COUNTDOWN O'CLOCK






Z










「いい若いもんがなんだね、まったく」
 壁にもたれたままうっすらと目を開けると、パーマ頭のおばさんの顔が松 山を覗き込んでいた。厚塗り気味の顔に真っ赤な口紅が威勢よく動くのが見 えて一瞬ぎょっとするが、そのおばさんの手にあるものを見て松山は勢いよ く飛び起きた。
 ほかほかと湯気の立つ、しかもスープの赤い色が見るからに熱そうな麺 が、松山に差し出される。
「いっ、いただきます!」
 差し掛け屋根の下に並ぶテーブルには他にも2、3人の客がいたが、松山 のその食べっぷりに、皆、手を止めて唖然としている。
「さっきのはユンギのおごりで、これはハクからの分だよ」
 箸を置いて手を合わせかけた松山の前に、もう一杯の丼が置かれた。おば さんの陰からさっきの子供がひょこっと顔を覗かせる。その横で、黒い犬が ひくひくと耳を動かした。
「ユンギくん、と、ハクってこの犬?」
 松山が指で差すと、男の子は照れたように笑った。おばさんの手を引っ張 って何かを言ったようだ。
「さっきあんたがボールを取ってくれて助かったんだってね。上級生に意地 悪されるとこだったって」
「え、そうだったんだ?」
 そういう事情は知らずにやったことだったのだが。しかも実際にやったの は体操の2人のほうだし。
「でもいいのかなぁ。悪いよ」
「気にしなくていいって。あんたがその調子でおいしそうに食べててくれる とウチもいい客引きになるしさ」
 日本語をしゃべるおばさんは笑いながら奥へ引っ込む。松山は男の子にう なづいてみせて、また箸を取った。
「マシッソヨ?」
「うん、マシッソヨ」
 今度は少しゆっくりと味わう松山だった。おいしいかと尋ねるユンギくん の言葉をおうむ返しにして笑う。
「助かったのは俺のほうだよ。もう一歩も歩けないとこだったからな」
 胃に染み渡る味だった。麺、と言ってもラーメンでもうどんでもそばでも ない食感である。松山は正面でじっと見ているユンギくんに、麺を箸で持ち 上げて見せた。
「これ、何? うどんか?」
「タンミョン」
 日本語と韓国語でちゃんと通じている。ような気がする。
 食べつつ周囲を観察すると、連れて来られたここはまさに市場のど真ん中 という賑やかな路地だった。小さな食堂であるこの店は奥がすぐ台所で、テ ーブルは半分以上が外にある。持ち帰り用らしいワゴンも店先に置かれてい て、買い物客が時々覗いては買い求めていく。もちろんテーブルについて食 べて行く客もいる。この路地は同じように食事をする店が並んでいるよう で、向かいにも様々なメニューを示している看板が(読めないが)見える。  馴染みの客らしいおじさんたちとにこにこ言葉を交わしているところから 見て、ユンギ少年はこの店のおばさんとは身内になるようだ、と松山は見当 をつけた。
「ごちそうさん。俺、お礼代わりに何か手伝うよ。おばさんは?」
 ユンギくんは立ち上がった松山に目を丸くしたが、空の丼を手にきょろき ょろするその様子を見て奥に声を掛けてくれた。
「ヨギヨー。アジュンマ!」
「ああ、どうしたんだい?」
 台所の仕切りの陰からおばさんの顔が覗く。
「仕事? まあ、義理堅い子だね。じゃあ、せっかくだから、あれでも」
 アジュンマと呼ばれるおばさんが苦笑しながら指したほうを振り向くと、 大きな袋が2つ3つ積まれている。
「店の裏手に運んでくれるかい。力仕事はダンナに頼んでるんだけど、今日 はいなくって。助かるよ」
「小麦粉、かな」
 松山が肩に担ぎ上げると白い粉が継ぎ目からぱっと散った。ユンギくんが 先に立って通路を教えてくれる。なんのことはない、奥行きはほんの2間ほ どの建物で、台所の裏口はすぐそこだった。「力仕事」は、いつものウォー ミングアップのイントロ程度で終わってしまった。
「さーて。これでいいかな」
 最後の一袋をぽんと手で叩いた松山の背後でその時足音がした。鉄製の階 段を降りて来る足音である。
「ヒョン、アンニョン!」
「ユンギ?」
 嬉しそうなユンギくんの声に、松山はそちらを振り向いた。店と背中合わ せになっているアパートの外階段を若い男が降りて来るところだった。
「ハ・ジュソン?」
 声を聞きつけたらしいアジュンマが裏口から出てきた。こちらも笑顔でま くし立てる。
「あらあら、やっと帰って来たかい。ずっと大学に泊り込むっていうから心 配してたんだよ。ちゃんと食べてたかい? ほら、こっち来なさい。何か作 るからさ」
「アジュンマ、ちょっと資料を取りに戻っただけなんだ。すぐ戻らないと」  …と、いうような韓国語の会話が交わされていたのだが、もちろん松山に はわかるはずはない。
 名門ソウル大学の学生、ハ・ジュソンはひょろりと背の高い男だった。親 元を離れてこのアパートで暮らしているが、研究一筋の毎日で大学の研究所 に泊り込んでは長く留守をすることが多く、アジュンマも何かと気に掛けて いるのだと松山は後から聞かされたのだったが。
 にこにこと2人と言葉を交わしながら、、ジュソンはふと顔を上げてこち らの松山に目をやった。肩がぴくっと動いてそのまま凍りつく。視線はしっ かりと松山に停まったままだ。
「ミサキ――!?」
 声は出ていなかった。が、その口が間違いなくそう動くのを松山ははっき りと見た。
 階段の最後の一段に棒立ちになっている男にそのままずかずかと歩み寄 る。そしてまっすぐその顔を睨み上げた。
「あんた、誰だ? 『俺』を知ってんだな?」
「……」
 日本語はわからない、というように男は首を振った。しかしその目はやは り松山から離れない。そのことが、松山の問いに対する答えになっていた。 「急いでるんだ、俺たちは。あいつを早くチームに引っ張って行かないと、 オリンピックに間に合わないからな」
 オリンピックという言葉に、男の目がわずかに反応した。
 偶然が導いた奇妙な協力関係。
 今、唯一岬のいどころを知る過激派のリーダーは、言葉を失ってただ松山 の顔を見つめるしかなかったのだった。









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