COUNTDOWN O'CLOCK |
「う〜ん、ほんとに本物ですか?」 森崎は何度も書類を読み直す。隣で床に膝をついて、若林がさっきから問 題のバッグを指先で触っていた。 「本物だろうな。当人がそう言ってたんなら」 「――岬の荷物が来たって、ほんとに!?」 そこへ大声で駆け込んできたのは、宿舎に残っていた選手たちだ。さすが に耳が早い。エントランスホールにはたちまち人垣ができてしまった。 「空港で遺失物扱いになってたって。ほら、この書類なんだけど、なんと本 人のサインがあるんだ」 「岬の、なのか?」 「うん」 森崎の手から書類が取り上げられる。全員の目が、サインの欄に釘付けと なった。 「選手村のゲートで、セキュリティの照合を受けるんだって。全選手のデー タで。メディカルチェックの時の岬のサインと一致したから、それでここま で届いたんだ」 「く、空港からってことは、あいつソウルには着いてるってことだよな!」 「そうだよ、絶対! 岬、やっと来たんだ!」 口々に声を弾ませているが、表情のほうはさほど盛り上がっていない。一 つ肝心なことが残されているのだ。 「で、なんで荷物だけなんだ?」 持ち主の姿のないバッグ一つ。それを囲んだまま、その場の全員がしんと 黙り込んだ。 「平たく言えば、空港にこいつを忘れて本人はいなくなった、ってことだ。 しかもわざとな」 若林はバッグについたままのタグを睨んでいた。 「選手村、男子サッカー。日本」の手書きの文字がある。 「あの野郎、ここまで来てまだじらす気か」 重い空気が漂う。そこに、外から戻って来た2人が現われた。 「なんだ、おまえら?」 入り口で声が響く。 「若島津、何やってんだ、そんなとこで」 「あんたじゃありません。翼、ちょっと」 どうやらそこで待ち伏せしていたらしい若島津が、日向は無視して翼だけ をホールに引っ張って来た。 「えっ、岬くんの!」 翼は話を聞くなりバッグに駆け寄った。しゃがんでタグの文字をじっと見 つめる。 「――そうか、やっぱりなんだ」 「なんだ? やっぱりって」 若林がその小さな呟きを聞きとがめる。翼は顔を上げたが、ただかぶりを 振っただけだった。 「うん、そんな気がしただけだよ。そろそろ来る頃かな、って。岬くん、き っとその辺で寄り道してるだけだよ。ね、日向くん」 「馬鹿か、おまえは」 同意を求められた日向は、人の輪から離れた所に立ってそう吐き捨てた。 が、すぐ隣からすかさずたしなめる声が響く。大きな手がその肩を引き寄せ ていた。 「なんです、その言いようは。自分だけが事情を知ってるみたいに。抜け駆 けは禁止ですからね、くれぐれも」 「馬鹿だから馬鹿って言ったんだ。離せ」 なぜかさっきから異様に不機嫌な様子で、日向はさっさと階段を上がって 行ってしまった。翼が困ったような顔でそれを見送るのを見て、若林がバッ グを手に取った。 「とにかくこうしててもしかたがない。こいつは先に部屋に届けてやるとす るか」 「うん、そうだね」 翼のその言葉を合図に、集まっていた者たちもめいめいに散り始めた。部 屋に引き揚げる者、選手村見物に向かう者、などなど、誰もが多少の不安を 隠しながらも行動に移る。 「ニュースは聞いたか、翼」 「え、空港の爆破テロのこと? それならさっき外のテレビで見たよ」 並んで部屋に向かいながら、若林の問いに答える。念のため繰り返すと、 翼は勝手に岬を自分の相部屋ということに決めていたため、荷物も翼の部屋 に行くことになる。 |
「なんだ、そういうことか」
影のように翼にぴったりとくっついてその背後を歩いていた若島津が、一 人でつぶやいた。 「ニュースで岬のことを連想したんだろう、どうせ。おまえが素直に心配し て見せないから、日向さんが代わりに腹を立ててるんだな。まあ、ヤキモチ みたいなもんだが」 「それだけじゃないんだ」 「…?」 冗談めいた言葉にいきなり重い調子で応じた翼を、若林が驚いた顔で振り 返った。もちろん若島津も翼を見つめる。 「岬くんから俺に向けてメッセージがあったんだよ。俺、どうしていいかわ かんなくて。日向くんはそのことを言ってるんだと思う」 「メッセージだって? おい、翼、どういうことだ」 若林に迫られて、ためらっていた翼もついに口を開いた。 「あの犯行声明――書いたの、岬くんなんだ。もし本物なら、岬くんも犯人 の仲間だってことになる」 「…な!」 絶句している若林とは対照的に、若島津はただ手を伸ばして翼の頭をぽん ぽんと叩いてみせた。 「まあまあ、あまり極端な買いかぶりはやめとけ」 「でも…」 翼の目が興奮に潤んでいるのを見て、若林も我に返った。 「そ、そうだぞ、翼。いくら岬でもオリンピックを潰そうなんて、そんな真 似はしない…はずだ」 「説得力のない…」 ぼそりとつぶやきつつ、若島津は階段の下のホールにふと目をやった。吹 き抜けのそこはフロントのカウンターなのだが、そこで森崎がこちらを見上 げて手を振っているのだ。 「電話だって〜! チームの誰でもいい、って言ってるらしいから」 一人最後まで残ってさっきの荷物の受取証をスタッフに返そうとしていた 森崎がたまたまつかまったらしい。 「誰でもいいならおまえが出れば」 「えー」 若島津にそう言われてやっと、森崎は遠慮がちに電話を取った。 「で、誰から」 「――三杉です」 通話は続けながらもこちらの質問に律儀に答える。その瞬間、翼が階段を ばたばたと転がるように駆け下りて行った。 「三杉くん!」 横から受話器にしがみついて、翼はいきなり叫んだ。 「岬くんが――俺に! …爆破なんだ!」 『落ち着いて、翼くん』 意味不明な訴えにも驚かず、三杉はまず先になだめる。 『何があったんだい? 岬くんから何か連絡でも?』 「うん。テロの犯行声明に――」 三杉の質問に一つずつ答える形で、翼は説明をした。ニュースで流れたフ ランス語の声明文。その中のわざと間違えたと思われるスペルミスが岬のい つもの暗号だったこと、そして遺失物として空港から届いたバッグ。 『そうか。翼くん、残念だけどその話はかなり信憑性があるね。でも心配し ちゃいけないよ。岬くんは無茶はするけど、意味のないことはしないから。 彼はいつだって僕たちのチームの一員だよ。それだけは信じよう』 「――うん、そうだね。そうだよね」 繰り返しつぶやくうちに、うつむいていた翼の声に少し力が戻って来たよ うだ。表情もやっと明るくなって、横で見ていた森崎もほっとする。 「おい、代われ」 いつのまにか下りて来て背後に立っていた若島津が手をぬっと出した。さ しあたっての用件は済んだと判断したのだろう。 『は〜い、健ちゃん!』 「おい…」 三杉のはずが、向こうも同時に代わったらしい。若島津は顔をしかめて受 話器を耳から遠ざけた。 「反町――あとの3人も、今すぐ帰って来い! 世間に迷惑をかけるだけな んだから、おまえらは」 『そんな熱烈にラブコールされちゃ照れるなあ、健ちゃんてば』 これでは話にならない。まあ、相手が三杉だったとしても結果だけは同じ だっただろうが。 |
「で、そいつら、今どこにいるんだ」
同じく下りて来た若林が声を掛ける。 「空港だな」 若島津は即答した。 「さっき電話の後ろでちょうど構内アナウンスが流れてた。到着案内か何か のな。それと――何か関西弁の声も近くで聞こえる。聞き覚えがあるような ないような…」 「どういう耳をしてるんだ」 若林が呆れている。その横ではっと森崎が振り向いた。若林をとんとんと 叩いて合図する。 「あのう、あれって…」 「すいません! 岬くんって、いますか、ここに!」 また大きな声が飛び込んできたものである。彼らが一斉に注目したその人 物は、小柄ながら非常に筋肉質な男性だった。目を丸くしたまま息を切らせ て彼らを見つめている。 「あ、新堂さん、だ…」 森崎がつぶやいた。体操男女チームの総監督、というよりも、日本体操の 伝説的な金メダリストである新堂幸彦氏の顔は、さすがに彼ら4人にもすぐ わかったようだ。 「岬ですか? 今はいないんですが。…何か?」 「うちの選手が、岬くんに会いに行くと言って出かけたまま戻らないんで す。それで――」 「それはご愁傷様で…」 受話器は宙に浮かせたままで思わず口の中でつぶやいている若島津を森崎 が必死に止めている。 「さっき実は本部のほうに届いたんですよ。脅迫状が」 「ぶほ!」 思わず吹いた若林の横では翼がぴくっと固まった。 「で、こちらで何か手掛かりがわからないかと思ってやって来てみたんです ――」 『ん? 誰かそこにいるの?』 無視された反町の声が受話器から聞こえている。若島津は、ふう、とわざ とらしく息を吐いた。 「ああ、岬をご指名のお客さんがな。体操の女子選手に手を出しちまったら しい」 「違うだろ、若島津」 いちいち訂正を入れる森崎もご苦労さんである。 「――み、岬くんが誘拐なんて、そんなこと!」 ずっと目をみはっていた翼が、とうとうこらえきれないように叫んだ。 「ああ、いや。そういうことではないんです、大空くん」 監督は頑固そうな口元をふと緩めた。自分も深呼吸して息を整えてからポ ケットを探る。 「これがその脅迫状の写しです。1時間ほど前に1通、そしてこちらはさっ き届いた2通目です」 「これ、が…?」 覗き込んだ3つの頭が、すぐに上げられた。 「『引渡し場所は蚕室(チャムシル)大橋。タクシーで南から来ること』… 脅迫、してないじゃないですか」 「交換条件とか、身代金の交渉は…?」 新堂監督は首を振った。 「一切ない。警察に届けるな、だけです」 「まるでデートの約束だな」 最後にその紙を受け取った若島津が、それを読みながら電話の向こうに呼 び掛けた。 「おい、おまえらなら心当たりがあるんじゃないのか? 案外犯人を知って るとかな」 『ははは、まっさかー! ん、あ、ちょっと待って――』 |
反町が話の途中で中断したのは、側で何か騒ぐ声がしたかららしかった。
反町もそちらに向かって何かこそこそと話している。
「その大阪弁――まさか!」 聞き耳を立てていた若島津が眉を寄せた。受話器を持ったまま振り返って 新堂監督に目配せする。 「聞き覚えがあると思ったら、あの有名人の声だ。監督、男子チームから誰 か逃亡してませんか?」 「男子で? まさか、あいつら…」 渡された受話器に覆い被さるようにして、新堂氏は思い切り大声で叫ぶ。 「こらあ、樫! 大江! おまえら何やってんだ!」 『わあっ、は、はいっ!?』 怒鳴られそうになったのは反町のはずであるが、逃げ足の速さには定評が ある彼のこと、それを察知していち早く当人たちと交替して逃げたに違いな い、と4人のチームメイトはめいめいに想像した。 『すっ、すいません〜。ボクら、責任を取ろう思って』 「責任だ? いいからとっとと戻って来い! 佐倉は帰って来られることに なったから」 『あのぉ、監督…』 監督の勢いに押されながらも、樫と大江はおずおずと切り出した。 『ボクらもそこ一緒に行ったらあきませんか? お願いします!』 「わかった。ならすぐ帰って来い。間に合えば連れて行ってやる」 「問題は…」 新堂監督と2人の逃亡者たちが会話している間、こちらでもひそひそと話 が進行していた。 「向こうの意図が何か、ってことと」 「そして岬はどうしたんだ、ってことだな」 若林がそう引き取っておいて翼に目をやった。翼はさっきからこわばった 表情のままじっと動かない。 「おい、そっち、話は聞こえてるか?」 再び受話器を手にして若島津が呼び掛けると、また別の声が応じた。 『ああ、岬くんのことは僕たちもお手上げだ。諦めて戻るよ。空港にこれ以 上長居してもしかたないからね。ただ、もう1ヵ所ほど寄る所があるかな」 「ああもう好きにしろ。ただし戻って来たらじっくりと説明させるから、逃 げるなよ」 『君にしてはずいぶん熱血しているねえ、若島津。さては日向が何かしでか したかな?』 「なに、おまえに気遣ってもらうほどのことじゃない。翼と2人でお出掛け してきた後、何かへそを曲げてるだけだ。放っておけばいい」 『出掛けたって、もしや選手団本部かい?』 「そう聞いてるが」 突然声が真面目になった三杉に、若島津も反応する。そしてちらりと翼に 目をやる。翼はこちらの会話には気づいていないようだ。 『そうか。僕もじゃあそちらにも顔を出しておくことにしよう。まだちゃん と挨拶していないから』 「……」 自主的に電話を寄越したことは誉めてやりたいところだが、不安と不審は 解消されないどころかさらに増えてしまった気がするのはなぜだろう。 あたふたと走って行く新堂監督を見送ってから、彼らも今度こそ部屋に向 かう。 「テレビでニュースの続報をやってるだろうから、とにかく見てみるか。何 かヒントくらいはわかるかもしれん」 「岬くんは――」 階段にさしかかって、翼はまた足を止めた。 「岬くんは約束を必ず守る。どんなことをしても。それが怖いんだ、俺」 「確かにそれは怖いな、俺も。だが、それを選んだのは岬だけじゃない、俺 たち全員だ」 「若林くん」 「あいつの無茶はおまえだけのせいじゃない。おまえが責任感じることはな いさ。俺たちはただサッカーがやりたくてここに来た。違うか?」 「――うん」 「翼、明日は練習始まるよ。やれるんだろ?」 森崎も追いついて来て隣からにこにこと覗き込む。つられて翼も笑顔にな った。 「明日は開会式のリハーサルだな。俺たち選手には関係ないが」 一番後からゆっくり歩いて来た若島津がつぶやく。 関係ないか、それとも何かが起こるのか。それは誰にもわからないことだ った。 |