チャールダーシュ
KEEPERS ON THE RUN 外伝





第七章 『 コーダ 』
記憶はそれ以上先へは進まない。






 記憶はそれ以上先へは進まない。
 こんなに鮮明なのに。まだ体温さえも残っているような気がするのに。
 両腕に顔を埋めたままのヘフナーの肩に手が掛けられた。ほとんど重さを 感じさせないくらい静かに。
「マスター」
 声は微かに震えていた。
「しばらく、こうしていさせてくれ。もう、しばらくだけ」
 肩の手に、もうほんのわずか重みが加わった。
 そして腕が伸びてヘフナーの大きな背中を抱える。その体温がまたミリを 思い起こさせたのか、ヘフナーが身じろぎした分だけ髪が揺れた。そして低 く、声ともつかない声が漏れる。
 そのままどれくらい時間が過ぎたのか。
「さっきな」
 唐突な声だった。
「その上で犬とすれ違ったんだ」
「…えっ!?」
 弾けるようにヘフナーは体を起こした。そして自分を抱えていたのが誰な のかを知る。
「シュナイダー!?」
 ほとんど鼻と鼻がぶつかりそうなくらい間近に、シュナイダーの顔はあっ た。
「なんでおまえがここにいる!」
「泣きたい時は泣けばいいんだ。俺はいつもそうしてる」
 またどうにもシュナイダーのペースはズレている。ヘフナーは無表情なが ら顔は真っ赤になっていた。
「駅を出て、おまえのアパートに向かってたら、いつの間にか坂になって …」
「おい、俺のアパートならまったくの逆方向だぞ。ライン河の向こう側じゃ ないか!」
 シュナイダーに説明しても無駄であるが。
「そうしたら、大きな犬が出てきてな。その犬がここに入って行ったから俺 も来たんだ」
「おまえはそうやって犬と見ればついて行くんだな…」
「そうじゃない」
 シュナイダーは首を振った。
「なんか、おまえに似ていたんだ。のっそりしててな」
「悪かったな。それでその犬はどうした」
 シュナイダーはむしろ不思議そうにそんなヘフナーの顔をじっと覗き込ん でいた。
「それで中に入ったらおまえがいて、確かめたくて触ってみたんだ」
「――シュナイダー、それ、大きな犬って」
 ヘフナーはそこではっとしたようだった。
「灰色で、毛が長くて――」
「舌は黒かった」
 ヘフナーはゆっくりと立ち上がる。それにつられてシュナイダーも立って 周りを見回した。
「俺が、ミリに会った時も、あの犬が吠えていて、それで俺は――」
 グスタフという名を持つ犬。18年分の時の隙間を埋めてヘフナーとミリ が出会っていた時、いつもそばにいた犬。そう、最後の日を唯一の例外とし て。
「シュナイダー、俺はこの名前を自分でつけたんだ」
 ヘフナーは独り言のようにそうつぶやいた。
「子供の頃、いつもアウグステ伯母さんが話してた。引き取られた時、まだ ろくに言葉も知らないガキの俺が、自分でグスタフと名乗ったって」
「本当は、なんて言うんだ」
「ヘルナンデスから聞かなかったのか?」
 シュナイダーはこくんとうなづいた。
「戸籍には載っていないって、聞いた」
「それで納得するなよ」
 ヘフナーは苦笑した。
「いいか、二度と言わないぞ。俺の本名はギュンター・ヘフナー・ジュニア だ」
「そうか」
 シュナイダーの表情に変化は見られなかった。
「だけど俺たちが知ってるのはグスタフ・ヘフナーだな。違うのか?」
「いや…、いいんだ」
 シンプル極まりないシュナイダーの結論に、ヘフナーのほうが戸惑ったよ うだ。
「だからシュナイダー、俺を書類の上で探しても無駄なんだ。今度からは俺 自身を探せ。いいな」
 話し声を聞きつけて顔を出したマスターが、二人を見て驚いている。
「それにしても、ケルンまでは一応間違えずに来られたんだな。偉いもん だ」
「そうか? ミュンヘンの駅で一度列車に乗りそこねて、フランクフルトで 乗り換える時にホームを間違えかけたぞ」
 威張ってはいけない。
「そうしたら俺のバッグがいきなり手からふっ飛んでな。拾いに戻ったらそ のホームが正解だったんだ」
「バッグが――飛んだ?」
 ヘフナーがつい連想してしまったのは、いつかの宙に浮く受話器だった。 「まさか、それはないだろう、まさかな」
 キーパーという人種は、それぞれタイプが違っても結局は苦労人なのかも しれなかった。





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