COUNTDOWN O'CLOCK










 タクシーが向かっている方に低く夕日が沈もうとしている。
 運転手さんはどこからかサングラスを出して掛けた。これで安全運転、と 言うように後ろの3人にミラー越しに見せびらかしてくれるが、それを言う なら前をちゃんと見て運転してほしい。樫が悲鳴を上げた。
「おっちゃん、頼むヮ、よう似合てるから。な!」
「あれっ、なんか急に前が詰まってきよったで。どうしたんやろ」
 運転手さんも不思議そうにきょろきょろしている。流れが悪くなったと思 った次には、とうとうノロノロ状態になってしまった。
 と、運転手さんが窓越しに隣に合図する。見れば隣の車線に同じタクシー がいて、両方の運転手同士で窓を下げて話を始めた。そうして情報交換を終 えると、運転手さんは3人に向き直る。
「この渋滞、何かあったのか?」
「×××、×××」
 身振り手振りを交えて運転手さんは何事かを説明しようとしていた。手を 肩の高さに水平に広げて、旋回のポーズらしい。
「飛行機? …ああ、空港な」
 続いて両手で棒を握る格好で、下にぐいっと押す。同時にボーン、と声を 上げた。そして恐い顔で握り拳を振り回して見せる。
「え…えっ、それってバクダン? まさか空港で爆弾が落ちたん?」
「落ちるかい!」
 横から突っ込みが入る。こんな時にも、関西のセンスだけは消えないもの らしい。
「テロや、それ」
「だとしたらマズイな」
 松山が低くつぶやいた。
「渋滞だけじゃすまねえぞ。空港をエリアごと封鎖して入れてもらえないか もしれない」
「どうすんの」
 3人はめいめいに考え込む。一番に決断したのはやはり松山だった。
「よし、降りよう。降りて別の手で空港に行く」
「別の手ェて、地下鉄かなんか?」
「だな。それなら少なくとも渋滞はない」
「けど、大丈夫かなあ。ボクらだけで」
「なんとかなるって」
 今度はこちらがボディランゲージで説明する番だ。運転手さんはしかし状 況からすぐに理解したようだ。いったん右折して渋滞を離れ、それから賑や かな通りで車を止めてくれた。
「いやあ、いろいろと面白かったよ、オジさん。ありがとな」
「すごいな、なんか。言葉が通じんでもあんだけ馴染んではるて」
「ホンマにな」
 タクシーに手を振っている松山を見ながら、樫と大江は心から感動してい たようだ。
 が、問題はここからだった。
「地下鉄の駅を見つけよう」
 それが次の課題になる。
「人の後について行けばいいんじゃないのか」
「そうとも限らんで」
 これは大江の意見が正しいと思われる。
「紙に書いて聞いてみたらどうやろ」
「なるほど」
 樫はポケットから小さいノートを取り出した。
「僕、外国行く時はいっつもこれ持ってくんねん。コトバ自信のうても、書 いたら通じることあるし」
 3人は頭を寄せ合って、とりあえず漢字で「地下鉄」「金浦空港」と書い た。漢字でどこまで通じるかよくわからないが、今も部分的に漢字が使われ ているようだし、通じる人には通じるだろう、という実に適当な結論からだ ったが。
 案の定、最初に見せたおじさんはわかったようで、指を差して方向を教え てくれた。
「えっと、こっち…かな」
 わからなくなるとそこでまた誰かに尋ねて、言われた方向に歩いて行く。 こうすれば少しずつでも目的地に近づいていって、最後には無事にたどり着 けるというわけだ。
「な、あれ、ニュースとちゃう? 空港に見えるけど」
「ほんとだ」
 歩いている間に、電器店の前に通りかかる。店頭に並んだテレビに同じ画 面がずらりと映っていた。早口のアナウンサーが緊迫した口調で繰り返し同 じ映像を示している。内容まではわからないが、空港で何かが起きたことだ けは間違いなかった。
 道行く人たちも次々に足を止めて心配げにニュースに見入っている。人垣 になり始めたので、3人は店先から離れてまた歩き出した。
「今頃、三杉くんと反町くん、空港に着いてるよね、やっぱり。それに佐倉 先輩もいてはるかもしれんし」
「大丈夫かなあ。ケガ人とか出たりしてんのやろか」
「さっきのニュースでは、救急車とかそんなシーンは見ィひんかったけど」  大江がちらっと隣を見る。さっきから妙に黙っている松山が気になるよう だ。
「松山くん…?」
「ん?」
 呼ばれてようやく松山は振り返った。
「とにかく行ってみなわからんし、今はあんまり心配せんと、な?」
「心配はしてねえよ。あの2人なら」
 そう言いながら、表情はどことなく冴えない。
「さ、急ごう。そろそろ駅なんじゃねえのか」
「うん…」
 樫はきょろきょろとまわりを見回して、すぐ近くに子供たちが数人いるの を見つけた。
「な、チョハチョル、やねんけど」
 何度も質問しているうちにちゃっかり発音も覚えたらしい。樫は子供たち にそう呼び掛けながら近づいていった。
 が、子供たちはがやがやと何かもめている様子で、振り向いてもこっちに 関心を示してくれない。
「どうしたんだ?」
 松山と大江も側に来た。樫は子供たちにつられて、建物の上を見上げてい るところだった。
「なんや、あっこらへんにボールかなんか引っ掛かってもたらしいわ。ひー やん、おまえ取ったって」
「なんで僕やねんな。真文がやったらええやん」
 2人で押し付け合っているようで実は自分がやりたくてうずうずしている のが本当らしい。
「あれか? あれやな」
 ビルの壁を下から見上げて、問題の出っ張りを確認する。
「せっ、と!」
 片膝を立てた大江が下から支えて、それをバネにして樫が思いっきりジャ ンプする。さすがのジャンプ力、その樫の指先が出っ張りにひっかかってい たボールを弾き、子供たちからわっと歓声が上がった。
「野球のボールかぁ」
 弾んで弧を描きながら地上に落ちてきたボールを子供の一人が手を伸ばし てキャッチした。
「よかったな」
 子供たちはそこで初めて、この3人のお兄さんたちに目を向けたらしかっ た。見たことのない顔をじっと見つめ、ひそひそとささやき合っている。
「…日本人(イルボンサラミ)!」
 一人がそう叫ぶと、子供たちは居心地悪そうに視線をそらし始めた。その 中の一人の母親なのか、自分の子供をそっと引っ張って路地の向こうと消え る。
「な、なんかマズかったみたいやな」
「うん…」
 重い空気を感じて、樫と大江は顔を見合わせた。その場をとにかく離れよ うとふと見れば松山がいない。
「あ、あれっ、松山くんは?」
「あそこや!」
 見れば、少し離れた軒先で、松山が地面にへたり込んでいるではないか。 「やめろって、おい。俺は何も食い物持ってないぞ。あはは」
 その前に黒い犬が1匹いて、さっきからしきりに松山にじゃれかかってい る。飛びついては顔をなめて、離れようとしない。松山はそれを嫌がりもせ ずに相手していたのだ。
「おいおい〜」
 この状況の中でこういうことをしていられる神経とは、いったい…。
「松山くん、はよ行きましょ」
「え? ああ、わかった。――おい、離せって」
 松山はゆっくりと立ち上がった。犬がまだ足元にまとわりつくのをそっと 手で押しやって、樫と大江に追いつく。
「日本人て、嫌われてんなあ、噂には聞いてたけど」
 2人の足取りは重かった。
「大阪あたりは在日の人らもおおいから、けっこううまいこと一緒にやれて るつもりやったけど、こっちではそうもいかんのやなあ」
「うん、確かにボクらの世代ともうちょっと上の人らでは、付き合い方は違 う気がしてたけど、ボクら、学校でも普通に友達やったりしたのに」
「オリンピックだから、なんだよ、たぶん」
 松山が口を開いた。
「戦後の苦労の末にやっとオリンピックを開けるところまで来た、その誇り と気負いが高まってて、いつも以上に愛国的な空気になってる。日本はそん な韓国の人たちから見たら、一番わかりやすい『敵』なんだ。より上を目指 すための。歴史の中で辛い目に合わされてきた相手、というのにプラスされ てるから今は余計にそうなんだって思わないと」
「へえ〜」
 二人の目が尊敬の色に変わったのに気づいて、松山は照れ笑いした。
「…って、淳の受け売りだけどな。こっちに来る前にレクチャーしてくれた そのまんま」
「な〜んや、そやろなあ」
 などと失礼な言葉まで出てしまったが。
「あ、あそこ、地下鉄っぽない? ほら、人がいっぱい降りてくし」
「よし、やっと来たか」
 広い通りの向こうに、それらしき入り口と表示を発見して、3人はようや く元気になる。
 と、その時、彼らの背後から日本語が聞こえた。
「――ちょっと、君たち!」
 振り返ると、誰かがこちらに走って来るのが目に入る。2人連れで、うち 一人が大きなカメラを持っているのを目にした途端、樫と大江は反応した。 「松山くん、マズイで、あいつら!」
「何だ?」
 説明しつつ、とにかく走る。
「写真誌の記者や! しかも選手のスキャンダルやなんの言うて、オリンピ ック前からしつこう追っかけて来よんのや。うちの高校の中にも潜り込みか けたし、女子選手のほうは芸能人とありもせん噂を書きよるし」
「悪い話のほうが売れる、って堂々と言うてるからな、以前(まえ)から」 「あんたらも苦労してんだな」
 松山はちらっと背後を窺った。今はかなり引き離しているものの、向こう はカメラという飛び道具を持っている。
「もう撮られちまったみたいだぞ」
「逃げるとこ撮っただけでも話を大きいしそうやな。まあ、無断外出だけで もヤバイんやけど」
「よし、そこ曲がるぞ!」
 2人を背後から押すようにして路地に入る。ガレージが並ぶごちゃごちゃ した一角だが、隠れるのに適しているとは言い難い。松山は壁に背をくっつ けて、はあ〜っと大きく息をついた。
「俺がここであいつらを引き止めるから、あんたらそっちからさっきの地下 鉄に行けよ。もう俺これ以上は走れないから」
「ど、どしたん。一緒に行こて」
 樫も大江も顔色を変えたが、松山は譲らなかった。
「狙われてんのはあんたらのほうだろ。先に行ってくれたほうが逃げ切れ る。俺は後から行くから。――ほら、急いで」
 もう一度2人の背を押しておいて、松山はそのまま壁の下までずるずると 崩れ落ちた。走って行く2人を見送ってからくるりと体をねじり、ガレージ の前の蛇口に手を伸ばす。引き寄せたのはゴムホースだ。
「よーし、こっちだこっちだ。早く来い…」
 水道を全開にし、ホースの途中を足で踏んだ上で口を指で押さえる。
 松山の口元が微かににやりと動いた。
「くらえー!」
 角を曲がってきた記者2人が、その途端に水流に襲われる。
 仕事熱心な彼らがどうなったかと言うと――。
 大量の水の目潰しで追跡相手を見失い、足をすくわれて水たまりにすっ転 び、そしてカメラは落ちたはずみにフタが開いてしまってフィルムは台無し に…。
「――あ? さっきの犬…」
 ホースをきちんと元通りに片付けてからよろよろと歩き始めた松山は、自 分の前にさっきの黒犬がいるのに目をみはった。
「こっち、こっち」
 その犬の横に小さい男の子がいて、松山を手招きしている。
「え、道を教えてくれるのか、坊主」
 犬と少年は先に立って路地のさらに隙間のような所へとどんどん進んで行 く。時々松山を振り返りながら。
「ちょ、ちょい待ってくれ。もう歩けねえって」
 通じないとは知りつつ、そうつぶやいて松山はまた地面にへたり込んでし まった。男の子はぱたぱたと駆け戻ってきてそんな松山を心配そうに見下ろ した。
 松山はごろんと仰向けになると、犬に口元をなめられながら情けない声を 上げた。
「腹ペコでもう動けねえ。何か食いもんを…」
 松山は、つまりガス欠だったのである。









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