COUNTDOWN O'CLOCK










「やあ、日向くん…だったね」
 赤いカーペット敷きの廊下の奥まで案内されて来た日向は、そこに立って 待ち受けていたらしい2人に迎えられた。日向は黙ってうなづいたが、その 目に鋭い色は残したままだった。
 声を掛けてきたほうの人物の顔には見覚えがあった。日本でのオリンピッ ク結団式で壇上から挨拶をした要谷というJOC役員だったのだ。
 しかしその連れの人物のほうはあからさまに警戒の色を浮かべて日向を眺 め、何事かを要谷にささやいている。
 選手村のパブリックエリアでは一種浮いた存在でもある王朝風の建物、そ れがこの香柳閣であった。各国のVIPクラスが主に利用するのであろうこ の高級レストランの豪華な内装は、確かにジャージ姿の選手が気軽に近寄れ る雰囲気ではない。まさにアウェーである。
 強引に入ろうとした日向が入り口で止められたのは当然だったと言える が、しかし一転してそれをここまで案内することになったのは、なるほどこ の愛想笑いの役員の指示だったようだ。
「わざわざ迎えに来てくれたのに、すまなかったね。大空くんは奥で今担当 者が話を聞いているところでね、もうそろそろ終わるだろうからちょっとこ のまま待っていてくれるかな」
「どういうことだ」
 場所にも人間にも歓迎されていないことがわかっていても、この男には遠 慮のかけらもなければ卑屈になる様子もない。文句があるのはこっちのほう だ、と言わんばかりの態度で日向は相手をまっすぐに睨みつけた。
「あいつを呼びつけたのはそっちだろう。これ以上妙なプレッシャーをあい つに持ち込まないでもらおうか」
「何を君、言いがかりを…!」
 気色ばんで声を上げかけた連れを手で制して、JOC役員の要谷は苦笑し た。
「君たち選手のその苦労はわかっているつもりだよ。競技だけに専念した い、っていうね。大空くんにはそのための話をしているんだ」
「…あ!」
 ちょうどそこへ、ドアが開いた。体格のいいスーツ姿の中年男性がJOC スタッフに伴われてまず姿を見せ、つづいて翼が出てくる。
「あれっ、日向くん?」
 さっきまでの少々とげとげしかった空気が、その声で一気にふわ〜と和ん でしまう。
「どうしたの?」
「どうした、っておまえな…」
 要谷はさっさと日向から離れて、中から出てきたその人物の前に進み、一 緒に中から出てきた役員たちと一緒に丁寧に挨拶を交わし始めた。英語で話 しているところから見て、日本人ではない。おそらくは韓国人なのだろう。
 そうやって見送りを優先させておいてから、要谷はこちらに戻って来た。 「大空くん、いろいろと心配もあるだろうが、この通り私たちも協力させて もらうから、競技のほうに集中して全力を尽くしてくれたまえ。雑音にあま りナーバスにならないようにね」
「雑音だと? 一番派手に立ててるのは自分らじゃねえか。キレイごと並べ て愛想笑いしたって騙されねえからな!」
 納得のいかない思いはあれこれあったが、とりあえずその反論は結局彼ら と別れて外に出てからの独り言に化けることになった。翼が目の前に無事に 戻ってきたことが、日向にギリギリで良識を保たせたようだ。
「でも、ありがとう」
「あ?」
 並んで歩きながらいきなり礼を言われて、日向は呆気に取られた。さらに 続けようとしていた悪態と愚痴が、そのせいで引っ込んでしまう。
「一人で来るように、って念を押されなかったら、日向くんに頼むところだ ったんだ」
「あ、何をだ?」
 迷惑を覚悟で乱入した立場としては、それを望んでいたなどと言われては 拍子抜けするしかない。
「だって日向くん、あの人たちをじゃなく、俺が信用できなかったなんだ ろ、来てくれたのは?」
「……」
 苦笑、とも微妙に違う表情が屈託なく日向に向けられる。一瞬返事に詰ま ってから、日向はぷいと目をそらした。
「おまえは全部一人で抱え込んじまうからな。いいことでも悪いことでも独 り占めして誰にも手を出させねえ。平気そうな顔で俺たちを遠ざけておいて な」
「ヒトを騙すより自分を騙すほうが得意だからね、俺」
 翼はあっさりとうなづいた。
「だから、日向くんに見ててほしかったんだ、今日も。俺があの人たちの前 でどれだけ嘘をつき通せるか」
「フン、あの連中も人がいいぜ。おまえを簡単に丸め込めるような奴だって 踏んで呼びつけるなんてよ」
 あせって駆けつけた自分が馬鹿だった…と腹の中で考えながら、日向はそ の分、翼に皮肉な目を向けた。
「で、誰なんだ、あいつらは。特にあの最後に来た偉そうなおっさん」
「スポンサーの一人。俺の移籍先候補の一つのね」
 翼は指を折って見せた。
「全部で8、か9。今度みんなと合流するまでに接触のあったクラブ。その 中で一番いろんな話を持ち出してくるのが、そのおじさんのスポンサー先な わけ」
「ちょっと待てよ。それはそうとして、なんで選手団の役員が一緒にいるん だ、そんな奴が。変じゃねえか」
「やっぱりそう思う?」
 翼の表情はしかし淡々としていた。
「メダルをね、取りたいなら、所属先でのゴタゴタをオリンピックに持ち込 まないほうがいい、って、それがあの役員さんたちの『話』。で、そのゴタ ゴタの一番いい解決策が早く移籍の問題を決めちゃうことだって、そう言っ たんだ」
「それをあのおっさんのとこにしろ、って言うのか?」
 日向がぎらりと目を向ける。
「なんでやつらがそこまで首を突っ込める! 解決策だと? ただの根回し じゃねえか」
「て、言うより、圧力だね」
 きっぱりと、翼は言った。むしろ他人のことを言うような冷静さで。
「もちろんJOCとしては『紹介』しただけ、理解ある有力企業家ですよ、 って。移籍をここに決めろなんて言い方はまったくしていないんだよ」
「きったねえ…」
 日向は低くうなった。
「俺、プロだもんね。商品扱いはしかたないよね」
「――翼?」
 さっきからのしらけたような翼の態度に、日向は不満そうに振り返ってじ っと見つめた。
「その分だと、また猫かぶってやがったな。あいつらに正体を知られてない のをいいことに」
「日向くんならよく知っててくれるけどね、俺の本気の正体」
 しかし翼は一向に動じることなく笑顔で応じる。
「知りたくて知ってるわけじゃねえよ!」
 つまりは不本意な仲というわけか。長年の積もり積もったライバル関係 は、本人の期待しない副産物ももたらすらしい。
「第一おまえの正体ってんなら俺より岬だろうが、見抜いてるのは」
「――岬くんだったら、俺の正体を全部受け入れてくれるだろうな。日向く んが、そんなふうに反発してくれるのとは正反対にね」
 翼はそこで言葉を切って、じっと日向の顔を見つめた。まだ当惑顔のまま の日向にうなづいてみせる。
「だからこそ、ありがとうって言ったんだよ。俺は自分がキライだからさ、 君がそうやって否定してくれると自信が持てちゃうんだ。やる気が出るんだ よね」
「の野郎、ぶっとばすぞ、マジで!」
「ふふふ」
 目の前に拳を突き出している日向に向かって、翼は心から嬉しそうに笑っ た。
「やっぱり本気だもんね、日向くんて、俺にはいつも」
「――そんなことより!」
 ぐっと詰まった反動のように日向は吠えた。
「おまえ自身はどうする気なんだ! やつらの言いなりになるってんじゃな いだろうな!」
「あ…」
 その日向の勢いをひょいとかわすように翼は頭をくるっと巡らせた。
 視線の先には人だかりがある。レストランモールを抜けたところにあるコ ンビニの店先のテレビモニターにニュース映像が出ているのだ。
「あれって、空港じゃない?」
「なに?」
 まんまと矛先をかわされたことに腹を立てる暇もなく、日向も翼の指差す その映像に見入った。
「なんか、事故? 空港で?」
「あ、大空翼だ。日向も…!」
 人垣の中から日本語が聞こえたので、2人がそちらを見ると、見覚えのあ るJAPANの文字入りジャージがわらわらと動いていた。選手団のお仲間 ――ボート競技の大学生チームだと後でわかったが――がこちらに気づいて 囁いているのだった。
「爆弾テロだと? 今日の話か、それ」
「俺たちが着いた後、ってこと?」
 ニュースをじっくり見ていたという彼らから情報をもらって翼は目を丸く した。
「犯行声明がテレビ局と新聞社に届いたんだけど、それが電子メールだった らしいよ」
「英語とフランス語の2ヶ国語でって言うからすごいよな。オリンピックを 狙ってるっていうのをアピールしてるのかも」
 ボートの選手たちの話に、日向は露骨に嫌な顔をした。彼らの言葉から、 つい連想してしまった物、いや、人物(複数)があったのだ。
「――奴らなら平気でやっちまいそうだな」
「まさか。オリンピックをつぶそうなんて、それは思わないでしょ。いくら あの4人でも」
 翼も同じあたりを連想したようだ。
 テレビではその犯行声明がメールのまま画面に映し出されて韓国語の翻訳 文が読み上げられていた。人垣の外からでは文字を読み取るのは難しかった し、まして韓国語で訳されても内容はまったくわからない。
「おい、行くぞ」
 あっさり諦めたらしい日向が先に立って呼び掛けたが、翼は動かなかっ た。じっとまだニュースを見つめている。
「おい、翼!」
 もう一度呼ばれて翼はくるりと向き直り、そして勢いよく歩き出した。日 向はあわててその後を追う。
「待てよ、おい」
「…岬くんだよ」
 背中をこちらに向けたままいきなり翼がそう言った。
「なんだって?」
「岬くん、ここに来てる。ソウルにいるんだよ」
 唐突な言葉は日向を唖然とさせた。追いついて、その肩を後ろから引き戻 す。
「どういうことだ、一体」
「暗号なんだ、俺と岬くんだけの」
 振り向いた翼の目には必死な色が浮かんでいた。
「え?」
「岬くん、自分がここにいるって伝えてる。俺に――俺にだけわかるように …」
 翼は小さい声で声明文の最後にあった結辞をつぶやく。
「a mes meilleurs sentimentsu. ――俺の名前が入れてある、tsu って。 間違いなく本物だって確認のためにわざとやるんだ、いつも。岬くんだよ、 絶対!」
「ちょっと待て、それがなんでまたテロの声明文に…」
 2人は顔を見合わせたまま黙り込んだ。
 最大の問題は、そこだったのである。









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