チャールダーシュ
KEEPERS ON THE RUN 外伝





第四章 『 足音 』
その数日後、ヘフナーはまた少し早めの時間帯を選んで…






 その数日後、ヘフナーはまた少し早めの時間帯を選んで『チャールダーシ ュ』を訪れた。
 ミリは毎日歌うのか、歌うとしてもどういう形でなのか、それさえも知ら なかったので、とにかくあの時の開店前の時間を狙うことにしたらしい。
 途中で雨が降り始め、階段の降り口でヘフナーはコートの水滴を手でぱら ぱらと払った。階段の下を窺うと、前の時にも増して地下の廊下は薄暗かっ たが、その奥で微かに犬の声が響いている。ヘフナーは苦笑しながら降りて 行った。
「いつも腹を減らしてるのか、あいつは」
 母親が赤ん坊の泣き声でその要求を聞き分けるのと同じように、ヘフナー は動物の――特に犬の気分を読み取るのが得意だった。GK仲間たちと共有 する秘密の能力とは別であり、経験に基づく特技だと彼はいつも主張してい るが、既に常識レベルを超えていることは否定できない。
「よお、元気そうだな」
 自分と同じ名を持つ店の看板犬の歓迎を、ヘフナーは余裕で受け止めた。 ドアを開くと同時に飛びついてきたのであるが、犬のそのふさふさした頭越 しに、ヘフナーの目はステージ脇に向けられている。
「こんにちは。来てくれたのね、グスタフ」
 ミリはピアノの前に座っていた。
「どうした、顔色が悪いが」
「昨夜あんまり眠ってないのよ。久し振りに二日酔いかしら」
「まったく、妊娠中の深酒は厳禁だってのに。――家族は?」
 ヘフナーはピアノの前に立ってミリを見下ろした。
「やあね、医者みたい。家族はいないわ。ひとりよ」
 長い髪をかき上げると、ミリはバーカウンターのほうを未練がましく見や った。
「この子の父親は、って言いたいんでしょ。ここにはいないの。遠くの町へ 行ったわ。別のバンドに引き抜かれてね」
「ここの、ミュージシャンだったのか」
 また髪が揺れた。
「どんな水も流れなければ腐る。…古い歌にあるでしょ。彼はまだ若いし、 外の世界を見なければいけないのよ。私とここにいてはいけなかったの」
 鍵盤の上に指が置かれた。和音のスケールが途中で止まる。
「そうだ、私、占いもできるのよ。タロット占い。あなた、占ってあげまし ょうか」
 俺は占いは信じない…と言おうとしてヘフナーはなぜかためらった。
「いや。それよりあの曲をもう一回聴きたいな」
「そう?」
 ミリは言うなりキーをポーンと鳴らした。
 ヘフナーを見上げて、座るように目で促す。この間と同じ席にヘフナーが 座ると、犬のグスタフがまた側まで歩いて来てうずくまった。
「じゃあ、歌つきでね。できてる所までだけだけど」
「おい、気分が悪いなら無理するなよ」
「悪いもんですか」
 なるほど、ミリはピアノに触れるとさっきとは別人のように目が輝いてい た。ゆったりとした前奏を弾き終えると、確認するように一度顔を上げる。


――小鳥は、朝をはこんでくる
  朝はあなたをはこび去る
  わたしは小鳥を殺し わたしの胸の中に隠す

  殺されたはずの小鳥が鳴いている
  わたしの胸の中で鳴いている

  ああ あなたを小鳥よ起こすな
  わたしの胸に頭をもたせて
  眠っているあなたを

  VULCANO DEL PIANTO
  誰も訪れない 山頂の湖(みず)に
  沈んでいる夜の夢
  霧が つめたい両の手をそっと添えて
  音のない未明の月

  殺された小鳥がうたっている
  ・ ・ ・ ・ ・ ・

 伸びのある、なめらかなアルトだった。その叙情的なメロディーにうねり のようなクレッシェンドが連なって、いつまでも聴いていられるような心地 よさがある。
 最後のフレーズが繰り返されながらハミングに変わり、テンポがどんどん 速くなっていったその先で、突然ぱたりと音が途切れた。
 ヘフナーは目を見開いた。
「おい、どうした」
「ううん」
 顔を上げたまま呆然と宙を見つめていたふうのミリは、呼ばれてはっとこ ちらを振り向いた。顔が青ざめている。
「ごめんね。――ここまでしかできてなくて」
「ミリ?」
 立ち上がったヘフナーが近づこうとするより先に、ミリは奥のドアへ走る ように消えた。
「大丈夫か、おい」
 ヘフナーもすぐにそのドアに駆け寄る。
 奥の台所を抜けるその先の通路へ、ミリは足早に抜けて行く。
 台所にいた中年の女が、まずヘフナーを見て驚き、そして一緒にミリの後 姿を見送った。
「何だったんだ」
「ああ、ミリならいつもああだよ。くるくる気分が変わってって。まあ、そ こが不思議にあの娘の魅力っていうのか、あれでけっこう好かれるんだけど ね。可哀相に…」
 女はなぜか小さくため息をついてから流しの下にかがんで何やら作業に戻 る。この店の料理担当の一人らしい。
「今、歌が聴こえてたね。聴いたことのない歌だったけど」
「――可哀相に、って?」
 ヘフナーはその前の言葉を聞きとがめる。
「ああ、私はまだこの店に来て間がないから直接は知らないんだけどね、ほ ら、時々ふさぎこんでひどく酒を飲んだりしてねえ。おなかの子に悪いって 言うんだけど」
「……」
「別れた男のことをまだ想ってるんじゃないのかねえ。子供ができたことも 知らせなかったんだそうだよ」
 大きな鍋を火にかけて、コックの女はぱん、と大袋を破る。パスタを茹で 始めるようだ。
「ああ、マスターね。先週からスペインだかどこかの親戚のところだよ。身 内が亡くなったってね。しばらくは帰らないんじゃないかね」
「そうか…」
 ヘフナーはポケットから出した鍵にじっと目をやった。
 間が悪いと言うか。
 それとも、また来いということだろうか。





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