COUNTDOWN O'CLOCK










 ずっしりと重い織りのカーテンをそっとかき分けて覗いてみる。庭木が 黒々と重い影に沈んで何の気配もない。着いた時に見た長い塀もここからは 見えないことを考えると、余程広大な庭なのだろう。
「せめて月夜だったらな…」
 周囲の様子がもっとわかるのに、と松山が嘆息した時、背後でカチャッと 重い音がしてドアが開いた。
「なんだ、こんなに暗くして…」
 手を伸ばして主照明のスイッチを入れたのは、先ほど帰宅したばかりのこ の家の主人、ハ・ギファンであった。
「やめろよ。彼女、具合悪いんだから、眠らせてやれよ、せめて」
「君は…!」
 互いに言葉がすれ違っていることにやっと気づいて、主は英語に切り替え た。
「確か、さっきのパーティに出席していた…?」
「何のことだよ」
 松山も不機嫌そうに英語で応じる。
「俺たちは何の説明もなしにこんなところに連れて来られたんだ。ずっとこ こに押し込められてるのに、パーティもくそもあるか」
「あ、ああ、よく見ると違う…ような? それにこちらの女性も…」
 ソファーの上に横になって目を閉じている佐倉さんを覗き込む。松山が勝 手に部屋中からかき集めたカバー類を体に掛けて、どうやらうつらうつらし ている状態のようだ。
「あの韓服(ハンボック)の女の子とはだいぶ違うな。ふーむ」
「なんでもいいから早く俺たちを帰してくれよ。熱があるんだ、この人は。 せっかく帰れるところだったのに」
「うむ、失礼があったようだね。それは謝る。だが、うちの者が息子を連れ 戻そうとしてやったことなのだ。協力さえしてくれれば悪いようにはしない よ」
「なんだとぉ」
 すごむ松山にも動じることはなく、主は正面のソファーに腰を下ろした。 手振りで松山にも座るよう促すが、松山はそのまま動かない。
「どんな金持ちか知らねえが、家庭内のもめごとは家庭内で解決しろよ。無 関係な者まで迷惑かけていいと思うのか?」
「君の言うことはもっともだが、これが犯罪がらみになるとそうとばかりは 言っていられない。まして国家を揺るがすような犯罪なら尚更だ」
 主は壁に掛けられた大きな額を目で示した。堂々たる高層ビルを写した写 真に「南龍」の金文字が刻印されている。
「我が南龍(ナムヨン)グループは私の父が創業した会社だ。私が受け継 ぎ、そして息子がさらに受け継ぐことになっている。息子は期待通りに名門 大学に入り、そして卒業と同時に経営に加わるはずだった。が、あいつは突 然家を出て行ってそのまま戻って来ない。それどころか、学生運動にのめり こんで過激な思想に走っているという話まで聞こえるようになった。今回の オリンピックに反対して、暴力的手段に訴えてでも阻止する、などと――」  大きく息を吐いて、ハ社長は首を振った。
「グループ内の資産の一部が不正に流用されているという報告があってか ら、私はずっと息子の動きを監視してきた。学生運動の活動資金にこっそり 使っているのでは、とね。あいつは私や私の会社を国家の悪策にくみするも のとまで言って、そのことに何の後ろめたさも感じていないらしいが、これ は立派な犯罪だ。もちろん、国家や国家の事業へのテロ行為も間違いなく犯 罪だ。君はそう思わないか」
 まっすぐに見つめるその視線の強さは、さすがに財閥の総裁として手腕を ふるってきた人間の重みを持っていた。
「俺に何を言わせたいんだ? 俺から見れば、それもこれもやっぱりあんた たち親子の価値観の違いで生まれた家庭問題だね。息子のやっていることを 犯罪だと言うなら、あんたのやってるこれだってちゃあんと犯罪だろ。俺が 言いたいことはたった一つだ。この人と俺を、ここから出して帰してくれ」 「どうもわかってもらえないようだね。君は息子がやっていることを知って いるはずだ。今どこで何をしているのか、それを教えてほしいと言っている んだよ」
「そいつは無理な相談だ」
 松山はせせら笑った。
「俺はあんたの息子の知り合いなんかじゃないからな。まあ強いて言えば一 回一緒に食事をして、一回一緒にドライブをして、そして俺の友人のところ に連れてってもらった。それだけだ。危なっかしい武器を集めてたり、仲間 と迷惑な計画を立ててたり、そういうことは俺とは無関係だ。この人だって 同じだよ」
「私は様々な手段を使って息子の活動を監視していたと言ったはずだ。君た ちが乗って来たあの車は、学生運動のもっとも過激な一派が使っていると割 り出されたナンバーのものだった。無関係なわけがないんだ!」
 ハ・ギファン氏は立ち上がった。松山をじろりと睨みつけ、大股に部屋を 出て行く。そしてドアの所でもう一度振り返り、指を振り立てた。
「明日の朝まで待ってやるから、さっさと息子の居所を白状するんだ。それ で駄目なら警察に引き渡してそっちで取り調べさせることになるから、よく 考えたまえ」
「あ〜、ほんとにわからないおっさんだなー」
 閉じられたドアをうんざりとした顔で眺め、松山はつぶやいた。
「あんな頭ガチガチの親父じゃあ、あの兄ちゃんも飛び出しちまうだろう な。こんな大財閥に生まれるのも良し悪しってことだ」
「あのー」
 囁く声が聞こえて、松山はぱっと振り向いた。ソファーの上で佐倉さんが こちらに首を伸ばそうとしている。
「やっぱり起こしちまったよ。ごめんな、大声で騒いで」
「ねえ、私ら、なんでこんなとこにいるの? 選手村には帰れへんの?」
 引き渡し場所でいきなり別の車に押し込まれた時はもちろん何が起こった のかさえわからず、そしてこの家に着いた時には佐倉さんは熱が上がって朦 朧とした状態だったのだから事情が飲み込めないのは当然だ。いや、松山に だってまだよくわかっていないくらいだから。
「また次の厄介に巻き込まれちまったみたいでな。ここから出してもらえそ うにねえんだ。せっかく帰れると思ったのに、がっかりだぜ」
「ここ、どこ?」
 顔を上げて室内をきょろきょろと見回す佐倉さんである。
「どっかの大金持ちのお屋敷だ。あのテログループのリーダーの兄ちゃんが なんとここの跡取り息子だったって、今聞かされてたんだ」
「うわぁ、そうなん?」
 佐倉さんは目を丸くした。
「気分はどうなんだ? さっきはかなり熱があったけど」
「それが、全然」
 自分の体を見下ろして佐倉さんははっと何かに気づく。
「すっごい汗かいてるわ。これ、掛けててくれたおかげかな。熱全部出てっ たみたい」
「そっか。でもそのままじゃまた冷えちまうから着替えないと――てのも無 理か。ちょっと待ってな」
 松山は部屋の反対側のドアに向かった。さっき一人で調べて回ったので、 ここがバスルームであることも確認済みだったのだ。シャワーとトイレと洗 面台のあるそのバスルームからありったけのタオルをかき集めてくる。
「せめてこれで拭いたら。ここの奴を誰か呼んで、着替えを頼んでもいいけ ど。あ、それと水も、これ。洗面所の水じゃちょっと嫌かもしれないけど、 脱水症状になるよりはいいだろ」
「ありがと。ごめんね」
 佐倉さんはにこっと笑ってタオルとコップを受け取った。体を拭く間、松 山は一応遠慮してバスルームに籠もっていたが、呼ばれて出てきた時には何 か決心したような顔になっていた。
「あのな、これ以上ここにいるのはヤバイって思うんだ」
「うん」
 佐倉さんもつられて真剣な顔でうなづく。
「で、逃げよう」
「できるん?」
 もちろん問題はそこだった。
「さあなあ。けど、やってみないと無理かどうかわかんねえだろ? 要はま ず外に出る手を考える、ってことさ」
「それは賛成。けど、ケガしたらおしまいやから、危ないことはなしやよ」 「だよな」
 松山はカーテンの掛かった窓を指差した。
「ガラス割って出る、てのは?」
「単純言うたら単純やけど、音がするよ?」
 2人は窓まで歩いて行くと、そのカーテンをそっとめくってみた。
「…わわっ!?」
 2人が仰け反ったのも無理はない。その窓の外に、顔が貼り付いていたの だ。しかも、見覚えのある顔が。
「樫くん!」
 佐倉さんが思わず叫んだ。
『先輩! 松山くんも! ここやったんやー』
 ガラス越しにそう口が動くのを見る。続いて大江の顔もぴょん、と現われ た。
「な、何してんの、あんたら! どうやって来たん?」
 大江が背後を指差す。塀を乗り越えた、と言っているらしい。こちらもか なり単純で基本的な手を使ったようだ。
「よし、行くぞ!」
 松山は部屋にあった花台を持って来た。重そうな黒檀の台である。外の2 人に避けているように伝えて松山がそれを振り上げた時――。
「何をしているんだ?」
 背後から大きな手が伸びて、その台をがしっとつかまれる。振り仰ぐと、 作務衣のような服装をしたいかつい男が睨んでいるのだった。佐倉さんが、 きゃっと小さく悲鳴を上げる。別の一人が彼女の腕を引っ張ったのだ。
「うっせーな、離せよ!」
 窓の外でも使用人たちが現われて同じように樫と大江を取り押さえようと していた。
「くそぉ!」
 駄目かと思われたその時、何やら異様な空気が彼らを包む。庭園の外が、 突然煌々と輝き始めたのだ。松山たちをつかまえている男たちにも動揺が走 る。
「何だ!? どうしたっていうんだ!」
 光は幾重にも重なり合ってさらに強さを増している。しかもエンジン音や 人声が波のように押し寄せてきていた。
「か、し、くーん! おー、え、くーん!」
「…なんだぁ?」
 どうにも身に覚えのある声がどんどん大きくなってくる。男たちはあわて て走り去って行き、4人はただぽかんと取り残された。これは、一体、何事 なのか…。
 しかし、今がチャンスだ、と突然気づいた松山がまず動いた。
 開いたままのドアから佐倉さんを連れて飛び出し、さらに廊下を突っ切っ て庭に出る。そこには樫と大江も待っていた。
「樫くーん! 大江くーん!」
「きゃー!!」
 騒ぎはさらに大きくなってきた様子だ。事態にあわてているこの家の人間 の動きが余計にあおる結果になっているのか。
 4人は顔を見合わせる。
「なあ、あれってどう聞いてもあんたたちのことを言ってると思うんだが」 「うん、そやな…」
 松山の言葉に樫が当惑しきった顔でうなづいた。
「けど、ボクらなんも知らんよー。なんであんなん言うてんのか」
「ちょっと様子見てみる?」
 佐倉さんが提案して、彼らが最初に侵入したルートを塀まで逆にたどって 行く。塀に近づくにつれ、その騒ぎが体操コンビの応援であることを確信す ることとなった。
「うわー、すごい人数!」
 塀からちょっと覗いて佐倉さんがつぶやいた。屋敷の正面にたくさんの車 がライトをつけたまま大集合している。タクシーを含めた乗用車に、そして 観光バスまで混じっている。
 その光の中で、信じられない人数の若い女の子たち、さらにおばさまた ち、わずかに男性陣…が皆こちらに向かって口々に声援を送っているのであ る。これは異常事態としか言いようがない。
「ねえっ、あれ!」
 一人の声がきっかけになり、また悲鳴のような声が重なった。
「樫くんと大江くん、あそこにいるわっ!!」
「きゃ〜〜〜!」
 やれやれ。
 顔を覗かせて見つかってしまった2人は塀のこちら側に座り込んで首をす くめた。
「どうなっとんの?」
「ボクかてわからんわー」
「よーし」
 困り果てている2人をよそに、松山が張り切り出した。
「何か知らねえが、こいつはチャンスだ。あんたら、遠慮なく顔を出して挨 拶でもしてやんなよ」
「えー、なんで?」
 松山に押されるようにして二人が塀の上に伸び上がると、これまでの倍以 上の悲鳴が弾けた。
「あっ、あのー。どうも、応援ありがとう、ございます…」
 きゃ〜!
「けど、夜やし、あんまり賑やかいと近所迷惑やないかな、って」
 きゃ〜!
 何を言っても騒ぎは同じだった。どちらにせよ簡単に収まりそうにない。 道に飛び出してその騒ぎを止めようとしているこの家の使用人たちが空しく 右往左往しているのをにんまりと眺めて、松山が合図する。
「よし、逃げるぞ」
 塀は内側からは1メートルちょっとしかないが、低くなっている道路側か らはその倍くらいの高さがある。まず松山が飛び下りて下から佐倉さんを助 け下ろし、次に樫と大江が身軽に下り立った。もちろん大歓声と拍手が響 く。ウルトラD難度の技が決まったかのようなその喝采に、駆け寄ろうとす る男たちも手が出せない。代わりに、ファンの皆さんが押し寄せてきて彼ら を囲んでしまった。
「あ、どうも」
「ありがとー」
 もみくちゃになりながら屋敷からどんどん走り去る。松山が最後に振り返 った時、家の2階の窓に人影が見えた。主のその苦々しい顔を認めて松山は 笑い出す。
「どうしたん?」
「いや」
 佐倉さんの手をしっかりと握り直し、先を行く大人気コンビにとにかくつ いて行く。
 そこへ、横からクラクションが鳴った。
「あっ、監督!」
 他の車に混じって、見覚えのあるタクシーがそこに停まっていた。まさに 不機嫌を絵に描いたような顔の新堂氏と、そしてお馴染みの運ちゃんがこち らを見ている。
「乗れ! とっとと!」
 人数オーバーはこの際目をつぶって、ファンの皆さんから逃れることにす る。
「おまえらの単独の壮行会は終わりだ。まったく、なんて真似をしてくれる んだ、いつもいつも」
「いや、ボクら全然知らないんです、なんでこんなことになったんか」
 走り出したタクシーの中で、さっそく監督のカミナリが落ちる。2人とも 首をすくめたが、これは言い逃れではなく事実である。
「このタクシーの運転手からおまえたちがここらにいるって教わったから急 いで来てみたらこれだ。集まってた人たちに聞いてみても要領を得んし。何 なんだ、招集がかかったって…?」
 監督はうなり続ける。
「おまえらの学校関係の応援団も含めて、なんか応援ツアーで来てた人たち のホテルに連絡があったって言うぞ、あの家で応援イベントをやるから集ま れ、ってな」
「えー、知りませんって、そんなん――」
「あれ?」
 そんなやりとりは自分に無関係、とばかりに窓の外を見ていた松山が目を 丸くする。そしてしきりに車の背後を振り返っているのに気づいて佐倉さん が声を掛けた。
「何か、あったの?」
「…さっき、坂のあたりで見えた気がしたんだよな。けど、あの幸さんがこ んなとこにいるわけねえし…」
 ぶつぶつと言いながら首をひねる。が、それもすぐに忘れてとりあえず脱 出成功を喜ぶことにしたようだ。
 タクシーは選手村目指して走る。日付が変わる寸前のソウル市街を突っ切 って。
「奥様、ちょっと賑やか過ぎたようでございますよ」
 様子を見に出掛けていた幸さんが、宿泊先の知人宅に戻ってそう報告をし た。
「まあ、そうなの? 一緒の飛行機だった体操の応援団の人たちにちょっと 声を掛けただけなのに、よくそんなに集まったものねえ」
「よほど結束力があると見えますね。話がどんどん大きくなりながらの伝言 だったかもしれませんが」
「でもそんな楽しい集まりだったのなら、私もちょっと見て来ればよかった わ。残念だこと」
「そうでございますね」
 三杉の奥様のお休みの支度を手伝いながら、幸さんはただそう同意しただ けだった。
「光ぼっちゃんがなぜあそこにいらしたかは、見なかったことにいたしまし ょう」
 と、心の中につぶやきながら。









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