チャールダーシュ
KEEPERS ON THE RUN 外伝





第二章 『 鍵 』
「突っ返すつもりだったのにな」






「突っ返すつもりだったのにな」
 石畳の道を歩きながら、ヘフナーはポケットの鍵を探った。古い、ピアノ の鍵。それはギュンターから渡された母親の形見だった。
「アンジェラじゃそうもいかないか」
 ジノに押し付けるはずが、思わぬ代役の登場で思惑外れとなってしまった ヘフナーであった。
 あの時オペラハウスで受け取ったものの、処置に困ってずっと部屋に放り 出していたのだ。直接ギュンターに会って返すのもいまいましいし、とその ままにしていたのだが、ジノから呼び出しを受けた時に、ついでになどと思 いついたのが間違いの元だったかもしれない。
 ケルンの旧市街をヘフナーは歩き続けた。中央駅と大聖堂の尖塔が左手背 後に遠ざかっていくのを、彼独自の方向感覚でとらえながら、ただどんどん 歩き続けた。
 ヘフナーは本来迷うことをしない。決心がつかずにうろうろと途方に暮れ るというのは、彼にもっとも似つかわしくない行為だった。
 しかし今回だけは違っていた。全部あのギュンターのせいだ…と、ヘフナ ーは的外れを承知で腹を立てていた。
 何のつもりか知らないが――知りたくもないが――今さら母親の形見を渡 されても、ヘフナーにはどうしようもないことだった。まだ幼いうちに家族 というものと決別して以来、それはいい意味でも悪い意味でも「どうでもい い」ことの一つでしかなかったのである。
 しかしこうして自分が途方に暮れていること自体が何よりも腹立たしく て、ヘフナーはいっそう足を速めて歩き続けているのだった。
 わずかな起伏のある通りを下り、バス停に並ぶまばらな列をやり過ごして ――そしてヘフナーはその建物の前に来た。
『チャールダーシュ』
 看板の少し曲がった手彫りの文字が、地下への階段を示している。ヘフナ ーはむっとしたように立ち止まると、その名を口の中でつぶやいて確認し た。
 階段を下りたその先に、白熱灯のぼーっとした明かりが並んで濃緑のドア へと導いている。ペンキを塗りかけて途中で投げ出したような、そんなドア にヘフナーは手を伸ばした。
「……」
 カチリ、と無情な音を立てたまま沈黙するドアを前に、ヘフナーはやっぱ り、と考えた。夕方ではまだ早すぎたということである。ライブハウスと言 うからには、きっともっと遅い時間から営業するのだろう。
 少しそこらで時間を潰そうと思ったのかどうか、とにかくヘフナーは背を 向けて階段に向かいかけた。
「ワン、ワン!」
 確かに犬の声と、そしてそれに続くドアの閉まる音が背後からヘフナーの 耳に届いた。
 足を止めて耳を澄まし、それからUターンする。
 ドアに手を掛けると、今度はあっさりと開いた。ヘフナーは無言で足を踏 み入れる。
 店は奥行きがあり、あまり明るくない照明の下でテーブル席がいくつか壁 際に並んでいる。さらにその奥に低いステージがあって、アンプ類がばらば らと所在なげに取り残されていた。
 ピアノは…と見回そうとした時、ヘフナーははっと足元の気配に気がつい た。
「犬…」
 銀灰色のハウンド犬が、長い舌を出してヘフナーを見上げている。そして 目が合うと、犬はさらに近寄って来て靴の先をくんくんと嗅いだ。これがさ っきの声の主らしい。
「おやぁ…?」
 ヘフナーが犬に気を取られている間に奥のドアが開いて、小柄な男が顔を 出した。地中海風の短い革のベストを着て、丸い眼鏡をかけている。その眼 鏡越しに、男はヘフナーをじろじろと見つめた。
「新しいギタリスト候補かい?」
「いや、俺は…」
 ヘフナーが一歩離れたのを見て引き止めようとしたのか、犬が横ざまにい きなり飛びついてきた。伸び上がるとずいぶんと大きな体だった。もっとも ヘフナーがそれくらいの不意討ちでよろめくはずもないが、店の男との会話 はその灰色の毛の中に埋もれてしまった。
「おいおい、よさないか、グスタフ」
 男の制止する声に、犬とヘフナー、両方が動きを止めてしまった。
「普段そんなことしないくせに、どうしたんだ、おまえ」
「――おまえもグスタフ、って言うのか…」
 別に情けなくもないが、やはり少しばかり哀感が漂う。
「すまんねえ、あんた」
「大丈夫、俺は犬に慣れてるから」
 男はこわごわとヘフナーを見上げながら近寄って来た。持っていた段ボー ルの箱を脇に置き直す。
「用はマスターにかい? 今、留守なんだ」
「そうか…。預かり物を返しに来たんだが」
 ヘフナーの言葉に男は首を振った。
「俺じゃわからねえなあ。急ぎじゃないなら、悪いが出直して来てもらうし かないかねえ」
 ワン!という声に、二人の会話はまた中断した。振り返るとグスタフ君は 奥のドアに嬉しそうに駆け寄って行くところだった。
「ああ、ミリ。今日は早いんだな」
 男の声には明らかにほっとした調子が見て取れた。
「お客さん? にしちゃ、早いけど」
 ミリと呼ばれた女性は犬を片手で押しとどめながら二人のほうに――い や、ヘフナーに視線をぴたりと止めていた。
 すらりとした長身に長い黒髪。大きな花をプリントした黒地の服の上から ざっくりと編んだショールをぐるぐると巻きつけている。押さえた色調のメ イクとは対照的に耳元には大きなゴールドのイヤリングが光っていた。一見 しただけでは年齢がよくわからないが、アンジェラと同じかもう少し上とい ったあたりか。
「なんかマスターの知り合いらしいけど…」
 気まずい間を持て余していた男は、やれやれこれで助かったとばかりに素 早くドアへと移動した。女とすれ違いざま体をひょいとかわすようにして入 れ代わると、あっという間に消えてしまう。
「悪い、俺な、今日はちょいと急ぐんだ。じゃ」
「はいはい、お疲れ」
 女は適当にそれを見送ると、ステージ脇をぐるっと回ってヘフナーの前に 来た。
「私はここの専属の歌手よ。ご用は?」
「ピアノの鍵を返したくて来たんだ――」
 ヘフナーは自分が相手の目に思わず引き込まれそうになっているのに気づ いた。
 異国の空気を含んだ深い瞳。湿り気を帯びたその色の中に、消しがたい悲 しみのようなものがある。
「――昔、マスターから預かったそうなんだが」
 女はゆっくりとした動作で背後を振り向いた。その先には問題のピアノが ある。
「鍵なら私も持ってるけどね。でも、かけたことなんてほとんどないわよ」  細い指がピアノの鍵盤に触れた。
 ヘフナーはピアノに近づこうとして足を止める。
 流れ始めたのはゆったりとした短調のメロディーだった。左手の伴奏の中 に特徴的な装飾音とスタッカートが続き、主旋律が時折それに呼応するよう に絡まる。2回目の展開部にかかったあたりで、女の口から低く声がこぼれ はじめた。ハミングがやがてM音の単純な繰り返しに移り、シンコペーショ ンの変拍子の中でテンポが伸び縮みしていったその先で、不意に音は止まっ た。
「ふふふ、発声練習よ」
 女は顔を上げてヘフナーに笑いかけた。
「今の曲は?」
「まだ完成していないの。詞だけ先にあるんだけれど」
 これまで耳にしたどんな種類の音楽とも違う、不思議な手触りの音楽だっ た。発声練習と言いながらほとんど声を出していなかったことはともかく、 それよりも歌詞付きでもう一度じっくり聴いてみたい、とそう思わせるもの があった。
「座ったら?」
 ちょうど壁際にあった席の一つに、ヘフナーは素直に掛けた。と、そこへ さっきの犬がすり寄ってきて、足元にでんと丸まってしまう。
「グスタフ、あなたに言ったんじゃないのよ」
「……」
 ヘフナーはまた複雑な気分になる。
「これは古いピアノでね、私がここに来る前から、ずっと昔からあるんです って。時々調子が狂うこともあるわ。でも、私は気に入ってる」
「歌うだけじゃなくて、曲も自分で作るんだな」
「あんまり」
 女はちょっと肩をすくめた。
「ここでは今みたいな曲はあまり受けないから。曜日にもよるけど、ほとん どロック系ね。私もそれに合わせて、まあ、いろいろね、歌うのは」
「でも――その体で?」
 ヘフナーは少しためらいがちに低く言った。女の目が輝き、自分の腰に手 を置いた。
「あら、わかった?」
 それはまあ、相手は違っても医学の一部にひっかかる分野に身を置いてい るのは確かだし。
「まだそんなに目立たないつもりだったんだけど。どっちにしても歌には関 係ないわ。ギリギリまで歌ってるつもりよ。ギリギリまでね」
 また女の目に影が落ちる。
 ヘフナーは立ち上がった。出直すことにする。
「ミリ、って呼んでたな」
「ええ」
 女はピアノの前に座ったまま、口元に微笑を浮かべた。
「ミリメートルのミリ。ここじゃみんなそう呼んでるわ。私の『家』にそう 書いてあるから。店の裏に廃車になったキャラバンがあって、会社名だか商 品名だか、そう書いてあるのよ。ミリメートル、ってね」
「適当なんだな」
 本名は、と尋ねたいのを抑えてヘフナーはそう言った。
「私は気に入ってるのよ。この街に来て、この店にこんなに長くいるのも、 この名前が居心地いいからかもね」
「そんなものか」
「そんなもの」
 ミリは気を悪くするふうもなく手をひらひらさせた。
「また来る? 今度は私の歌を聴いてほしいわ」
「ああ」
 ヘフナーはためらわずそう答えた。古びた地下のライブハウス。ここが自 分の生まれた場所だという感慨はないに等しい。だが、別の意味が生まれた かもしれない。
「そうだ、あなたの名前は?」
 ドアに手をかけたところでヘフナーは呼び止められた。
「今さらちょっと言いにくいんだが…」
 足元にいる犬にちらりと目をやる。
「グスタフっていうんだ」
「まあ…」
 ミリは咳払いをするように手を口元に近づけた。
「じゃ、さよなら、グスタフ」
「ああ」
 ドアを閉めると、中からまた犬が一声吠えるのが聞こえた。






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