったのに、のんきだねえ、君も」
 岬は後部ドアに近づいて、明かり取りの細いスリットから外を覗いた。空 港を出てからずっと走り通しだが、さて、どこへ向かっているのか。
「まだ川のこちら側を走ってるなあ。テレビ局に戻るつもりじゃないのか な?」
 と、その言葉が聞こえていたかのようなジャストタイミングで車が急にス ピードを落とした。車線変更をしようとしているらしい。
「どこか着くんだ。やっと」
 中継車は幹線道路からより狭い道路へと入って、何度か左折と右折を繰り 返している。よほど入り組んだ市街らしい。外の様子が新興住宅地のような 風情になってきたのが岬にもわかった。
「――着いた、みたいだよ」
 ガタン、と一回大きく揺れて、屋内に入った気配がした。エンジン音の響 き具合からして、どこかビルの地下パーキングだろう、と岬は当たりをつけ た。
 運転席から誰かが出て行ったようだ。ドアが閉まる音がする。
「――どうしたん、岬くん」
 岬が黙ったままでずっと外を覗いているので、不思議に思った佐倉さんは 体を起こした。
「しーっ」
 顔をこちらに向けて口に指を当てる岬であった。
「え、なに? 降りへんの?」
「いや、降りるに降りられなくなったって言うか」
 岬は音を立てないように佐倉の側に戻って来た。
「これ、本物じゃなかったんだ、中継車」
「え?」
「いや、クルマは本物かもしれないけど、乗ってたのはニセモノ」
 腕を伸ばして、周囲をぐるりと示す。
「周りじゅう、物騒なものが山積みになってる。武器とか、資材とか」
「ぶ、武器っ…!?」
 佐倉さんは呆然としたまま握った拳を開いたり閉じたりしている。緊張し た時の彼女のクセらしかった。
「もしかして、過激派とか、テロ組織とか?」
「ええ〜、ど、どうすんの、どうすんの」
「どうしようも、ないなあ」
 そう答えながら岬はゆっくりと背後を振り返った。
 ぎし、と音がして後部ドアが開く。
「おやおや」
 そこには2、3人の若い男の顔が並んでこちらを凝視していた。
「何か声が聞こえると思ったら…」
「なんだ、おまえらは! いつの間に…!」
 割り込むように大声を出したのがこの車を運転していた男だろう。一人だ け、偽装なのか作業服のような格好をしている。
 韓国語のその言葉はわからなかったが、とりあえず岬は挨拶をする。
「こんにちは(アンニョン)、ヒッチハイカーです」
「…なんだ? 外国人か?」
 男たちは少し面食らったようだったが、中の一人が乗り込んできて2人の 前に立った。
「オリンピック見物の観光客か? あいにくだが無駄足になりそうだよ。俺 たちの手で開会式ごと吹き飛ばすことになってるからな」
 髪を短くした背の高い男だった。リーダー役といった感じだ。英語に切り 替えて語りかけながら、周囲の梱包の山を得意げに手で示す。
「……」
 岬は無言のまま示された光景をしっかりと観察した。
 地下駐車場にはそれぞれに分類された様子で多くの物資が集められてい た。擬装用なのか、様々なタイプの車が揃えられている。この中継車もその 一つなのだろう。それらの間を、学生風の男女が忙しく立ち働いているのだ った。
「ごらんの通り我々は忙しいんでね。君たちをどうにかしようとは思わない しその暇もない。ただ、決行の日まではここにいてもらうことになるね。う っかりとは言えここを見てしまった以上」
 岬は苦笑すると佐倉さんを振り返る。
「スリグループから逃れたと思ったら、今度はテログループだって。フライ パンから火の中へ、だね」
 一難去ってまた一難。岬があえて英語でことわざを引用したのを耳にして 男が目をみはった。
「…君たちはどこの国の人間だ? 日本人か、中国人か」
「こっちのお嬢さんは日本人、ボクは最近自分でもよくわからなくなってて …」
 今度はフランス語で岬は答えた。男の目が一瞬興味深そうに光ったが、し かし彼は仲間を振り返って何か声をかけただけだった。すぐに女性が一人、 車に乗り込んで来る。
「君たちが当局の関係者だとは思わないが、念のためだから悪く思わないで くれ。君たちまで危険物にはしたくないんでね。ここにあるもの以外」
 男はそう言うと自分で岬のボディチェックを始める。佐倉さんはもちろん さっきの女性が担当している。
 男は岬のポケットから中身を取り出して床に並べた。カードケース、ペ ン、そしてDVD−RWが1枚。
 カードケースから出したキャッシュカードを目の前にかざして男は名前を 読み上げた。
「ミサキ・タロウ。――君の名か。ずいぶん荷物の少ない観光客もいたもん だな。財布くらい持っていないのか。キャッシュカードだけだなんて」
「スリに持って行かれたんだ、残りは全部」
 ポーカーフェイスは崩さない岬だった。
「これは?」
 男はDVDをつまみ上げてひらひらさせた。
「ノート代わりだよ。やりかけの宿題が入ってる。こっちで仕上げようと思 って」
 と、佐倉さんを調べていた女性が驚いたように声を上げた。男にあわてて 渡したのは、佐倉さんが持っていた選手村のIDカードである。男のほうも それを見て表情を変えた。
「選手? 選手なのか、このオリンピックの。なんてことだ」
 男も佐倉さんに近づいた。女性と2人して佐倉さんの掌を覗き込んで触っ てみたりしている。
「なるほど、いかにも体操選手の手って感じだな。これが代表級の手のマメ ってわけか。じゃあ、もしかして君も?」
「ボクは違うよ。これが体操やってる手に見える?」
 岬は両手を上げてその掌を男に向けた。確かに嘘は言っていないが、嘘よ り凶悪な事実もある。佐倉さんは隣から呆れ顔で岬に視線をよこした。
「そうだな、君はどう見ても高校生くらいの歳だ。それより、こちらの体操 選手さんは困ったな。引き止め続けると明らかに怪しまれるし、かといって 解放するわけにもいかない。ふーむ」
 いったん中継車から降りて、他の仲間とぼそぼそと相談が始まった模様 だ。そこに岬はこちらから声をかけた。
「彼女に毛布か何かと、それとできればアスピリンをもらえないかな。具合 が悪いんだ」
「――わかった、オリンピック選手さんには敬意を払わないとな」
 後部ドアが再び閉じられる。ロックもそとからかけられたようだ。岬は佐 倉さんの隣に座り込んだ。
「もう岬くん、ようあんなことすらすら出てくるね。私、ハラハラしたわ」 「刺激しないのが一番だよ。そのうちうまく逃げられる手を考えよう」
 岬は腕時計を見た。もうすっかり夕暮れ時だ。ソウル到着早々忙しいこと この上ない。責任が誰にあるかはともかく。
「岬くんがこんな人やったなんてねー」
「どういう意味?」
 しみじみとつぶやいた佐倉さんだったが、振り返った岬にはにっこり笑顔 を返す。
「いやー、こういう人のファンになった自分が偉いなーて思うわ。感心して るの、自分に」
「ほんとにね」
 岬もにっこり笑顔になる。これはお互いさまというわけだった。









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