まさかとは思ったが、ジノは律儀に電話を掛けてきた。
『――そうか、複雑な立場なんだね』
ヘフナーの説明を聞いて、電話の向こうのジノはわずかにため息をついた
ようだった。
「周りが言ってるような可哀相な境遇、というのとは違う気がするが。た
だ、歌だけは本当に好きみたいでな」
『いや、僕が言ったのは君の立場のことだよ』
「あ?」
『傷心の女性に、君が何をしてあげられるのか、って意味でね。別れた恋人
の身代わりっていうのも悲しいしなあ』
「何だと? おまえはな…!」
ヘフナーはらしくもなく動揺してしまったようだ。
「勝手にくだらん想像をするな!」
『でも僕も一度行ってみたいな、ケルンなら。その歌を、聴いてみたいよ』
「好きにしろ」
とは言ったものの、ミリの様子が気になって、ヘフナーはまた翌日も店に
やってきた。夕方の、まだ開店前の時間を選んで。
「グスタフ」
今日は、ミリは元気そうに見えた。昨日の様子が嘘のように微笑んで迎え
る。
「昨日は悪かったわ。せっかく歌を聴いてくれたのに途中になっちゃって。
まだ誰にも聴かせてないの、あれ。どう思った?」
「――悲しい歌だな」
ヘフナーはミリの前に立ったまま、短く答えた。ミリの顔に、何か複雑な
ものがよぎったようだった。
「歌詞はどこかの民謡のようだったが…」
「そう、古い歌をアレンジしたのよ。曲だけ新しく作ったの」
「もう一度弾いてもらえないか」
ヘフナーの言葉にミリは顔を上げた。唇を強く結んで、そしてかぶりを振
る。
「いいえ、今日はだめ。それより話を聞いて」
「なんだ?」
ピアノは今日は蓋が閉められていた。それをちらりと横目で見てから、ミ
リはいつもの席をヘフナーに勧めた。
「あなたって運命とか占いとか信じないタイプでしょう。ううん、わかって
るわ。でも、聞いてほしいのよ」
ミリは言葉を探すようにしばらく黙ってから話し始めた。
「あなたは何かを探しにこの店に来た。自分でもわかってないようだけど。
鍵を返す、なんて口実でしかないのよ」
「俺は…」
反論しかけたヘフナーは、しかしそれ以上何も言わなかった。ミリもショ
ールを肩に引っぱり上げながら黙り込み、二人の間に短い沈黙が落ちた。
「あなたの手助けができるのは本当はあなたしかいない。それと同じに、私
を救えるのはやっぱり私だけだって、それを昨日ずっと考えてたのよ」
「ミリ――」
元気そうに見えたのは、そう振る舞っていただけで、間近に見るとやはり
ミリの顔色はかなり悪かった。
「じゃあ、その男となんで別れたんだ。チャンスを生かせって言って送り出
しちまったのはあんたのほうだって聞いたぞ」
「……」
テーブルに頬杖をついているミリの頭が左右に揺れて、髪が肩に流れ落ち
た。
「彼には言えなかったことがあるのよ。私はね、ずっと一人で生きてきて、
他の誰も必要としていなかった。彼と出会ってからもそうだったわ。でも、
子供ができたってわかった時に、私は初めて、この子が私にとって唯一必要
な存在になってるって知ったの。――そんなこと、彼に言えるわけないっ
て、その時は思ってた。でも、結局言い残した言葉って、取り戻せないの
ね」
「……また会って、言えばいい」
ミリは両手を緩めて頭を上げた。何かを探すように店の大きなドアに視線
を投げ、それからまた頭を振る。
「私の占いは当たるのよ。たとえ、自分の未来でも」
ぽつりと、何でもないことのように、ミリは言った。
「彼とはもう会えない。――この子とも」
「え?」
意表を突かれてヘフナーが絶句したのを見やりもせず、ミリは肩で大きく
息をした。
「何のことを言ってるんだ? まさか……」
「ねえ」
ヘフナーが声を荒げかけるのをさえぎるように、ミリはぱっと顔を上げて
まっすぐに目を見つめた。
「私の、本当の名前を教えてあげる」
「ミリ!」
ヘフナーはテーブル越しにミリの手をつかまえた。はぐらかしは許さな
い、という強い調子がその声にはあった。
しかしミリは、穏やかにただヘフナーを見つめている。
「あなたとも、これでさよならするわ。私の一族では、本名は一生使うこと
はないの。誰にも知らせずにずっと守ってるのよ。もし知らせる時は、その
人とは最期のお別れってこと」
「嘘だ…。だってあんたはこんなにしっかりと話して、歌も歌って――」
どうしてなんだ、という言葉はついに出てこなかった。握った手を引い
て、体ごと引き寄せて、その抱擁に飲み込まれてしまう。ヘフナーの胸に顔
を埋めたミリは、それから背伸びをして、その耳に何ごとかをささやいた。
「くそ……」
それを拒むようにヘフナーの頭が左右に揺れる。しかし、それだけだっ
た。
「ねえ、あなた、幸せ?」
ミリは腕の中でつぶやいた。
「…なんだよ、そんなわけが――」
「グスタフ、この子の代わりに答えてほしいの。私、この子をこの手で抱き
たかった。幸せになってほしかった。――でも、それがかなわないなら、誰
でもいいから、せめて代わりに答えてほしいのよ」
ヘフナーはしばらく黙り続けた。そして、ようやく顔を上げる。
「ああ、俺は幸せだ。――これでいいのか?」
「ええ、私も幸せだったわ。ありがとう、グスタフ」
ミリは自分よりはるかに大きいヘフナーの背に精一杯腕を伸ばして抱き締
めた。
「さよなら。幸せでいてね」
「……」
それが、ミリの声を聞いた最後となった。
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