ヘフナーの耳にはまだあの不思議な旋律が残っていた。
学校でも、アパートの部屋に戻っていても、ふとしたはずみにあの時の響
きがすうっと耳に蘇って、ヘフナーをはっとさせるのだった。
『ごめんよ、グスタフ』
ミラノからの国際電話は、歓迎されていないことにはまったく気づいてい
ないかのように快活に響いている。
『でも君だっていい口実になったろ?』
「何のだ」
『ギュンターの手前、自分から甘えられないものね』
「――切るぞ」
相手の返事も待たずに叩きつけられようとした受話器が、突然ヘフナーの
手からふわりとすり抜けた。唖然とするヘフナーの目の前でぷかりぷかりと
宙に浮きながら声を流し続ける。
『どうだい?』
「ヘルナンデス!」
ヘフナーは受話器を睨みながら一歩後退った。もちろん怯えてではなく、
つまりその非常識さに呆れて、であるが。
『遠隔操作をマスターしたんだよ。便利だろう?』
「やめんか!」
ヘフナーは低くうなって奪い取るように受話器をつかんだ。
『そうかなあ。ワカバヤシには受けたんだけどな』
「あいつと一緒にするな!」
そもそも電話という機器を必要としない男など比較の対象にならない、と
いうのがヘフナーの考えらしかった。まだこちらのほうがまし、とばかり
に、受話器をがっちりと拘束して嫌そうに耳に当てる。
「それより用件があるならさっさとすませろ。シュナイダーのことじゃなか
ったのか」
『ああ、それそれ』
こだわらない性格はジノの最大の強みかもしれない。
『あんまり熱心なんで、君の住所は教えたんだ。でもほら、一人で行くのは
お勧めできないだろ、彼。僕が付き添って行くからもう少し待てって言い聞
かせたんだよ』
「……」
試合中に敵味方でそういう交渉をしていたわけか。
『でも、耳に入っていないって感じだったから、一応早めに君に知らせてお
こうと思ってね』
「そうか…」
別にシュナイダーに会いたくないというわけではない。問題は、この若き
皇帝と呼ばれて久しいスタープレイヤーが実生活においてある重大な欠陥を
もっているということなのだ。現に最近も続けて実害を受けてしまった二人
にとっては、さらなる騒動を避けたいと考えるのも当然だった。
「ただの方向音痴だけならまだしもな…」
『トラブルハンターだからねえ、シュナイダーって』
ため息を電話のあっちとこっちでつき合ったところで、ジノは別の話題を
思い出したようだ。
『話は戻るけど、この間僕に渡すものがあるって言ってたの、どうなった?
アンジェラにことづけたのかい?』
「いや、あれはもういい。自分で渡しに行ったからな」
むろんギュンターにではなく、ケルンの旧市街にある店へ、だと話す。
「ピアノは当時のままらしいからな。俺が持ってるよりはマシだろうさ」
『へええ、生まれ故郷を訪ねたってわけか、とうとう。ご感想は?』
「別に…」
ヘフナーが一瞬言葉を切ったのをジノは聞き逃さなかった。
『美人でもいた?』
「おまえじゃあるまいし――」
しかし、ヘフナーは『チャールダーシュ』で聴いた不思議な曲のことは素
直に話した。
『ミリメートル? ステージネームだとしても変わってるね、確かに。それ
にギュンターがデビュー前に活動していた店なんだろ。もっとロック色の強
い音楽ならわかるけど』
「そういうのもあるんだそうだが」
『で、また行く?』
ジノはヘフナーとはまた違った次元で興味を持ったようだった。
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