チャールダーシュ
KEEPERS ON THE RUN 外伝





第六章 『 記憶 』
「口実、か…」






「口実、か…」
 薄暗い廊下から階段を上ると、外はまた小雨になっていた。
 そのまますぐに立ち去る気になれずに、ヘフナーは掌の鍵をぼんやり眺め ていた。
 ミリは涙を見せなかった。青ざめた顔こそしていたが、彼女の言う「運 命」を悲しむ様子は見られなかった。
 自分を救えるのは自分だけ。そう言いながら、ミリは自分の秘密の名をヘ フナーに伝えた。会えない我が子の身代わりに。それが救いになるのだと も、彼女は言った。
 もう会えない。あの歌も、もう聴くことはないのだ。
「グスタフ!」
 通りの向こうから呼ぶ声がする。ハスキーな、老人の声だった。そこでヘ フナーはようやく気づく。いつもつきまとうムク犬のグスタフが、今日はま ったく姿を見せていなかったのだ。
 足早に近づいて来たのは、ずんぐりと背の低い老人だった。
「グスタフ、やっぱりグスタフだな」
 ヘフナーに目を止めるなり、老人は親しそうに両手を広げた。
「なんとまあ、よくもデカくなったもんだ」
「俺のこと、か?」
 ヘフナーはただぽかんとする。
「わしを覚えてるか、なんてことは言わないよ。おまえさんとは生まれたて の時しか会ってないからな」
「ここの、マスター?」
「そうだ。いやしかしまあ、見間違えようのない姿だな、ギュンターとそこ までそっくりそのままとは…」
 笑をこらえながらマスターは言ってはいけないことを口走りかけた。
「おっといかん、これは注意されてたんだった…」
「今、旅行から帰って来たのか?」
 ヘフナーはマスターの言葉は無視して話題を変えようとする。しかしマス ターのほうは怪訝な顔をしただけだった。
「旅行だと?」
「親戚の葬式だったんじゃないのか」
「何の話だ。わしはどこにも出掛けてなんぞおらん。店を開ける前に新聞を 仕入れてきただけだ」
「なんだって?」
 マスターはヘフナーの当惑には構わず、店への階段を下りていく。
「おい、わしに話があるんだろうが。早く来なさい」
 古い階段。古い照明。そして古い大きな木のドア。
 ついさっき通って来たばかりなのに、どこか印象が違う感じがした。ヘフ ナーはマスターに続いて店に入り、さっき別れを告げたミリの姿を探す前に 店内の様子に目を奪われる。
「違う。どうしたんだ。さっきまでこんなじゃなかった。――テーブルは全 部こっち半分に寄せてあったし、ステージの機材もまるで違う…」
「グスタフ、鍵を持ってきてくれたんだろう?」
 マスターは部屋の中を素通りしてステージ横までまっすぐに行くと、そこ で振り返った。
「ギュンターから話は聞いてるよ。おまえのお袋さんのピアノってのはこれ さ」
 ヘフナーはまだ呆然としながらピアノに歩み寄った。
「マスター、俺は…」
「どうした。ま、いいからここに座りなさい」
 マスターは強引にヘフナーをピアノの前に座らせてしまった。
「鍵はな、わしと、そしておまえのお袋さんだけが持っていたんだ。それを ギュンターが形見として引き取った。あの時からうちは専属のピアニストは 雇っておらん。このピアノも、たいては鍵をかけたままでな」
 ヘフナーは促されて、持っていた鍵でピアノを開けた。そうして困ったよ うにマスターを見上げる。
「おまえがここで生まれた時のことは、今もよく覚えているよ。まだ産み月 までかなりあったのに、ミリは容態が急に悪くなって、産むしかなくなって な」
「――ミリ!!」
 がたん、と、突然ヘフナーが立ち上がったので、マスターは肝を潰したよ うだ。
「おいおい――」
 しかし実際肝を潰したのはヘフナーのほうだったかもしれない。どんな時 も表情がほとんど変わらない彼がここまで顔色を変えることなどめったにな いことだ。
「ミリって、あのミリなのか…!?」
 ヘフナーはライブハウスの店内を、改めてぐるりと見渡した。確かに、こ こに彼はいたし、そしてミリもいた。
「そしてピアノを、弾いていたのに……」
「どうしたんだね、一体」
 ヘフナーは首を巡らせてマスターに目をやり、それからぼんやりとピアノ に目を戻す。
「『殺された小鳥がうたっている――』」
 低く、力なく、ヘフナーの唇から声が漏れた。
「グスタフ?」
「俺にもピアノが弾けたら、歌が歌えたら、あの歌が思い出せるかもしれな いのに…」
 マスターはぽかんと口をあけた。
「その歌を知っとるのか、グスタフ。それは、ミリが何度も弾いていた曲だ よ! 弾くだけでどうしても歌おうとしなかったが、詞があったのか…」
「ああ、あったんだ。俺も一度きりしか聴いていないが」
「でも、どうして…?」
 納得できないという顔のマスターには答えず、ヘフナーは静かにピアノの 蓋を閉めた。そして自分の手に、じっと目を落とす。
「マスター、教えてくれ。――それで、ミリは、どうなったんだ?」
「あ、ああ」
 マスターは少しためらったが、ヘフナーの肩に手を置いて、低く付け加え る。
「ミリは、おまえさんを産み落とす前に、もう息を引き取っていたんだ」
「……」
 ヘフナーはぎこちなく頭を振った。
「もう会えないって、本当に、もう――」
「グスタフ…」
 マスターに呼び掛けられても、ヘフナーは顔を上げなかった。指先がわず かに震えている。
「ミリはな、おまえさんさえ無事なら、おまえさんを残しさえしたらあとは 何も必要ないって、そう思ったんだろうよ。なあ、それがミリの幸せだった んだ」
「……」
 無言で頭を抱えたまま動かなくなってしまったヘフナーから静かに離れる と、マスターはそっと奥のドアへと消えた。その嘆きが何であれ、一人でい させるべき時には一人でいさせるべきなのだ。
 ヘフナーはピアノに突っ伏したままずっと動かなかった。こんなふうに隔 てられることを、ヘフナーはまったく予測していなかったのだ。
 ミリは、何を知っていて何を知らなかったのか。別れの瞬間にヘフナーの 耳にささやかれた「秘密」は、何の意味があったのか。
 しかしヘフナーの頭は何も考えることを許さなかった。あのメロディ、あ の曲の音色が、ずっとぐるぐる回り続け、その終わらない悲しみが意識をひ たひたと浸していくのがわかる。それがすべてだった。
『――殺された小鳥がうたっている』
 記憶はそこから止まったままなのだ。





前へ | 戻る | 次へ