ライン河はゆったりと逆流していた。
ここケルンは河口から100キロ以上上流に位置しているが標高差は驚く
ほど小さく、潮の満ち引きはなんとここまで達するのである。
「この橋は覚えているわ。私がドイツで最初に渡った橋よ」
鉄製の欄干にもたれて河の流れを見ていたヘフナーの背後に、軽い足音が
近づいて止まった。
「久し振りね、グスタフ」
ヘフナーは驚く代わりにアンジェラ・ヘフナーの顔を黙って見返した。
「相変わらず不意討ちでしか会えないのね、あなたって」
「不意討ちじゃなくて、騙まし討ちって言わないか、これは」
イタリア北部の生まれを物語る明るい色の髪を揺らして、アンジェラはに
っこりと微笑んだ。
「あら、騙したわけじゃないわ。ジノは急用でミラノに帰ったの。それで私
に伝言を頼んできたのよ」
「伝言…?」
ヘフナーはまっすぐ体を起こすと、アンジェラの前にずしんと立ちはだか
った。大柄な体格もさることながら、その全身から漂う不気味な圧迫感は大
抵の者をぎょっとさせずにおかないのだが、彼女に動じる様子はまったく見
られない。
「グスタフ、その前に、ママにキスしてくれないの?」
動じる以前の問題であった。
「帰る。チビたちによろしくな」
「もう、照れ屋さんなんだから。それだけはギュンターと似てないのよね」
アンジェラはヘフナーの前にまわると、容赦ない褒め言葉を持ち出した。
「伝言ってのはそれだけか」
「いいえ。シュナイダーのこと」
牽制でなく本気で立ち去りかけたヘフナーの足を止めさせたのはやはりそ
の名前だった。その効果まで弟から聞かされていたのかはわからないが、ア
ンジェラは自信たっぷりという表情で義理の息子を見つめた。
「ジノは愚痴ってたわよ。あなたとシュナイダーの仲介役は大変だって」
「俺は頼んだ覚えはない」
「シュナイダーのほうがね」
アンジェラはやはり笑顔を崩さない。
「あなたの居場所を知りたいってジノを責め立ててるんですって。だってグ
スタフ、試合中によ」
「……」
その非常識さかげんはヘフナーにもよく理解できたが、それをまた平然と
やってのけている二人の様子も彼には十分想像できるものだった。悲しい。
「シュナイダーは市庁舎を当たって探してたんですってね。なら、わからな
かったのは無理ないわ」
アンジェラはそこで真顔になり、じっと相手を見つめた。
「だって、あなたの本名を知らなかったんですもの」
「……」
代表を辞退して学生に戻ったヘフナーは、シュナイダーが自分を探してい
ることを実は知らなかった。
かつてのサッカー仲間たちはその後も同じように電話でやりとりし、時に
アパートを訪れ、つまりなんら不自由なく彼との交友関係を続けていたのだ
が、ただ一人シュナイダーだけは別世界にいたらしいという事実が、つい先
頃――あの大事件の中で――判明したのである。
もともと思い込みの激しい一途な性格なのが災いして、シュナイダーは
「ヘフナーは行方不明」という大前提でずっと行動していた…ようなのだ。
誰かチームメイトをつかまえて尋ねさえしていればすぐに解決したものを、
一人でただ途方にくれていたのだからどうしようもない。せめてそういう素
振りを少しでも見せていればよかったのだが、この孤高の皇帝は良くも悪く
も他人に理解できるほど凡人ではなかった。
それが一転してジノ・ヘルナンデスを標的にし始めたのというのは、「関
係者」の一人として認めたということなのだろう。もちろん、縁戚関係があ
るという意味ではとっくにそうなのだが。
「戸籍か。まったくまわりくどい手で…」
ヘフナーには心当たりがある。自分では普段は完全に忘れている心当たり
が。アンジェラもうなづいた。
「戸籍の上ではいないんですものねえ、グスタフ・ヘフナーって人間は」
その言葉に、ヘフナーはちらりと視線を返した。
「関係ないな。どっちにしてもシュナイダーには俺から話をつけるさ。試験
さえ終わったらな」
「几帳面って言うか…、融通がきかないって言うか、人生そんなに定規だけ
で測れるものじゃないのよ」
わずかに6才年上の継母はそうつぶやいて苦笑した。それから、もうだい
ぶ先に遠ざかりつつある背中に向かって呼びかける。
「家にも一度いらっしゃいな! 試験が終わったらでいいからー!」
ヘフナーは背を向けたまま手だけをひらひらさせて立ち去った。肯定とも
否定ともわからないままに。
「困った子ね、ほんとに」
アンジェラはにっこりと、それを見送ったのである。
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