COUNTDOWN O'CLOCK










「どう、うまくいってるかい?」
「おー、淳」
 部屋に入って来た三杉を、チマチョゴリ姿の美女ならぬ反町が出迎える。 と言っても声を上げただけ、反町の目はパソコン画面から離れていない。
「感度は上々だね。あのJOCのオジサンとの会話もくっきり聞こえてた し。ま、肝心なのはこの先だけどさ」
「君の名演技の賜物だね。あのマダムたち、全然疑っていなかったみたいだ よ」
「それがさー、バレちゃったんだよね、意外なとこで」
「えっ?」
 反町はそこでやっと振り返ってにんまり笑う。だからそのメイクでやると 怖いって。
「あの問題のオバサンのイヤリング、俺がつまづいたフリしてうまく外した とこをしっかり見てた人がいてさ」
「ああ、まったく呆れた連中だ」
 2人の会話に、別の声が割り込んできた。三杉がびっくりして振り返る と、ちょうどドアを開けて山本和久氏が入って来るところだった。手には缶 コーヒーが3本握られている。
「来てたんですか、山本さんも!」
「京子さんが招待されてたんでな。まあ、選手村のあのゴタゴタでちょっと 遅刻したんだが、来てみたらこいつがこれだもんな。見た瞬間、即帰ろうと 思ったぞ、本気で」
「でね、うまく盗聴器を仕込んでオバサンに拾ってあげたとこでセンセに頼 んで連れ出してもらったんだ。あれ以上オバサンたちと一緒にいたらバレる のは確実だったし、そのくせなかなか放してくれそうになかったから、気分 が悪いとかなんとか言い訳してもらって」
「こんな部屋まで取って何をやらかしてるのかと思ったら、スパイごっこと はな」
 缶コーヒーの自分の分を開けながら山本は嘆息した。ベッドの上で足を投 げ出してパソコンの操作をしていた反町は、受け取ったコーヒーを手にくる りと顔を向ける。
「あれー? 山本センセだってただパーティに来てたわけないよね? スパ イごっこは同じじゃないのかなっ」
「大きなお世話だ」
 反町を睨み返そうとするが、その姿が姿だけにどうも噴き出すのをぎりぎ りこらえる格好になってしまう。
「俺は地道に情報収集に来ただけだからな。挨拶だけでもいろいろとわかる ことがあるんだ。いわゆるパーティ外交ってやつだ」
「奥深いですね。山本先生はじゃあ日本の政界ルートからアプローチにいら したと。小泉さんの指令で」
「ま、まあそういうことだ」
 あまりに図星すぎて否定する気が失せたらしく、山本はあっさりとうなづ いた。
「おまえらがマークしてるあの延井栄一郎は、与党の改革派側でな、今回の 政変劇では『次』への有力なルートを押さえた奴なんだ。以前から色々と噂 が絶えなくて、まあ、一言で言えば野心家ってやつだな。京子さんからは、 ソウルでのあいつの動きから目を離すな、と言われてる。それと、もう一つ 目を離すなって言われたのが――」
「僕たち、ですね」
 三杉は笑いをもらした。
「さすがに小泉さん、懲りてしまわれたんですねえ」
「それもあるが、おまえら自身の情報網ってやつを当てにしてるんだ。現に また先回りされちまった形だしな、今夜も」
「警戒されたり信頼されたり、おまえも大変だねえ、淳」
「君もだよ」
 三杉がお約束通りに返したその時、パソコン画面に「受信」のポップアッ プが出た。反町はすぐにモニターを開始する。
 記録されていく会合の音声はかなりはっきりと具体名を挙げながら進む様 子を伝えていた。日韓両国はもとより、アメリカ、ヨーロッパの大手企業の 名前が飛び交っている。こちらはこちらで多国籍ぶりはオリンピック並とい うところかもしれない。
「さっきクギを刺しておきましたから、彼も交渉を急ぐことになるでしょ う。こちらの思惑通りに進むのも時間の問題です」
「さようで」
 山本はそのクギを想像して延井氏にほんのちょっぴり同情した。が、三杉 はその心を読んだように言葉を続ける。
「僕たちには時間がないんです。開会式はあさって。試合はその2日後に始 まります。早く翼くんを自由の身にしてあげないと」
「え、そいつは…」
 いぶかる山本から視線を外し、三杉は窓のカーテンに手を伸ばした。既に 闇は落ちてソウルの夜景が眼下に広がっている。
「翼くんを本当に縛っているのは、移籍のトラブルでもスポンサーの圧力で も、未だ来ない岬くんの心配でもない。翼くんは自分で迷路にはまったまま なんだ。自分が全部悪いんじゃないか、サッカーだけを愛してしまうことが 周囲を不幸にしているんじゃないか、と思ってしまってる。僕たちが何を言 っても彼は救えない。彼が自分で自分を赦すまでは」
 ため息を一つついて三杉はカーテンを離し、こちらに向き直った。
「だから、僕たちに今できるのは、その原因を一つずつ取り除いていくこと だけなんです。少しでも視界を良くして、出口が見えやすくなるようにね」 「岬クンもさ、翼を大事にしすぎだと俺は思うよ。翼のためならなんだって やる、あいつの全てを受け入れて認めて愛して…。その岬本人が現実にこう してチームにも戻って来られない状況じゃ、翼が自分を責めるのも無理ない もん」
 反町がしみじみとつぶやく。岬の裏の行動とシンクロする役割を与えられ ているだけに、実感があるのだろう。
「そう、岬くんのアレは誰のせいでもないのにねえ」
「その言葉は実に説得力があるが――」
 山本は複雑な顔で二人の話を聞いていたが、最後の三杉の言葉には思わず 口元を緩めた。
「同じことをおまえらにも言わないとな。三杉、反町。それに松山にも」
「何それー、ひどいよ、せんせ〜!」
 反町が腕を振り回して抗議したその時、ベッドの上に転がっていた携帯が 鳴った。
「あ、光かな? ――もしもし?」
 期待を込めて出た反町の顔がすぐに沈んだ。急いで歩み寄って来た三杉 も、それを見て落胆する。
「なあんだ、田島さんかあ。えっ、俺たち今、休憩中だけど」
「よく言うよ、こいつら」
 と内心思いながら、山本氏はしかし、田島からという点にやや不安を感じ ていた。案の定、反町の表情が変わる。
「じゃ、何か他にわかったらまた教えてくださいね、絶対!」
「どうした」
 携帯を切っていきなり頭をかかえた反町に、山本も三杉も驚く。
「佐倉さんを取り戻せなかったんだって! 例の脅迫状の通りに指定場所に 行って、佐倉さんもそこで出会えたのに、別の車が来てそっちに連れてかれ たって…」
「何だって! どうなってるんだ、そいつは」
 佐倉さんと脅迫状の件自体が極秘にされていた中だから、知らなかった山 本氏のほうが正しい。それを当事者以上に詳しく知っているこっちの2人の ほうがワルモノなのである。
「別の車って…!?」
「その上、迎えに行っていた樫くん大江くんがそれを追っかけて行っちゃっ たっていうんだ」
 三杉は目を見開いた。
「佐倉さんを取り戻すどころかさらに2人まで行方がわからないってこと か。大丈夫かな、あの2人」
「全然大丈夫じゃないぞ、それは! 何がなんだかわからんが」
 やたら熱血する山本氏である。
「おまえらが関わっている以上、大丈夫なはずがない!」
「――そうですよね」
 そこで認めるか。
「あのね、それで、飛び出してく時にあの2人が、松山くんだ、とか叫んで たって話なんだよね」
「はぁ?」
 三杉にしては珍しい、間の抜けた反応だった。
「なんでそこで光が? 岬くんと見間違えたとか?」
「かも知れないけど、ひょっとするってことも、あるぜ」
「うーん」
 パーティでさんざん「可愛いカップル」扱いされた2人が、その正装のま ま腕を組んで考え込む。それを眺めながら、山本氏は事の異常さをつくづく 噛みしめていた。
「よし!」
 いきなり顔を上げて三杉が言った。
「僕らも行こう!」
「おーっ!」
 なぜか反町はガッツポーズである。そしていきなり衣装を脱ぎ散らかし始 めた。
「おまえって光のこととなるとほんとにムキになるよなぁ。放任主義で行く んじゃなかったっけ?」
「それはケースバイケース」
 反町の着替えの間に、こちらでダウンロード作業を完了させてパソコンを 切る。そして呆然としている山本氏に三杉はにっこりと笑いかけた。
「というわけなので、すみませんがここのチェックアウト、代わりによろし くお願いします。精算は済ませてありますから、この衣装とキーを返してお いてください」
「――わかった。好きにしてくれ。あ、おい、反町!」
 呆れ顔でうなづいて、山本は反町に声を掛けた。
「はい?」
「化粧は落として行け、せめてな」
 そう、止められないなら、それくらいは。
 苦悩の人山本は、一人になった部屋の中で、京子さんの声が聞きたくなっ たなあ、などと現実逃避をしていたのだった。













「ミサキくん、君はこっちだ」
 ケータリング車が出発してすぐに、リーダーが突然呼び掛けてきた。
「何です?」
 彼が指差しているのは、大型の保冷車だった。
「すぐ出発するから早く乗りたまえ」
「ボクも行くんですか?」
「ああ、我々は別の行き先だが」
 言われて見回すと、駐車場内の様子が変化していた。山積みの危険物が消 え、何台もあった様々な作業車が姿を消している。パソコン作業のブースも 既に空になっていた。
「引越しですか」
「そういうことだ。大事を前に、どんな小さな危険も避けないと」
 今日の銀行のオンラインでの失敗をリーダーは重く見ているようだった。 岬の手助けで致命的なミスにはならなかったものの、わずかな手掛かりも残 すわけにはいかない。それが、このアジト放棄に繋がったのだ。
「ついでと言ってはなんだが、彼女の引き渡しがちゃんと行なわれるかも見 届けないとな」
「ああ、後をつけて行くわけか」
 引き渡しの指定場所は、漢江に架かる蚕室大橋を渡り切った所の道路工事 現場。なんと作業員の中にも仲間が紛れ込ませてあると言う。日雇いアルバ イトの学生ならなるほど身元の偽装もやりやすいということだろう。
 引き取りはタクシー1台で来る、時間厳守でもちろん警察への通報はしな い。以上が伝えてあるということだった。
「ふうん、監督が来るかな。それとも役員あたりかな」
「妙な様子があったらすぐに撤収しろと言ってある。最低限、人質は置き去 りにしてな」
「厄介払いが優先、ってわけですか」
「危険回避が優先だ、もちろん」
 ドライバーのメンバーとリーダーの間に挟まれた形で、岬は道路の先を眺 めていた。車高があるので見晴らしはいい。既に暗くなっていて周囲の様子 を細かく見ることはできないと踏んだのだろう。どちらにしても初めての土 地である岬には無用な配慮だったが。
 川沿いの4車線道路を快調に飛ばす。高層マンション群が次々と現われて は消えていく。対岸のほうに都市の中心部はあって、賑やかなネオンが集中 しているようだった。
「あれだ」
 腕を組んだままリーダーが言った。前方左手に目をやる。蚕室大橋だ。川 幅の広さの分だけ闇が深く、それをまっすぐ切り取ったように一直線に並ん だ照明が見える。
「ダイナミックだなあ、セーヌなんかと違って。大都市の中をこんな大河が 流れてるのは珍しいかもね」
 橋は延々1km以上もある。それを渡りながら岬はよほど感心したように つぶやいた。
 まもなく車のスピードが落ちた。車線規制による小さな渋滞が起きている らしい。ドライバーがリーダーに何か声を掛けた。それを聞いて身を乗り出 すリーダーにつられて、岬も前方に目を凝らす。
 両側から交わされる韓国語の会話が急に激しくなった。リーダーの表情が 厳しくなる。岬の目に、工事を示す万国共通の標識が映る。そこで何か騒ぎ が起きていた。
「まさか、交通事故?」
「かもしれない。それとも…」
 のろのろと、しかし止まることもなく保冷車は誘導車線に進んで行く。工 事現場はすぐ前に迫っていた。あのケータリング車だ。白い車体が赤い警戒 灯のライトを受けて停まっているのが右手に見える。その周囲で何人かの人 影が激しく動いていた。
「車があと2台ある。タクシーと――あれっ?」
 彼らが現場に差し掛かったその寸前だった。ケータリング車の前を塞ぐよ うに停まっていた大型乗用車がバックで急発進したのだ。
「今、佐倉さんと松山が見えたんだけど…!」
「まずいことになったらしいな」
 リーダーの口調は重かったが、その一方で何か悟っているような響きがあ るのを岬は聞き逃さなかった。
「今の車、2人を乗せてったあの車、何?」
「……」
 表情が苦しそうに動く。が、リーダーは何も言わなかった。
「何か知ってるんじゃないの? 答えてよ」
「――あれは、僕の実家の車だ。やっぱり、あの口座の金のことを気づかれ てしまったんだ。今日のアクセスにトラップがあったと聞いて、もしかする ととは思ったんだが」
 現場をゆっくりと通り過ぎながら懸命に観察する。停車などして怪しまれ ることはできない。
 ケータリング車のドアは前後共に開いたまま。ドライバーとその助手がそ の場にへたり込んでいる。そして、その先で仁王立ちになった男性が、車が 走り去った方向に向かって腕を振り回し、何かを叫んでいた。
「あれっ、今の人って――体操の新堂選手…監督じゃなかったっけ?」
 そう、佐倉さんを引き取りに来たはずの監督は、その佐倉さんにも、付き 添い役の松山にも、そして自分の連れだった樫と大江両選手にも置いて行か れる形になってしまったのだった。
「それに、タクシーもいなくなってる…?」
 どちらにせよ、まさに番狂わせだった。









BACK | MENU | NEXT >>